星野廉の日記

うつせみのあなたに

うつるはうつる

文字の不自然さ

 表情、身振り、話し言葉(音声)、書き言葉(文字)のうち、文字だけが残り、あとの言葉は発した瞬間に消える。
 言葉を口にする、書く。
 言葉を耳にする、目にする。

「書く」だけが浮いている。赤ちゃんを思いうかべると「書く」がないのに気づく。「書く」は、「なぞる」「まねる」「写す」という行為を通じて系統的に学ぶ必要がある。

「書く」には体系があり、その意味では不自然なのである。無文字社会や無文字文化はあっても、無言葉社会や文化はありえない。

 文字に体系があるというのは、文字は段階的に意識的に学ばなければならないということだ。これは文字が目に見える形で残り、保存されているからだろう。

 体系化するためには、その対象が目に見えていなければならない。目に見えないものを整理するためには記憶に頼る必要があるが、整理どころか体系化しようと望むなら、並々ならぬ記憶力を要するにちがいない。

 並々ならぬ記憶力がなければ扱えないものがあるとするなら、それは自然界には見られないという意味での「不自然なもの」であり、おそらく人工物だと言えるだろう。

 文字をある程度習得した者にとって、文字は当然のものであり、自然なものに感じられるのは学習の成果にちがいない。習得する過程での苦労を忘れているという意味である。

 この当然という感覚は思考停止にほかならないが、文字を使用するためには、文字の不思議さにとまどっていたり、こだわっていられないことを考えれば、この思考停止も当然だということになる。

固有名詞をうつす

 表情、身振り、話し言葉(音声)、書き言葉(文字)。
 言葉を口にする、書く。
 言葉を耳にする、目にする。

 言葉を口にする、書く、耳にする、目にするという行為は、言葉をうつしていると言える。「うつす」は動詞だが、どの動詞も、限定的なものであって、ある動きの一部を言い表しているのにすぎない。これは名詞と同じである。

 言葉は事物でない以上、言葉は事物の一部しか、うつせない、つまり移せないし、映せないし、写せない。

 固有名詞という言い方がありますが、この世にたったひとつ、たったひとりしかないという前提に立ったレトリックです。

 固有名詞は、名前という呪文の中で最強であり、その放つ力はまばゆいです。文字どおり、目がくらむのです。中毒性と毒性も強いです。

 作家、音楽家、芸術家は、作品を残すと言うよりも、作品名を残しているというのが、日常生活を送るさいの感覚です。

 名前は最小最短最軽の引用だからです。 

(拙文「片想い」より引用)

 人名を口にしたり書いたりすることを引用だと考える人は少ないかもしれないが、引用以外の何ものでもない。この考え方から言えば、あらゆる言葉を口にしたり書くことが引用になる。

 誰もが生まれたときに、言葉がすでにあったわけだから、言葉は借り物だと言えるし、共有物だとも言えるし、引用するものだとも言える。借り物と見なせば貸し借りという連想が働き、共有物であれば汚さずに使うという配慮が生じ、引用という文脈で考えれば、現在であれば出典や著作権を気にする人もいても不思議はない。

 ある事物や事象を、ある言葉で述べたり論じるさいには、その言葉の語義やイメージにしばられるのは当然の成りゆきだ。言葉を使うことは、言葉の世界の論理と文法、つまりレトリックにしたがうことを意味する。

 固有名詞のうち、人名に話をしぼってみよう。名前こそが最小最短最軽最強の引用だからだ。名詞であり人名が最小最短再軽だというのは分かりやすいだろう。名詞には活用がないからすっきりもしている。

 人名が最強の引用であるというのは、人名に対する人の思い入れが大きいからにほかならない。名詞の中で人名ほど人がこだわりを示すものはないからだ。大切にもし、ないがしろにもする。人名は、名づけられた人の分身なのである。

 同姓同名はあるにしても、ふつう人はある人名で、ある特定の人物を思いうかべるだろう。人名を唱えたり、文字として記すことにより、その人名を持つ人物をうつす(移す・写す・映す)のであり、引用するのである。

 人名の書いてある名札を踏んだり、ハサミを入れたり、切り刻んだり、インクで改ざんしたり、インクを塗って消したりするのにためらいがあるとすれば、それは人名が単なる文字や言葉や名詞ではないからだろう。これは、単なる人名ではなく、知っている人物や親しい人物、さらには愛する人の名前を思いうかべると分かりやすいだろう。

 人名以外に、これほどの強い輝きを持つ言葉があるとは思えない。その意味で、人名は最小最短最軽最強の引用だと言える。

うつるはうつる

 固有名詞。地名、団体名、集団名、国名、人名、作品名、商品名、商標。

 固有名詞の放つ光はまぶしい。固有名詞を出せば、そのまわりの言葉がかすんで見えるほどまばゆいため、聞いている人や読んでいる人が、文脈の大半を忘れて固有名詞だけを覚えていることも日常的に経験するにちがいない。

「〇〇についての話だった」「〇〇が△△だという話だった」というふうに〇〇という固有名詞が記憶の中心になる。

 固有名詞を口にしたり書いたりする行為は、その指ししめす事物を呼びよせることだとも言えるだろう。「呼びよせる」「招く」「連れてくる」「よみがえらせる」「その場に立ちあらわれる」「目に浮かぶ」「そこにいる(ある)ような気分になる」。

 こう考えると、固有名詞を唱えることが呪術的な行為に思えてきてならない。たしかにそうなのだろう。そもそも人以外のものを名づけることは、擬人なのである。

 人ではないものに声を掛け、名づけて、手なずける。名前という生餌(なまえ)、つまり生の餌を供えて、手なずけ、飼いならそうという気持ちが根っこにあると考えられる。

 固有名詞に話をしぼると、たとえば地名であれば、土地の名を唱えることで、自分がその土地を呼びよせ、同時にその土地に自分が一時的に「移った」気分になる。人名であれば、その人を呼びよせ、同時にその人になりきることもできる。やり方しだいではなりすますことも可能だろう。

 要するに、その土地に「移った」ような気持ちになり、その人に「乗り移る」のである。これは気分の問題であるが、そもそも人は気分で生きている。気分を想像力と置き換えても大差はないだろう。

 人名に話をしぼると、誰かに「なる」と「なりきる」と「なりすます」のあいだに、人はそれほど明確な境を設けていない気がする。虎の威を借る狐。

 現在、引用はきわめて容易にできる。ネット上ではいわゆる「まとめ」が横行している。日替わりで、誰かの名前、著作名、著作からの一節をうつして(移して、写して、映して)、その著作者になる、なりきる、なりすますことが可能な時代になっている。これは癖になる。

 記念写真のように、楽な気持ちで、人名、著作名、著作からの抜粋をうつし、その横に自分の名前やユーザー名を添える。もちろん、有名のほうが無名よりもその輝きはまばゆい。抜粋は忘れ去られ、うつされた人名と作品名が記憶に残る。

 同時に、そのうつした人物の名前も記憶に残る。正確に言えば、その人名のあるサイトに行けば、記念写真がたくさん見られるという記憶も残るにちがいない。

 名前はきわめて簡単にうつすことができる。うつすことで、自分がうつる気分にもなる。名前の中でも人名、人名の中でも有名な人の名前をうつすことは、最小最短最軽最強の引用である。

 うつすことで、自分がその威を借りるだけでなく、その人物になった気分にもなれる。つまり、自分がうつるのである。うつされた有名な人の人名は、さらにその名前を見た他の人たちにも「うつる」を伝染させる。うつるはうつる。

 人はうつるとうつすに嗜癖している。対象が、映像、文書、音声に関係なく、現在は「うつす」「うつる」が、端末さえあれば誰でもきわめて容易にできる時代になっている。嗜癖するなというのが無理なのである。