星野廉の日記

うつせみのあなたに

言葉の重み

 連日報道されるニュースを読んだり見たり聞いていて感じるのは、言葉が大切にされていて、同時に言葉がないがしろにされている事実です。「大切にする」と「ないがしろにする」が同時に起きているという意味です。

 人のやっていることは、たいてい最終的には言葉になります。言葉にされて、言葉として処理されるのです。

 何が言葉にされ、言葉として処理されるのかというと、現実や思い、そして言葉でしょう。具体的には、現実とはたとえば事件や出来事、思いとはたとえば願いや不満、言葉の例としては発言や書簡や法が挙げられます。

 司法の目的は逮捕でも身柄の拘束でも処罰でもなく、書類を作成することにある――。

 学生時代に、そんな意味のことを読み、感心したことを思い出します。あらゆる事件は最終的に言葉として処理され、保管されるということですね。事実、そうなっています。

 司法だけではありません。立法も行政も、最終的には書類作りで完了します。それが官僚にとっての完了なのです。後のことには関知しないみたいです。現場が苦労するだけ。人々に付けが回ってくるだけ。選んだ付けが。

 なぜでしょう? どうしてこういうことが起きているのでしょう? 法が言葉だからです。正確に言えば、法は書き言葉であり文字なのです。書き言葉の処理がうまい者が優秀な官僚なのです。あと、口先でしょうか。

 歴史は、書類をもとに編まれます。その積み重ねが文化であり、文明であると言えそうです。

 話を戻します。

 ある事件や出来事を言葉にすると、すったもんだが起こります。言葉の応酬が、喧嘩、取っ組み合い、殴り合い、殺し合いへといたるのは、皆さんご存じのとおりです。

 言葉や言葉遣いをめぐっての争いであることに注目しましょう。言葉に過剰にこだわるのは、人と言葉の間にただならぬ関係がある証左ではないでしょうか。

 ひとつ例を挙げると、住民の保護、平和的解決、侵攻、侵略、このどれもがある出来事を指しています。こうした言葉が世界中を飛びかうのです。ああでもないこうでもない、ああだこうだ、と。飛びかう言葉が銃弾やミサイルや爆撃機の前触れに見えてきませんか?

 言葉のうえで辻褄さえ合えばいい。

 万事がそんな感じで処理されます。法が言葉だからでしょう。法律、法則、宗教的な意味での法、つまり教え、これらすべてが言葉として存在しています。

 情報も言葉です。現在は情報がきわめて大きな役割を果たしています。具体的には、情報操作、宣伝、情報戦です。これらを制した者がすべてを制します。

 戦争と平和が同義になる。解決と開始が同時に起こる。善と悪という言葉が応酬される。合法と非合法、法治国家と無法国家、フェイクとファクトとトゥルース、法に則ってと法を無視してと法を曲げてが複数の集団の思惑に沿って同時に起きる。ご飯論法どころではありません。

 各国には、辻褄合わせのオーソリティがいます。言葉の体裁をつくろうのに長けているのです。官僚、政治家、そして現在ではおそらく広告代理店も。みんな代理なんです。みなさんの。

 争う当事者たちのそれぞれが、言葉のうえで辻褄を合わせるという点は同じなのです。それぞれが合法を主張し、それぞれが自分たちの善と正しさを訴えます。最終的には、力、権力、武力で決まっているのに。

 銃を持っている側は強いです。正確に言うと、「合法的に」銃を持っている側、つまり権力です。

「合法的に」銃を持った側の主張が辻褄合わせのさいの論理の柱になります。論理とは、えてしてそういうものです。権力と武力こそが論理の支えになります。

 まだ言葉のうえでの辻褄を合わせようとしているだけましなのでしょうか? 

 言葉の辻褄を合わせることさえしようと努力しなくなったら、いったいどうなるのでしょう?

 言葉が大切にされています。言葉がないがしろにされています。両者が同時に起きています。

 こうした事態に対してなすすべはあるのでしょうか。歴史を見ると、同じことが繰り返されているのに気づき、無力感におそわれます。

 言葉が重いことだけは確かなようです。繰りかえしますが、法が言葉だからでしょう。法律、法則、宗教的な意味での法、つまり教え、これらすべてが言葉として存在しています。そして、情報もです。

 人は言葉にひれ伏しているかのようです。それなら、言葉を大切にしてほしいと言っても、それぞれが「大切にしてるし尊重しているじゃないか」と答えるでしょう。

 言葉は人の外にあるのかもしれません。人類だけでなく、それぞれの人の外に、です。手をつけているつもりが、手がつけられないのです。手が届かないのです。手中にないことは確かでしょう。

 逆にいうと、外にあるからこそ、言葉にひれ伏し、言葉のうえでの辻褄を合わせるのに血道を上げるのです。崇拝の対象は外に存在するものでなければならないとすれば皮肉なことです。