星野廉の日記

うつせみのあなたに

うつすためには、うつらなければならない

 人はうつるとうつすに嗜癖している。対象が、映像、文書、音声に関係なく、現在は「うつす」「うつる」が、端末さえあれば誰でもきわめて容易にできる時代になっている。嗜癖するなというのが無理なのである。

(拙文「うつるはうつる」より引用)

映像や文書や音声をうつす

 うつすためには、うつらなければならない。
 何かを、うつす、移す、映す、写すためには、自分が移らなければならない。
 何かを、移す(配布・引用・拡散)、映す(撮影・投影)、写す(引用・複製・録画・録音・保存)するためには、自分が移らなければならない。

「うつす」の対象を映像と文書と音声に拡大すると、表記がややこしくなってくる。和語に漢字をまじえたり、和語に相当する漢字を用いた熟語を併記するからだ。

 現在、「うつす・うつる」はさまざまな作業や処理をふくむ時代になっている。とりわけ、インターネットの普及は、「うつす・うつる」の対象を、映像と文書と音声にまで広げ、デジタル情報化するという形で一本化し、さらには、パソコンやスマホタブレットという簡略化された操作が可能な端末の一般化するにいたっている。

 ユーザーであるはずのヒトが、機械の操作に追いついているかというと、はなはだ疑問に思わざるをえない。

人がうつる

 心がうつる、思いがうつる、意識がうつる、気持ちがうつる、魂がうつる、身体がうつる、知覚がうつる。
 心をうつす、思いをうつす、意識をうつす、気持ちをうつす、魂をうつす、身体をうつす、知覚をうつす。

 心がはなれる、思いがはなれる、意識がはなれる、気持ちがはなれる、魂がはなれる、身体がはなれる、知覚がはなれる。
 心がつく、思いがつく、意識がつく、気持ちがつく、魂がつく、身体がうつく、知覚がつく。

 人が移るというのは、ここでは超常現象や神秘体験ではなく、誰もが日常に体験するだろう行為や状態を指している。

 たとえば、文章を読み書きしているさいには、人の意識はふつうではない状態にある。これは、自然界にはないという意味で、文字が不自然なものだからにほかならない。そもそも人が文字を相手にしなければならない必然はない。文字は人が作ったものなのである。

 文字の読み書きをするさなかの人は、文字を並べる、つまりつづる作業と、文面を考える作業と、直接には作文とかかわりのない思いの中を行ったり来たりしていると考えられる。

 集中力の問題なのかもしれないが、大ざっぱに言って、いま挙げた三つの作業と状態が、まばらに入り乱れている気もする。はっきりと分れているのなら、入れ替わっているのだろうし、まばらであったりだまだらであったりするのであれば、同時にある三つの領域が濃淡の波のように意識と身体を訪れているのかもしれない。

 いずれにせよ、移ったり、揺らいだり、離れたり、くっついたりしているように思える。

 意識や心や気持ちや思いや魂というものは、見えないし、実体もないだろうし、確認も検証もできないから、とりあえず言葉でそう呼んで、いじっているにすぎない。

 印象やイメージの問題なのである。

うつすためには、うつらなければならない

 うつすためには、うつらなければならない。

 和語は感覚的に体に訴えてくるとはいえ、多義的なために頭で整理するにはとりとめのない印象を与える。また、言葉を使うことは、言葉の世界の論理と文法に身をまかせることだとはいえ、どうしても現実世界の論理と文法に当てはめたい気持ちになる。

 単純に考えてみよう。

 何かを移すためには、人は自分が移らなければならない。

 何かは何であってもいい。石ころであっても、文字であっても、人であっても、ペットであってもいい。それを移す、つまり移動させるためには、それとその動作に意識を移さなければならない。

 意識は一面ではなくても、枠があって意識できる部分は限られていると考思われる。視界のようなものと考えるといいかもれしれない。視界には枠があり、枠の外は見えない。

 枠の中にあるもの全部が見えているかというと、そんなことはなく、視点や視線と呼ばれている意識の点や線があるような気がする。とはいうものの、視点や視線がそそがれている部分が見えているのかもまた疑問である。

 そもそも「見る・見える」とは言葉であって、その言葉が指ししめす事物があるとは限らないし、「見損ねる」「見落とす」「見えない・見ない」「見誤る」もある。

 人が何かを移すさいには、人はどこかに移っている。人の意識だけでなく、身体の一部も移っている気がする。移っているというのは、意識されていないとも言える。

 意識が意識されていないと言えばトートロジーであるとか矛盾だと考えるのは、矛盾である。言葉と事物が対応していない、つまり言葉の世界と現実の世界が対応していないことから考えて矛盾である。 

 言葉の世界の論理と文法は、現実世界の論理と文法や、論理と呼ばれている辻褄の世界の論理と文法とは異なり、対応していない。矛盾という言葉の喚起するイメージははなはだあやしい。

 したがって、人が何かを移すさいには、人の意識や身体の一部も移っている、つまり意識されていない気がする。

 移ると言えば、どこからどこかに移るのであろうが、そのどこかを特定することは大切ではない。大切なのはあくまでも「移る」という動きなのだ。ある事態や状況を名詞的にとらえて、「何か」や「どこか」を特定するのではなく、動きに注目するという思考があってもいいと私は思う。

 というか、思考においては、むしろ動きのほうが名詞的な固定化よりも主導的な役割を演じている気がしてならない。

 名詞は、不自然で人工的です。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいのではないでしょうか。観念だからです。ないのです。だから、見えません。あるものないもの、見えるもの見えないもの見境なく「名づけた」結果なのです。その意味で、ひょっとすると名詞は不自然どころか反自然なのかもしれません。

 動詞は、自然の状態であり常態であると思います。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいですが、世界と宇宙は動詞的なものに満ちている気がします。動詞も名づけられたものであることはまちがいありません。でも、名詞と違って動きや様態に注目している点において、動詞の向いている方向は、名詞の抽象性とは異なる気がします。比喩的に言うと動詞は地に足が付いているのです(名詞は出不精で動きたがらない)。

(拙文「名詞的なもの、動詞的なもの」より)