星野廉の日記

うつせみのあなたに

移動しながら静止している

 車の話です。

 運転者や同乗者は動いていながら動いてはいない。というより、自分が動いているとつねに意識しているならば、きっと差障りがあるのでしょう。

 車は動いているけど、自分は左右にも上下にも動いていない、つまり快適だ。さもなければ酔うに決まっています。事故を起こすにちがいありません。

 車も人もうまくできているなあと感心せずにはいられません。列車も船も飛行機も、そしておそらく宇宙船や宇宙ステーションも。

 自転車もそうです。忘れていました。あれは全身で乗っています。もう乗れない体になりました。

 あと、体や意識もそうです。人は体や意識という器とか乗り物に収まっているのではないかという話です。どう思うかは人それぞれです。

 車では、運転者がカーナビの画面を見ることがあるし、音楽を聞いていれば、意識の一部は遠くどこかに飛んでいる。同乗者と会話したり、考えごとをしていても意識は部分的に飛ぶに決まっています。それでも運転はできるのですから、車がそういうふうにつくられているのでしょう。

 乗り物では同乗者や乗客がパソコンやタブレットスマホをいじっている場合もあります。自分の体が移動しながら、頭の中でめまぐるしく移動したり動いたり歌ったり読んだり書いたりしているわけです。

 場所とか移動とか自分とか他人、そうした言葉でしか知らない事物や現象が不明に感じられてきます。そうしたもの同士の境も分からなくなってきます。たぶん分かったり考える必要はないのでしょう。考えることが、ときには生きる妨げになるという例でしょうか。

 自分が動かずに動きを見るという点では、車やインターネットは、スクリーンを見るテレビや映画に似ていますが、自由度が異なります。テレビにはチャンネルが変えられ、見ないでもいられるという自由度があります。

 一方の映画には、極端に言うと、椅子にくくりつけられてスクリーンを強制的に見る不自由さがあります。

 この不自由さの極致が夢です。夢はどうにもなりません。椅子に縛られて強制的に見せられるのが夢です。しかも観客はひとりだけなのです。

 どんなに愛している人とも、いっしょに夢を見ることはできません。眠った瞬間に、人はひとりになります。たとえ、ふたりで寝ていても。

 文字どおりの同床異夢ですが、これとは逆の異床同夢を夢見てつくられたのが、映画やテレビやネットなのかもしれません。好きな人と同じ夢を見たい、同じ夢の中にいたいものです。

 人でいるとは、それぞれが別人として生きることですから。ふつう他人とは言わない親子でも別人です。

 愛する人や仲間と同じ夢を見たい、同じ夢の中にいたい。死後も……なんて夢見るのは、たぶん欲深いのでしょう。こればかりは死んでみないと分かりません。

 とはいえ、たったひとりで見るのが夢と夢うつつであり、集団で見る夢と夢うつつが現実(うつつ)なのであれば、集団で見る夢としてあの世があってもいいというのは、魅力的な考えですね。

 私はひとりでいるのが好きなので、個人的には、あの世でもひとりで見る夢が見たいです。ああ、なんて貪欲なのでしょう。まるで、あの世に行くのが当然みたいな口ぶりですね。そんなの分からないのに。

 現在は、場所や移動や静止という言葉でイメージしていることが不明になっている時代だと思います。

 移動するといえば歩くか走るしかなかった時代には、場所も「ここ」と「あそこ」と「ずっとむこう」くらいのものではなかったでしょうか。馬に乗るや、牛に乗るや、馬車や牛車や舟が出てきて、人の場所についての言葉やイメージが変わったと想像します。

 自分が器か乗り物に収まっているのではないかという思いはもっと古くからあったかもしれません。夢、思い、想像、空想では、「ここ」が不明になります。「あそこ」や「むこう」に居たり行ったり帰ったりするという思い、つまりイメージは太古からあった気がします。

 思いの中の「ここ」と、現実の「ここ」ではぜんぜん違うという考えもあるでしょう。

 まわりを見まわしてください。どこにいるかを確認したら、目をつむってみてください。目をつむって、さっき見て確認した「ここ」を思い描いてみてください。

 目を開けて見える「ここ」と、目をつむって体感する「ここ」は違っていませんか?

 あなたが見えているこの記事が映っている画面、たぶんnoteという場所を思いうかべてください。

 フォロワーさんたちとか、自分がかかわったことのあるユーザーさんの顔(勝手にいだいている顔です)とかアイコンとか、記事の内容の記憶から来る風景が浮かびませんか? 

 そういうものが「ある」場所がnoteなのです。いま、この文章を読んでいるあなたの「ここ」が「そこ」です。

 自分の居る場所を正確に言葉と数字で言ってみてください。

 国名、県名、市町村名、番地、建物なら何階の何号室。乗り物に乗っている場合には、どこを移動しているのかできるだけ詳しく言葉にしてみてください。

 そこが、たぶん抽象的な「ここ」です。抽象ですから体感できません。体験できない「ここ」だと言えます。

 いま挙げた全部が「ここ」なのだと思います。

 そう考えると、「ここ」って不明ではありませんか? こことは、こころにあるところだという気がします。

 そうじゃない方もいらっしゃるにちがいありません。人それぞれです。「ここ」もいろいろ、「こころ」もいろいろ、人生いろいろ。「ところ」変われば、品変わる。

 自分が地球に居ることは確かでしょう。あるいは銀河系とか、宇宙でもいいです。この世でもいいです。それも「ここ」でしょう。

「ここ」には「あそこ」や「あっち」や「かなた」や「むこう」も含まれているのかもしれません。たぶん、そうなのでしょう。

 2022年〇月〇日〇時〇分というふうに、時間というか時刻も、「ここ」とは切り離さない気がします。切り離せば、それは抽象になるという意味です。

 個人的には、「ここ」と「いま」あっての「ここ」と「いま」だとイメージしています。

 かつての「ここ」、あの時の「ここ」、これから来るだろう「ここ」。

 地球は動いているとか、宇宙は膨張しているというのは、知識であり情報です。抽象という意味です。いくら数字や数式や公式を挙げても、抽象を体感するのは難しいと思います。

 体感できない気づきとか学びの多くは抽象です。知識とか情報の多くも抽象ですから体感できません。ここでは、おもに体感の話をしています。

 体感が偉いと言っているのではなく、また正しいか正しくないという問題でもなく、体感の性質の話をしていると思ってください。

 たとえば、天動説は体感できます。地動説は体感できません。人はこども時代に天動説を信奉し、やがて地動説に改宗するが、その後も密かに天動説の信者でありつづけるとも言えそうです。

 大切なことなので繰りかえしますが、正しい正しくないの話をしているのではありません(そんなややこしい話は、ここでは無理です)。念のため。

 ま、これも人それぞれです。上で述べた抽象を体感できるとおっしゃっている人の頭の中を、「どれどれ」と覗くわけにはいきません。

「同じ」とか「同一」という言葉とイメージをつかって考えてみましょう。

 テレビのCMでマヨネーズが出てきたとします。その商品は、自分の家にある商品と同じです。「これこれ、これよ。三週間前に、スーパーでケチャップといっしょに買ったのよ」という感じ。

 別のCMで、渋谷のスクランブル交差点が出てきたとします。そこには三十年前に、あるいは三年前に、または三日前に行ったことがあるかもしれません。「あそこ、あの信号の真下にいたことがある」という感じ。

 で、その同じマヨネーズですが、同一ですか? 同一とは原則として世界に、宇宙にたったひとつしかありません。

 で、その信号の真下ですが、いま自分がそこにいない、CMで撮影された日の「そこ」は、自分の居た「そこ」と同じなのでしょうか? いま居る「ここ」に居ながら体感できない場所を「そこ」と称して、同一の場所だと言えるのでしょうか。

 言うだけなら言えると思います。言葉をつかうと何とでも言えるからです。考えこむ人もいるでしょう。人それぞれです。

「いま」と「ここ」は切り離せない。同様に「あのとき」と「あそこ」は切り離せない。そう考えると、CMに映っている「あそこ」が、自分の居た「あそこ」とは同一だとは私には思えません。

 CMの「あそこ」(正確には「あのとき」の「あそこ」です)には自分は居なかったという意味です。

 パソコンやスマホやゲーム機などの端末の画面に見入っているとき、自分はどこにいるのでしょう。音楽を聞いたり歌っているときの自分はどこにいるのでしょう。

 車を運転したり、乗り物に乗っているときの自分はどこにいるのでしょう。運転中に誰かと話したり、考えごとをしたり、音楽を聞いたりしているときの自分はどこにいるのでしょう。

 乗り物で移動しながら、端末の画面に見入っていたり、誰かと会話したり、物思いにふけっているときの自分はどこにいるのでしょう。

 たとえば、端末の画面に見入ったり、運転席からの車窓を見ているとき、端末を操作したり、運転している人はたいてい静止しています。というか、静止していると思っています。

 静止していると思いこんでいるとか信じているのほうが正確かもしれません。

 静止していながら、画面の中に見える、あるいは正面に見える、直線を進んだり、直線上で迷ったり、カーブしたり、回転したり、上下あるいは左右反対になったりしているのですから、画面を見たり、機械をいじっている人は不思議な時空にいるように思えてなりません。

 たぶん、静止しながら、つまりある場所で足踏みしながら、円運動をしているのでしょう。円運動をえんえんと繰りかえす。その円を切って伸ばせば、えんえんと伸びる直線や曲線になります。

 スクロールや、スライドや、コントローラーの頭なでなでや左右縦横凹凸運動は、じつは巻物(ロール)をどんどんめくっているのです。巻物を伸ばせば、直線にも曲線にもなるでしょう。しかも上下運動ありです。

 移動する、道を進む、ゲーム空間で動く、文書を読む、動画を閲覧する――こうした動き全部が円運動の反復と連動しているのではないでしょうか。

 それが静止したまま進む、つまり移動する仕組みだという気がします。空間の操作だけでなく、時間の操作でも同じだと思います。長針と短針が円を描くアナログ時計と、時間の進み具合の関係と似ています。

 円運動はとどまりながら進む、あるいは進んだ気持ちになるという横着な方法であり名案なのです。

 場所も時間も不明だという意味です。その不明という思いと、自分は動いていないという体感だけが、具体的な体験として「いま」「ここ」にある気がします。

 さもないと、運転ができないし、端末を操作できないし、画面を利用できないし、そもそもおかしくなってしまう気がします。

 これ以上おかしくならないために、この辺で失礼いたします。

 動くと止まっているとは、そうだと決めて、自分に言い聞かせることではないかというお話でした。

 もっと簡単に言うと、動くとは静止することなりというお話でした。人に限っての話です。