星野廉の日記

うつせみのあなたに

虫眼鏡で写真を見る

 虫眼鏡で昔の写真を覗きこむ。保育園児だったころの写真。写真の隅に写っているものに見入る。おそらくもう誰も目を向けないし誰の記憶にもない物たちやかずかずの景色。

 消えてしまった世界の細部が写っている。うつつの欠片がうつっている。現のかけらが立ちあらわれている。

 うつうつ、うつらうつら、うつつ、ゆめうつつ、ゆめ、いめ。そのさかいはさだかではない。

 うしなわれた世界の細部がそこにうつっている。思いだすのではなく、そこにあって見える世界のかけら。忘れられかえりみられることもない、無数の世界のかけらたち。

 いや、欠片の影たちと言うべき。うつっているのはかげにすぎない。うつしにすぎない。

 虫眼鏡、カメラ、鏡、ガラス。ガラスは影を見るために、さらには影をつくるためにある。硝子を通して見える世界の欠片、硝子にうつる世界の影、硝子であらわれる世界の写し。

 ガラスはそれ自体を見るためにあるのではなく、その向こうや別世界、ひいては異世界を見るためにある。言葉に似ている。むしろそっくりと言うべき。

 人は硝子を磨く。それ自体を見えなくするほどの透明さを求めてつくった硝子を、今度は輝きとなめらかさを求めて、ひたすら磨く。体感であったはずのものが思いに変わる。願いや祈りに取って代る。

 透明さと輝きとなめらかさが観念と化し、五感を超えた体感と化す。硝子にうつる影が体にしみ入り、外が中とつながる。一体感とは忌まわしい美辞麗句でしかない。

 ごつごつしたものも、あらいものも、こすってみがくことで平たくなる。曲がったり折れたものも、なんどもなんども曲げたわませることで、しなり、しなやかになる。皺と襞と凸凹をのばし、すべすべにする。

 ひらたいもしなやかもすべすべもまっすぐも観念にほかならない。人は観念をなでる、めでる。観念は整然として美しい。不自然であるからこそ、うつくしい。

 うつくし、うつし、うつせ、うつせがい、うつす、うつろ、うつつ、うつらうつら。うつしうつる。うつしたものこそがうつくしい。

        *

 なでるはなぞる。なぞるはなぞ。

 何をなぞっているのかは分からないままになぞる。その意味では人も他の生き物たちと同じ。ただし人は、それて、はずれる点が異なる。とほうもなくずれている。しかも、ずれてそれてあやまってもあやまらない。

 なぞる。くうをなぞる。そらの雲をなぞる。くうにも、そらにも、点はない。点も線も面も観念であり思いでしかない。

 指で指した先が点であり、指でなぞった流れが線になり、指で掃けばそこが面になる。指の動きを目でなぞって追う。なぞるがうつる。中と外がつながる。うつるが中と外をつなげる。

 細かい点をさらに細かくして集めれば、直線にも曲線にもなる。四角にも円にもなる。とんがった角にも、まんまるにもなる。

 なるのではなく、そうみえるだけ。なるは人をこえている。人はみるだけ。人はみてくれにこだわる。みかけにかかずらう。みかけだおし。

 なぞるはうつる。うつるが中と外をつなげる。細かい点をさらに細かくして集めれば、直線にも曲線にもなる。四角にも円にもなる。とんがった角にも、まんまるにもなる。

 細部をあつめて全体をつくるのではない。細部があつまってできるのは、やはり細部。

 人は小さい。小さなものが大きなものを夢見る。大きなものの代わりに小さなものですます。代わり変わる。かわるを見ないという鈍さこそが人智

 あるものに触れられないと気づき、ないものを見ることに血道を上げる。見えるものではく見たいものしか見ない。ないはずの見たいものだけを見るようになったあげく、あるものの報いを受けることになる。

 あるものと見えるものの代わりに見たいものを追う。その代償がないわけがない。

 人は印象の世界にいる。似ているの世界に生きている。まだらでまばらな世界の住人。かわりとうつしの世界に生きている。同一も本物も現物も源泉も、人の思いのなかにしかない。

 みる。ながめる。見つづける。ながめる。ちかくをみつめ、とおくをながめる。ちかしくしたしいものが、とおくへだたったものへとうつる。うつるのは、人の思いのなかでの話。話はかたるしかない。

 うつる、転じる。点が線と面に転じる。面が立体へ、縦横の立体が時の隔たりへとうつる。うとうとうつらうつらがうつつへとうつる。うつったとしても、うつしであり、かわりでしかない。

 小さなものから大きなものへ、短いものから長いものへ、近くから遠くへ、こっちからあっちへ、ここからかなたへ。あるからないへ。ないからみえるへ。

 みるはみられる。みいるはみられる。みいられみいる。みいりみいられる。

 虫眼鏡で昔の写真を覗きこむ。真ん中に写っているものではなく、隅っこに写っているものに見入る。欠けたかけらにみいる。みにくくかけたかけらにみいられる。

        *

 昔の写真の隅っこを虫眼鏡で見るのが好きです。好んで見るのは、保育園児だったころに撮られた遠足や学芸会や運動会の写真が多いのですが、大切なのは隅っこです。撮った人は何かを撮ろうとして撮ったにちがいありません。撮ろうとしたものは真ん中あたりに写っていると考えられます。だからこそ、私はわざと真ん中を避けて隅っこを拡大して見ます。

 同じ写真をそうやって見ている人は、おそらくいないでしょう。歳を取るにつれ、複製された同じ写真はどんどん減っていくはずです。もうネガは存在しないかもしれません。当時は写真は貴重なものでした。カメラのある家庭がめずらしかった時代です。保育園専属の写真屋さんがいた記憶があります。行事があると、カメラを手にしたおじさんがやって来ました。

 いま私が見ている写真の多くは、そのおじさんが撮ったと思われます。撮った写真の見本が、後日保育園の壁に貼りだされて、保護者が見に来るのです。それで注文を取っていたのではないでしょうか。ある写真に写っている園児の数だけの写真が確実にあったと思われますが、それらもいまでは失われたり、しまい込まれたりして、見る人はあまりいない気がします。あったとしても、いつか遺品整理の対象になるにちがいありません。

 写真には忘れ去られ消えてしまった世界の細部がうつっているのでしょうが、虫眼鏡を手に見ている私には、別世界であり異世界にさえも感じられます。私は山国で生まれ育ったのですが、戸外で撮られた写真の隅にはたいてい山や木々が見えます。人物の背景にうつっている山のかたちやすがたは、いまでは変わっているのでしょうか。木々はいまではかたちを変えてそこにあるのでしょうか。園児の足元に見える大小の石は、いまもそのままそこにあるのでしょうか。隅っこにある小さなかけらこそが愛おしく思えます。

 虫眼鏡で拡大した細部はいびつでぼやけて見えます。とおくをうつす影だからでしょう。硝子と同じく影自体を見ることはできません。つい何か別のものを見てしまうのです。本体ではなく、かなたを見てしまうのです。