星野廉の日記

うつせみのあなたに

言葉の綾を編んでいく

Lay it where Childhood's dreams are twined
――Alice's Adventures in Wonderland by Lewis Carroll

 生きていないはずの言葉が生きているかのように、さらには生きているふりを装いながら死んでいるふりをしているかのようにも、見える。生きているふりのふりと、死んだふりのふりが、空振りし空回りしている。そんなふうに人に言わせたいように見えなくもない言葉の身振り。

 ふりのふりがカラカラとまわる。ふりだけが残る。振りだけがのこる。空回りの空(から)だけが回る。空(くう)だけが回る。まわるだけが回る。笑いだけを残して消える猫。チェシャ猫。知恵者ねこ。

 漢語系の言葉や漢字は、「ない」を「ある」ようにほのめかします。これは顔の問題だと思います。文字には顔がありますが、漢字のいかめしさはすごいです。漢語系の言葉を使うと頭が良さそうに見えるし、すごいことを言っているように見えます。

 字面が強面だとも言えそうです。ないはない、ことばはことば、ことばはものではない。こういう身も蓋もない、がっかりするしかないほど明快なことを「無は無なり」「言葉は言葉である」「言葉は事物ではない」と漢語系の言い回しで言うと、とたんに「ないはある」の振りをしてしまうという事態が生じます。

 がちで「ある」ように思えてしまうのです。いわば顔芸です。いつかは消えるはずの表情だけが「ある」のです。その存在感は無視できません。看過できないのです。

「無」なんて書かれると「ある」を感じてしまうとか、「無」に「ある」がつまっている気がすると言えば、分かっていただけるでしょうか? 漢字や漢語には何だか「思い」がつまっているようで「重い」のです。

 ただし、あくまでも日本語においての話です。また私という個人においての話であることは言うまでもありません。母語である日本語をつかう私にとって、いま書いているような言葉の顔をめぐっての話は、じつにリアルな文章体験であり言語体験なのです。

 漢語はないことをあると思わせる(におわせる、ほのめかす、ふりをする)日本語における仕組みではないか、なんて思ってしまいます。無い無い、無無なんていくら言っても、あるあると暗にほのめかしているのです。

 理性理性と感情的に叫んだり、論理論理と支離滅裂に連呼するのと似ています。要するに、言葉を文字どおりに取ると馬鹿を見るのですから、馬鹿を見たくなければ用心しなければなりません。

 ちなみに私は鏡を見ると馬鹿が見えます。

 言葉の世界と現実の世界は噛み合っていないとも言えるでしょう。まして一対一に対応しているはずもないのです。途方もなくズレているという意味です。そして、人はふつうそのズレには気づかないのです。

「ない」を「ある」とほのめかしてしまい、それにやすやすと人が乗ってしまうほどの漢語の強面と媚態も、ややこしくてめんどくさいですが、こういうめんどくささは、漢語だけではなく、日本語におけるどんな言葉にも言えそうです。

「真摯に」が「テキトーに」であったり、「スピード感をもって」が「のろのろと」であったりするのは、ご承知のとおりです。「分かった」が「分からない」、「承知しました」が「知るもんか」だなんて、当たり前ですね。

 ある場面では、「だめよ、だめよ」が「いいわ、いいわ」、「ぜったいにいや」が「もっともっと」だったりもします。政治の世界がそうです。ビジネスの世界もそうでしょう。

 めんどくさいですね。文字どおりに取れないのですから、きわめてM的な資質だと思わざるをえません。M的だというのは言葉だけではありません。その生みの親である人も、きわめてM的なのです。両者はともにMの世界に生きているのです。

 言語活動はSMプレイ。プレイするのは言葉と人。「プレイ(play)」、ここが大切です。遊技であり競技であり演技なのです。

 プレイでは、プレイだけが空回りします。プレイの主役は、じつはプレイヤーである言葉でも人でもありません。プレイのルールなのです。遊技のルール、競技のルール、演技のルールだとも言えます。

 ルールを見たことがありますか? 触ったことがありますか? ルールは抽象的なもの、観念、概念、枠組みですから、誰も見たり触れたりできません。「ない」のです。でも、「ある」と人は認識しています。

 ルールの親戚には、法律、法、規則、法則、真理などがあります。見たことがありますか? 触ったことがありますか?

 私は六法全書なら触ったことがあります。

 法は「ない」から文字でわざわざ書いて「ある」のです。「決めた」だけです。書いてあるのは、人が忘れるからにほかなりません。

 ないものはたいてい文字になっているので分かりやすいです。文字で書いてあるだけならば、それは「ない」と判断してもかまわないと思われます。

「ない」のに人は「ある」と思いこみ、それにしたがうということは、人の世界ではよくあります。それを除いたら、人は人でなくなるほど、人的なものだと言えそうです。その意味では、言葉に近いです。

 というか、人は言葉をとおしてルールをとらえます。言葉がルールなのではありません。人は言葉にルールを見てしまうという言い方もできるでしょう。

 あらゆるプレイ(遊技や競技や演技)にはルールがあります。あらゆるプレイには振り、つまり動きや仕草があるわけですが、その動きや仕草をつかさどるのがルールだとも言えそうです。司令塔みたいなものですね。

 じつは、この司令塔、つまりルールですが、ないんです。存在しないんです。あると思われているだけなんです。でも、あると人は思いこんでいますから、忖度します。「△△って〇〇じゃないかな?」とか、「△△するためには〇〇するんじゃないかな?」みたいに、忖度しまくるんです。

 忖度、配慮、想像、推測、空想、妄想、幻想、幻覚、錯覚、知覚、なんでもありなんです。なにしろ、対象はないんですから、そうなります。

 あらゆるプレイ(遊技や競技や演技)にはルールがあると人は想定しています。あらゆるプレイには振り、つまり動きや仕草があり、その動きや仕草をつかさどるのがルールだとも言えそうですが、じつはルールは「ない」のです。

「ない」と困るので、ルールが「ある」と決めたのです。ほら、ルールは「決まり」と言います。これで決まり。忘れがちなので、これからは決まりと呼びます。

 そりゃそうですよね。決まりは「決めた」から「ある」ものであって、最初から「自然にある」わけがないじゃありませんか。しかもルールはたいてい言葉という「ない」もので決めてあります。

 ないない尽くし。ないの空回り。そのうえ決まりはしょちゅう変わります。いや、ないものが変わるわけがありません。「変わった」と、これまた決めるだけです。決めるの空回り。

 ルールの空回り。決めただけで「ない」ルールの空回り。「ない」けど(「ない」から)「ある」と決めた決まりの空回り。

「ルールは決まりであって決めたもの」とか「「ない」けど(「ない」から)「ある」と決めた決まりの空回り」ということに、すごく敏感な人がいました。そして、ものすごい本を書きました。

「ルールは決まりであって決めたもの」という言い回しは、駄洒落ですが、その人は駄洒落の名人でもありました。

「「ない」けど(「ない」から)「ある」と決めた決まりの空回り」みたいな、めんどくさい言い方がありますが、その人はめんどくさい言い方の名人でもありました。

 こういう駄洒落やめんどくさい言い方を、広い意味でのレトリックとか言葉の綾と言いますが、その名人は日本語で書いた人ではありません。英語で書いたのです。

 ルイス・キャロルの書いた『不思議の国のアリス』にチェシャ猫の話が出てきます。簡単に説明すると、猫が笑って、その笑いだけが残るという、例のお話です。

 猫という物つまり具象が消えて、笑いという表情つまり抽象が残る――。つまり、「ない」のに「ある」ように思える。それだけなら、いいのですが、「ない」のに「ある」ように思えるその笑いが増殖して、あちこちでシンクロしているのですから、困ったものです。

 あちこちとは世界のことです。人の世界です。人の世界には、たとえば現実の世界と言葉の世界があります(ほかにもあるようですが、ここでは触れません)。

 困ったことに、言葉の世界と現実の世界は噛み合っていないようなのです。まして一対一に対応しているはずもないもようです。途方もなくズレているという意味です。そして、人はふつうそのズレには気づかないのです。

 人がずれているからです。人がずれているから、言葉の世界も現実の世界もずれていて、その両者が噛み合うわけがないという意味です。

 そのズレにきわめて意識的であったという点が、ルイス・キャロルのすごさです。私はこんなすごい人をほかに知りません。これは『不思議の国のアリス』を読むと、体感的に実感できると思います。ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』を読むと、頭で理解できるかもしれません。

 ルイス・キャロルって面白い話をとてもリアルに書いた人です。私には難しすぎて苦手なのですが、古今東西において稀に見る作家だと思います。あれだけこみいった、ややこしいことを子ども向けのお話という形でリアルに書ける人なのですから。

不思議の国のアリス』の英語の文章は、本来は他の言語に翻訳できない気がします。説明的に冗漫に、つまりくだくだと訳すか、大ざっぱな訳文に詳細な注解をほどこしてお茶を濁すしかないのです(ただし翻案はできると思いますし、何種類か目にしたことがありますが、どれもが素晴らしい訳業でした)。

 翻訳できないのは、レトリック、言い換えると言葉の綾だらけだからです。駄洒落(韻とも言います)や、さかしまとあべこべ、つまりめんどくさい言い方(パラドックスとも言います)があちこちでプレイ(遊技・競技・演技)している世界だからです。

 おとながまともに読むと、目がまわり、頭が芯からしびれてきます。こどもがふつうに読むと、あるいは読み聞かせをしてもらうと、きゃっきゃと喜んだり、うっとりした表情を浮かべます。

 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが看破したように、「こどもは形而上学的存在である」(L'enfant est un être métaphysique. ――Gilles Delesuze, Felix Gatari:L'Anti-Œdipe)と言えそうです。

 駄目押しで言いますが、こどもはあくまでも「形而上学的」な存在なのであって、哲学的な存在では断じてありません。形而上学的とは、必ずしも知的でも知性的でも(むしろ、痴、稚、恥なのです)、ましてや論理的でもないのです。

 上で述べたように『不思議の国のアリス』の英語の文章は、言葉の綾だらけの、いわば「ありえない文章」なのですが、そんな文章を書いてみたいと夢見て――ただし、日本語の書き手である私は日本語で、そして私のやり方で――、ひらすら言葉の綾を編んでいます。

 途方もない夢。こども時代の夢。夢また夢。夢に夢見る。夢だけなら見られそうです。ありえないのが夢ですから。