星野廉の日記

うつせみのあなたに

言葉をはなす、言葉をうつす

言葉をはなす

 はなす、放す、離す、話す、放つ、発する。

 何かが何かからはなれていく。何かの一部がはなれていくのかもしれない。何かが無傷のままに何かがはなれていくことも考えられる。「はなす・はなれる」ことによって、その何かが何らかの変化をこうむると考えるのが妥当な気もする。まして、人がはなしたり、人から何かがはなれていくのであれば、人は移り変わるのが自然ではないだろうか。

 はなされる相手が人である場合も、物である場合も、ひょっとすると事である場合もありうる。さまざまなケースを「はなす・はなれる」という言葉でおおざっぱにとらえてみる。

 英語のonとoffのイメージを借りてみる。接触しているものが、離れるというイメージ。離れるからには、その素地はあったわけだ。別個のものとしてくっついていた。溶けあっていたのではなく、くっついていた。

 剥離と解離と乖離という言葉が頭に浮かぶ。どれもが気になるイメージを喚起する。危うい語感のある言葉であり不穏なのだ。

 たとえば、剥離は、剥がれて離れていくこと。剥がれるというのが痛々しい。医学でも使われる言葉だ。本来は剥がれてはならないものが剥がれていく。剥がれた結果、何かの損傷が生じるニュアンスを感じる。

 遊んでみよう。言葉は剥離する――。これはいったいどういうことなのだろう。いま私は「言葉は剥離する。」という言葉をはなした。必然性もなく、ただ戯れにはなしたにすぎない。「言葉」と「剥離する」という二つの要素にはつながる必然も理屈も見当たらないに、いっしょにされてはなされた、はなたれた。

 無理やりいっしょにされてむりやり放りだされた感がある。この無理やりな感じと「言葉は剥離する。」が擬態している。言葉やフレーズや文の綾と、その綾が醸すイメージを掛けるのが私は好きだ。言葉を掛けるというのは、このように必然のなさと無理やりとかかわっている。

 掛け詞、韻、比喩、駄洒落というふうに言葉を掛けることで、言葉の音や文字や意味やイメージが一瞬つながり、次の瞬間には引き剥がされる。言葉を掛けて、それが人に引っ掛かるかどうかは賭けだと言える。かけるは宙ぶらりんでありサスペンス。

 言葉を掛ける場合だけではないだろう。どんな句も文も、言葉が分けられるものならば、言葉と言葉を一瞬つなげたものだとも考えられる。そして剥離されるのだ。「つなぐ」と「はがす」は人という場において起きる一瞬の出来事であり、その痕跡が文字であり記憶なのかもしれない。

 剥離。はなすからには、もともと分れていて、くっついていたものが剥がされて、離れるということか。はなされる素地があるもの同士がいつかはなれるのかもしれない。

 乖離。そむき離れる。背くは背中を向けること。背くからには、何らかの因縁やかかわりがあるはずだ。

 解離。解け離れる、解き離す。むすびをほどいてはなすのだから、からまるくらいにくっつき合っていたのか。いい意味にも悪い意味にも取れる。精神医学用語に、この言葉の見えるものがいくつかある。

 何かと何かがくっついていれば、はなれていいもの、はなれると困るもの、どちらでもいいものがあるだろう。はなれる前のくっつき具合や程度も考慮されるにちがいない。いずれにせよ、はなれる。

 言葉は剥離する。言葉が剥離する。
 言葉は乖離する。言葉が乖離する。
 言葉は解離する。言葉が解離する。

 どれも文字どおりに取って想像すると、もしそんなことが起きたとするなら、言葉をはなす、放つ、発するどころではない、深刻で恐ろしい状況だろう。とはいえ、まったくこうした事態が起きないとは考えられない。案外、起きているのかもしれない。

言葉をうつす

 言葉がはなれる。言葉が離れる。言葉が放れる。
 言葉をはなす。言葉を離す。言葉を放す。言葉を話す。
 言葉を放つ。言葉を発する。

 話し言葉は、発せられたとたんに消える。聞く相手がいない限り、相手が耳を傾けない限り、残らない。相手に音声が届けば、相手に移る可能性があるが、それが残るかどうかは分からない。そもそも残ったかどうかが確認できないし検証もできない。

 音声は消えていく。つぎつぎと発せられることもある。音声が「消える」と書いたが、この消えるの実相は不明。私には説明できない。

 聞いた音声を反復して暗唱する、あるいは書きとめる。暗唱や暗記という言葉が懐かしい。自分が暗唱しているものはすぐには思いだせない。何かの拍子にふと出てきて、ああこれは一種の暗唱だと思うことがある。旋律や節のある歌や詩歌や長い文章の一節。断片であったり、かなり長いものであったりする。

 音声を残すには、録音や録画という方法がある。その方式はアナログであったりデジタルであったりするのだろう。録音されれば、音声が何かに置き換えられるのだから、複製と拡散が可能になる。再生と呼ばれることがあるが、完全な再生はありえない。

 音声を移すためには、置き換えなければならない。音声を移すとは置き換えることに他ならない。そもそも言葉をうつすことは妥協なのであるが、それを妥協だと意識しないことが暗黙の了解になっている。興ざめするからだろう。現実をつかみきれない人間にとって、大切なのは努力目標でしかない現実ではなくむしろ現実感であり、よくできた臨場感は悲願なのだ。

 書き言葉は、発せられても、つまり書かれても残る。文字という形で残るから消さない限りは保存ができる。移す(移動・翻訳・拡散)、写す(筆写・印刷・複製・拡散)、映す(写す・映像化)が可能だ。

 インターネット上では、リアルタイムの投稿によって、移すと写すと映すが同時に起きる。液晶画面を見ながらの文字の入力は、執筆であり投稿であり複製であり、同時に拡散である。この実相は私には不明であり、説明できない。

 自分の書いた言葉たちはどこに行くのでしょう? 

 ネット上で文章を公開しているとよく考えます。noteで下書きをつくり、それを投稿したとたんに、あなたの目に触れることになります。あなただけではありません。不特定多数の人に読まれる可能性が生じます。一瞬に、ですよ。

(拙文「【小話】書いた言葉はどこに行く」より引用)

 現在は、音声も文字も映像もデジタル化された情報として処理されているようだ。その意味では、その処理には大差がないのかもしれない。

(前略)

 そして、目を打ち開いて眺めよ、青い眼薬を塗れ、と励ます。

 八百年ほども昔に生きたイスラムの神秘家詩人の、「七つの谷」と題する記から、おそらくいくつかの言語に谺して、二十世紀になりドイツ語に訳され、断片として私の耳にまでようやく響いて来た声である。

古井由吉作「埴輪の馬」『野川』(講談社刊)所収)

 詩人の言葉が、「いくつかの言語に谺して」「ドイツ語に訳され」「耳にまで響いて来た声」と要約できる。「谺する」というのは翻訳を指しているのだろうが、「響く」ともまさに共振する素晴らしい言い回しだと思う。

 比喩的なだけでなく詩的にも感じられるのは、ギリシア神話に登場するエーコーを連想するからだろう。ナルキッソスが水面に自分の姿を「映した」のに呼応するように、エーコーの発した歌の節がこだまになった、つまり強引に言えば「うつった」という逸話がある。こだま、谺、木霊、木魂という複数の興味深い表記も思いうかべずにはいられない。まさに響くのだ。

 詩人が発した言葉が声でそれが書きとめられたのか、そもそも文字として書かれたものなのかは知らない。いずれにせよ、「目を打ち開いて眺めよ、青い眼薬を塗れ」と発せられた言葉が、別の複数の言語に移され、ドイツ語訳となったものを古井由吉が読み、日本語にした一節が『野川』に引用されている。

 その日本語訳を読者である私が読み、それを私が引用という形でうつした(移した・写した)一節が、あなたの端末の画面に映され、それをあなたが読んでいる。「八百年ほども昔」にイスラムの詩人によって「はなされた」言葉が、いくつもの「うつる」を経て、ここに「ある」。

 谺して響いてここにあるとも言える。そうは言えても、私にはその実相がつかめない。いったい何がどう起きてこうなっているのだろう。はなす、うつす、こだまする、ひびくという言葉を使っても、空しいだけだ。

 はなされた言葉が、こんな経路をたどることに本気で驚いていいはずなのに、その驚きが実感できないでいる。頭で理解したつもりが、つかめていないし、言葉ですくい取れてもいない。ただただもどかしくてならない。