用言体と勝手に呼んでいるものについてお話しします。あくまでも個人的な呼び名なので分かっていただけるか心もとないのですが、説明させてください。イメージとしては古井由吉の小説やエッセイに見られる文章のつづり方で、主語が省かれていたり、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞の放つ強い光を避けながら書いていく方法なのです。
(拙文「【夜話】用言体」より)
名詞的なものはうつり、動詞的なものはつたわる。そんな気がします。
(拙文「名詞的なものはうつり、動詞的なものはつたわる」より)
移ると言えば、どこからどこかに移るのであろうが、そのどこかを特定することは大切ではない。大切なのはあくまでも「移る」という動きなのだ。ある事態や状況を名詞的にとらえて、「何か」や「どこか」を特定するのではなく、動きに注目するという思考があってもいいと私は思う。
というか、思考においては、むしろ動きのほうが名詞的な固定化よりも主導的な役割を演じている気がしてならない。
(拙文「うつすためには、うつらなければならない」より)
出そうで出ない
出そうで出ない。なかなか出てくれない。出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
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何が出そうなのでしょう? 何がなかなか出てくれないのでしょう?
上の文章では不明です。
「伝わる・伝える」を意識して書いた文章で、意識的に「何が」や「何を」を書いていないのです。省いているのはなく、書いていないのです。省くとは隠すことですが、隠すものがないのです。
「何か」
何かが出そうで出ない。なかなか出てくれない。何かを出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
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冒頭の文章に「何か」を入れてみました。補ったのではなく、入れたのです。
「何か」は保留する言葉です。特定しないで、とりあえず「何か」とするのです。特定しないと言っても、「何か」と名指していることに注目したいです。すっとぼけていると言えるでしょう。
冒頭の文章に「何か」を入れたのだから、「何か」が省かれるという形で隠れていて、いまそれを出したのだととも言えるでしょう。この辺の解釈は人それぞれです。
「あれ」
出そうで出ない。なかなか、あれが出てくれない。あれを出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
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冒頭の文章に「あれ」を入れてみました。補ったのではなく、入れたのです。
「あれ」は「何か」と同様に保留する言葉です。特定しないで、とりあえず「あれ」とするのです。特定しないと言っても、「あれ」と名指していることに注目したいです。すっとぼけていると言えるでしょう。
冒頭の文章に「あれ」を入れたのだから、「あれ」が省かれるという形で隠れていて、いまそれを出したのだととも言えるでしょう。この辺の解釈は人それぞれです。
うつる、つたわる
A)
出そうで出ない。なかなか出てくれない。出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
B)
何かが出そうで出ない。なかなか出てくれない。何かを出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。そうなのか。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
C)
出そうで出ない。なかなか、あれが出てくれない。あれを出したいのに出てくれない。来ている気配はある。そこまで来ているのは分かるのだが、そこから先に進む気配はない。いらいらするが、苛立つとよけいに出てくれない気がするので、気持ちを逸らしてみると、少しだけ先に進んだ感じがする。ただし、うかうかしていると、ずずっと動くそぶりが伝わってきて、漏れそうになる。ようやく出るかと安心したのも束の間、気を向けたとたんに動きがやむ。
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A)の文章では「伝わる・伝える」が前面に出てきてきます。「何が」「何を」がないからです。「出そうで出ない」という状況が動詞を中心に記述されています。私の中では、状況や動きは「伝わる・伝える」ものなのです。私が用言体と勝手に呼んでいるものは、こんな感じの文章です。
B)とC)の文章では「うつる・うつす」と親和性があります。「何か」や「あれ」があることによって、「何か」や「あれ」が「出そうで出ない」という話になっています。「何か」や「あれ」は代名詞ですが、名詞と同じく指示性があります。私の中では、名詞や代名詞は「うつる・うつす」ものなのです。
代名詞とは文字どおり、名詞の代わりです。名詞の代わりに、ぼかすようにして、つまり保留する形で名指しているとはいえ、その指示性は動詞よりもずっと強力です。名詞や代名詞の指示性、言い換えると何かを固定しようとする指向性は、動詞の喚起する動きよりも目立ちます。
B)とC)では、書かれている動きや状況よりも、「何か」や「あれ」が読む人の気持ちをつかむために、人は自分を投影(投映と書きたいところです)して自分を読んでいるとも言えます。書かれている言葉を読むのではなく、書かれている言葉に自分を読んでいるのです。
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A)の文章を読む場合に、人は動詞が呼びさます動きに浸ることになりますが、B)やC)では、動詞の主体つまり「〇〇は(が)」や、客体つまり「〇〇を(に)」に意識の大半が向けられることになります。
B)やC)を読むさいには、人は自分にとっての「何か」や「あれ」を当てはめることで、容易にその文章を自分の体験として読めるようになるとも言えるでしょう。したがって、A)よりは読みやすくなります。
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A)では、「動きや状況を伝える」ことが主眼となり、人はなかなか入っていけません。読みにくい、つまり慣れないと読むのに苦労するのです。他の言語に翻訳しにくいと思われます。この文章を英語に訳せるでしょうか。
B)やC)では、人は「自分の体験にうつす(移す・映す・写す)」ことが比較的容易ですから、読みやすく感じるでしょう。また、A)にくらべれば、他の言語に翻訳しやすいと思われます。そもそも翻訳とは「うつす」ことだからです。
私はA)を用言体と勝手に名づけています。考えようによっては、ありえない文章であり、自分語みたいなものですから、ひとさまには分かりにくいにちがいありません。
その意味では、駄洒落と似ています。読む人が乗ってくれないかぎり、単なるすべるギャグでしかありません。さしあたって、用言体を実践することが私の課題です。自分で書くしかないのです。