星野廉の日記

うつせみのあなたに

身振り、振りをする、演じる

 私たち誰もが生まれたときに、すでにまわりにあって、それを真似たり学んだりして自分の中に取り入れていく。その意味で、言葉は私たちの外にあって、外からやって来るものだと言えるでしょう。

 そんなものの例として、動作を加えてもいいと思います。

 じつのところ動作と言葉にはよく似たところがあり、げんに動作が言葉となっているものに手話があります。私は障害者手帳を持つ重度の中途難聴者なのですが、難聴が進行するのを恐れて手話を勉強していた時期がありました。

 日本で広く用いられている手話には、日本語とは別の言語である日本手話と、日本語に対応させた日本語対応手話がある。手話の勉強中に、そんなことを教えてもらいました。両者の違いについては、どうかお調べください。

 習った手話はごく初歩的なものでしたが、いまではすっかり忘れてしまいました。使う機会がないからでしょう。言葉は使いながら覚えていくものだと痛感しています。その代わり、補聴器や字幕や筆談のお世話になっています。

 すっとぼけや空返事――聞こえなかった振りや分かった振りをするのです――もうまくなったもようです。ついつい、そんなことをしてしまいますが、その場しのぎですから、何の解決にもなりません。悪い癖です。

 私は朝の連続テレビ小説が好きです。ほぼ毎日見ています。

 何がおもしろいのかといいますと、パターンなのです。音声が聞き取れないので、家事をしながら字幕のあるテレビ画面で見ているのですけど、俳優の表情と動作から、ストーリーやその場の状況をつかもうとしている自分に気づきます。

 字幕を見ていないときもあります。それでも大まかな状況やストーリーが読み取れるのです。表情と動作にはパターン、つまり決まった型があり、それに助けられて、いま起こっている出来事を推測したり、次に起こることを予測したりするわけです

 あと、顔芸も大切です。目や眉や口や顔の筋肉の動きは、表情という形であらわれますが、朝の連ドラは演出がしっかりしているからか、俳優さんたちはとても分かりやすい表情をします。

 こういう分かりやすい演技をくさい演技ともいいますが、ある程度くさくないと、こっちは分からないのです。

 顔芸だけでなく顔も大切な要素です。ドラマで誰か新しいキャストが登場するとします。初めて見る人というか配役が出たとたんに、これは悪い人だとか、これは暴力的な人だとか、これはいい人だとか、これはいい人ぶった悪人だとかが瞬間的に分かるのです。

 で、そのまま見ていると、やっぱりねという展開になり、満足する自分がいるのです。じつによく分かるのです。さすが全国津々浦々の老若男女を対象にしているだけあります。

 よく出来ているなあと感心しないではいられません。

 だからこそ、ドラマが大の苦手な私が、何年も見続けているのだと思います。シリーズが変わっても、分かりやすさは変わりません。不動の安定感。伝統の分かりやすさ。これはすごいと思います。

 動作や仕草や表情には個人差もありますが(あと文化や地域や言語による違いもありますね)、地域を国内に限ると共通する部分のほうが多い気がします。ましてドラマやお芝居の演技は作られたものですから、分かりやすいように、つまり伝わりやすいように演出されているのです。

 ジェスチャーとか身振り言語という言い方がありますが、身振りや表情は言葉であり、言語だと思います。言語である手話には文法もあり、手話言語学という分野もあるそうです。

 とはいえ、手話を用いている人たちは、文法を習って覚えたわけではありません。日本語やその方言と同じく、生活の中で真似て学んでいったのです。

※聴力に障がいを持つ人たちにとって、かつての聾(ろう)学校と現在の特別支援学校の果たした、そして果たしている役割はとても大きいです。日本手話は日本語とは異なる言語ですから。

 動作や仕草や表情ですが、テレビドラマやお芝居や映画で演出されたものと、日常生活で目にするものとは、似ているところもあれば、異なるところもあります。ある同じ動作、仕草、表情が異なった意味あいで使われたり、異なったメッセージを発しているという状況もきわめて多いと感じられます。

 ある動作がふたつ以上の意味を持つ、あるいは「意味を持つらしい」なんてことも、日常生活ではざらにあります。これは状況や、誰がその動作をしているかによって決まることもあるし、そうではない、あるいは「そうではないらしい」場合もあります。

 日常生活で見掛ける身振りや表情は、テレビドラマの演技(とくにくさい演技つまり分かりやすい演技)よりもはるかに複雑であり、複雑怪奇と言いたいくらいです。

 ぶっちゃけた話がよく分からないのです。あれよあれよと、現実は進んでいきます。

 つまり、「意味を持つらしい」とか「そうではないらしい」と書いたのは、確かめることができない時と場合がけっこうあるという意味です。相手とのやり取りを中断して、その意味を確かめるというのは、じっさいには難しいからです。

 障がいを持つとこういうことはよくあります。遠慮が働くのかもしれませんし、単に面倒だという理由もあります。

 動作、身振り、仕草、表情。

 真似る。振りをする。演じる。

 身振りや表情を見て、その意味やメッセージを受け取る。あるいは受けとり損なう(意外とこのほうが多いのです)。

 身振りや表情を受けとり損なうことがよくあるのは、言葉と同じく身振りや表情が外にあって、外から来るものだからではないか。

 外にあるものは、所有できないし(自分のものにならないし)、共有する(他の人といっしょに使う)のもままならないのではないか。

  外にあって、外から入ってくるように見えて、それは入ってきたと言えるのか。

 外にあって、外から入ってきたとして、それを思考の助けとして、あるいは伝達の手段として使うことが可能なのか。

 可能だとして、どれだけの有効性があるのか。どのような限界があるのか。

 自分の問題として、自分の身のまわりを見ながら、自分で考えてみたい。

 最近、そんな気持ちが強くあります。