星野廉の日記

うつせみのあなたに

言葉の綾を織っていく

 言葉は生きているという言葉の綾をあざ笑うかのように、生きていないのに死んだふりをする。そもそも生きていないものは死ねないはずなのに、死んだふりをしているのです。死んだふりのふりが空回りしているとも言えます。

 ふりのふりがカラカラと回っている。まるで風車(かざぐるま)のように。まるで風車(ふうしゃ)のように。ヒッチコックの映画で、オランダで風車が複数回っている中で、ひとつだけが反対の回り方をしているシーンがあります。

 見慣れた風景(オランダの風車の並ぶ風景)に、ちょっとした特徴(風向きと逆に回っている、一つの風車)が加わったとたんに、その自然な風景が不気味なものに変わってしまう。そこには属さない場違いな、つまり何の意味も持たない細部が加わったのである――。そんな意味のことを、スラヴォイ・ジジェクが語っています(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、青土社 pp.168-169)。 

 簡単に言えば、人は「見えている」はずのものをしばしば「見ておらず」、むしろ「見えないもの」を「想像して見ている」(いわば鏡の中に見ている)のであり、「見えているはずのもの」よりも、その「想像して見ているもの」のほうにより興味と愛着を持っていて、その結果として、人には「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みが備わっているということになります。これがジャック・ラカンについての私なりのまとめでもあります。

 ふつう人はそれに気づきませんが、何らかの「異化」によって気づきます(または、思い出します)。その「異化」が、このヒッチコックの映画では「風車の一つが風向きと逆に回っている」であり、ジジェクに言わせると「シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアン」なわけです。

 この「異化」に気づくのは、映画の主人公なのですが、さらには映画の観客の一人である、あなたも気づくことになり、その結果あなたもまた映画にまきこまれる――、ジジェクはそう指摘してもいます。(※詳しくは、拙文「人は存在しないもので動く」をご覧ください。) 

 上で述べた私なりのラカンについてのまとめですが、それだけにはとどまらないと私は考えています。

 人は「見たいもの」(それが「見えない」にもかかわらず)を「見える」と決めるために、その根拠となりそうなものを求めるのです(この「求める」を「欲望」とか「欲求」というもっともらしい言葉で作文することもできます)。

 こうも言えるでしょう。人はないものをあると決めるために、その根拠となりそうなものを求める。その根拠は何であってもかまわない。いわば、イワシの頭も信心からの「イワシ」は何でもあってもいいのです。

 話をもどしますが、「シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアン」というジジェクの言葉が気になります。「意味されるものをともなわない、意味するものが立ちあらわれる」とか「無意味な細部がくっきりとその姿をあらわす」と言い換えてみると、そのイメージにぞくぞくします。

 無意味が「意味というもの」(意味が自明であり当たり前だと思う前提)を攪乱するとも言えるでしょう。

 意味を欠いたものがふいに姿を見せるという状況とはどんなものなのでしょう。ふつうは姿や形があるものが目の前に現れれば、それに意味や名前やストーリーがあると、人は考えます。

 名のないものは不気味であり不安だからです。まして意味がないとなると、人は恐怖におちいります。

 名前が分からなければ、名づけないままにそれが何なのかを、これまでのさまざまな記憶をたどり照らしあわせて、それに似たものを探し、「あれに似ているもの」くらいの見当で受けとめるかもしれません。

 名付けは意味付けとかなり近いと考えられます。

 のっぺらぼう、つまり名前がなく意味がないものとは出会えないのが、人における「見る」であり「出会い」だと思われます。無意識のうちに、名付けたり意味付けをしてしまうのです。

 さもなければ、見えないし出会えないと言えます。

 レトリックだけでなりたっているような文章を書きたいと思う時があります。

 内容なんて無い様なもので、物と事の有り様がきわだつ。ただ言葉の形と模様と動きだけがきわだつ文章。そんな文章は「ありえない文章」と言うべきでしょう。

 言い訳をさせていただくなら、あくまでもイメージと夢――それもありえない夢――を語っているのです。

 こういうありえない夢があるかぎり書きつづけることができるのだとすれば、この夢が終わらないでほしいです。この夢の中で、ありえない文章をひたすら書くしかない。

 必死にかく、もがき、あがくのです。書いても書いても「欠く」しかない世界。圧倒的に言葉は足りないし、見る果てがないし、切るにも切りがないし、分けても分からない。それが「欠く」しかない「書く」であり、「ありえない」文章の綾、言葉の綾なのです。

 たとえば、たったいま書いた文章はレトリックだけでなりたっている書き方をめざして書きました。書かれていても何も言っていないのです。ひとり受けギャグの世界に似ていませんか? じっさい、そうなのでしょう。

 また、この書き方には外国語に翻訳するのがきわめて難しいという特徴があります。翻訳する人などいませんけど。

 翻訳できない、つまり他の言語に置きかえられないとすれば、何かが書かれていても、じっさいには何も書かれていないからでしょう。書いても書いても欠いているだけ、書いても書いても掻いているだけ、書いても書いても藻掻き足掻いているだけ、だからです。

 何も書かれていないものを別の言語にうつせるわけがありません。

 抽象的、普遍的、客観的思考の埒外にあるとも言えそうです。翻訳とは、置きかえとは、抽象的な思考や操作――切り捨てた結果としての置き換え――が可能な場でこそ、実践されるのですから。

 そもそも、言葉の綾(レトリック)では、綾(模様・姿・かたち)そのものが命ですから、切り捨てるものがないのです。言い換える(置き換える)こともできません。つまり、翻訳ができないという意味です。

 うつす、写す、映す、移すためには、体(たい)を成していなければなりません。

 体とは体裁、つまり「外から見える、かたちやありさま」なのですが、かたちだけ、さまだけで、なかみがないとなると、ある言語では「かたちやありさま」があるように見えても、別の言語に置きかえようとしたとたんに、「なかみ」が「から」だとバレてしまうという事態が生じます。

 その言語だけで見ていると、なかみのないのが分かりにくいのです。

 のっぺらぼう、つまり名前も意味もストーリーもないものとは出会えないことは分かっています。でも、夢に見ることならできるのはないでしょうか。夢の中で、人は正気ではないと考えられます。

 常軌を逸している、荒唐無稽、とりとめがない、ありえない、それでいてすべてが肯定されている――これが夢ではないでしょうか。夢ではすべてが肯定されて否定がない(じつは現実もそうなのかもしれませんが、覚めた意識はそうした状況で抗うすべを知っています)、これは夢のきわめて大切な特徴です。

 言葉の綾だけでなりたっている文章――。書いてみたいです。そのためには夢の中に降りていかなければならないのかもしれません。とはいっても、夢の中での出来事を言葉にしたところで、それは言葉の世界になります。

 夢には夢の文法があるように、言葉には言葉の文法があるはずです。言葉には言葉の文法があるように、夢には夢の文法があるはず、ではなく。そうです。ここでは本末転倒な話をしているのです。さかしまとか、あべこべの世界なのです。

 言葉は生きているという言葉の綾をあざ笑うかのように、生きていないのに死んだふりをする。そもそも生きていないものは死ねないはずなのに、死んだふりをしている。死んだふりのふりが空回りしている。

 たとえば、いま上で書いたようなありえないさまが、言葉におけるのっぺらぼうのひとつの身振りなのではないかと思っています。そんな倒錯した身振りをしているのが言葉なのです。

 ただし、その倒錯には人はふつう気づきません。見えているのに見えないからです。見えているのに見ていないからです。読む以前の話なのです。だから、言葉を見ることが大切です(もちろん、こんなことにこだわる必然も必要もふつうはありません、日常生活を送るさいには、むしろ害となります、ここでしているのは文学の話なのです、おそらく哲学の話でもないでしょう)。

 言葉は生きていないのに生きたふりをするどころか、死んだふりをしているのです。ふりのふりがカラカラと回っている。まるで風車(かざぐるま)のように。

 朝の連続ドラマを見ていて、思わず引きこまれている自分に気づき、苦笑することがあります。テレビドラマにせよ、映画にせよ、演劇にせよ、振りをする身振りが基本にあるわけですが、連続ドラマはとても分かりやすく、すっと入っていけて、自分もその「振り」を容易に「なぞる」ことができます。

 振りをするが基本のお芝居では、俳優が配役を演じています。当たり前なのですが、これはとても興味深いことだと思います。誰もがそれが「演技」つまり「振りをしている」と知っているのにそれを一時的に忘れるのですから。

 それが現実のように思いこんでいるわけです。心の隅で、これは演技なのだと分かっていても、楽しむためにはその野暮な考えを捨てなければなりません。

 振りだけがある世界。配役がどんどん変わる。既視感の連続。何かに運ばれていく快感。同じ身振りが繰りかえされる。似た光景が現われて消えていく。仮面が演じる。仮面が踊る。仮面の素顔が刻々と変化する。動きと表情だけがあるマスカレード。

 そこには意味やドラマやストーリーやイメージがあるのでしょうが、見る人がそうしたものを忘れる瞬間や持続したときがあるように思えてなりません。意味を失った「純粋な」振りが仮面とともに演じられている世界――。

 たとえば、テレビのドラマを見ていても、そこに振りだけが回っているさまを見ることができる気がします。そうしたさまを見せるのは見方なのかもしれません。演技での役者による身振りというよりも、演技を見る者が、演じられた振りにどう触れ、どう振れるかなのかもしれません。

 要するに、見る側の問題。言葉であれば、読む側の問題。となると、書きながら仕組んだり仕掛けることは無駄だということになりそうです。そうなのかもしれません。がっかりするのは欲深いからでしょう。

 そもそも欲がない者が書くでしょうか? そう居直りたくなります。

「見慣れた風景(オランダの風車の並ぶ風景)に、ちょっとした特徴(風向きと逆に回っている、一つの風車)が加わったとたんに、その自然な風景が不気味なものに変わってしまう」――そんな文章を書いてみたいです。

 こうやって言葉の綾を織っていく。引用の織物をたばねて編んでいく。いまはそれしかできそうもない気がします。それでいいのだと言い聞かせています。