聖なる土地に行く。
文字には文字の世界があるのでしょうか。
たとえば、「聖なる土地に行く。」という文。「せいなるとちにいく。」と声に出して言ったときと、「聖なる土地に行く。」と書いたときとでは違って感じられます。
それだけにはとどまりません。「聖なる土地に往く。」と書くとまた違います。さらには「聖なる土地に逝く。」となると明らかに違ってきます。
そんなことを言うなら、「せいなるとちにいく。」「せいなるとちにゆく。」「セイナルトチニイク。」「聖ナル土地ニ行ク。」も異なります。
こうなると、文字には文字の世界があるとしか言いようがないのです。
聖なる土地に
実を言うと、「聖なる土地に行く。」とは個人的には書きません。書くとすれば、「聖なる土地を訪ねる。」とか「聖なる土地におもむく。」と書くでしょう。
「聖なる土地」と「行く」とではアンバランスなのです。私の個人的な語感の話です。この「語感」という印象は私的なものです。人によって異なるにちがいありません。
「赴く」ではなく「おもむく」と書いたのも、語感から来るものかもしれませんが、どちらかというと好き嫌いから選んだ表記だと言えます。「赴」という漢字が苦手なのです。
聖なる
文字どおりに文字を取る。
よく書く文なのですが、言葉の綾として書いているだけで、その意味は不明です。私はいい加減な人間なのです。
文字どおりに文字を取るとは、どういうことなのでしょう。考えてみると、ますます不明になります。レトリックには大した意味はないとはいえ、気になります。
たとえば「聖なる」ですが、その意味となるとまったく分かりません。「聖なる」という言い回しがあるから使っている。正直に言うと、そうなります。
「聖なる」。いい響きでいい字面のフレーズです。厳かな雰囲気が感じられます。雰囲気ですから、文字どおりに取ったというよりも、「聖なる」という言葉の向こうを見ている気がします。
「聖なる」。じっと見ていると、「聖」が、耳、口、王からできていることに気づきます。これが文字を文字どおりに取るなのでしょうか。
そういうことにしておきます。
聖なるものを訪ねて
古井由吉の随想集に『聖なるものを訪ねて』があります。
ひょっとすると、このタイトルが頭にあって、この記事を書いているのかもしれません。「そう言えば、あったなあ」と思いだし、二階からその本を持ってきて、いまPCの脇に置いています。
『聖耳』という本もありますが、「聖」は古井由吉の文章にはよく出てきます。いちばん目につくのは、「日、月」なのですけど、これは誰の文章でも頻出する文字のようです。
古井由吉の文章では尋常ではないほど頻繁に目にします。「明」もそうです。「明」が半端ではなくよく出てくる『仮往生伝試文』はまさに座右の書で、いまもPCの「左」側にあります。
きのう、この本を読んでいてある箇所を目にして泣いてしまいました。古井由吉を感じてしまったのです。
一時間あまり前に、火ののこる灰をその中へ明けてしまったらしい。
古井由吉は下書きを鉛筆で書いていたらしいのですが、その削りかすをクッキーの入っていた空缶に煙草の灰といっしょに放りこむ習慣があり、ある日火が削りかすに移って缶が発熱した話です。
「空けてしまった」ではなく「明けてしまった」と書くその表記に、鉛筆で文字を書いていたその時の古井由吉を感じてしまったのです(古井は創作活動をはじめた頃から「開ける」「空ける」ではなく「明ける」という表記を好んで用いてきました)。
こんな素晴らしい体験は文字の世界でしかできないのではないでしょうか。