星野廉の日記

うつせみのあなたに

おもかげを見る

 毎日インスタグラムで更新される犬のアカウントを見ています。三年前に半年だけ飼った犬と同じ犬種が出てくるアカウントです。これが同じ動物だとは信じられないくらい、犬は犬種によって容姿ががらりと違いますが、同じ種類だとその面影をたどることができるので、ついついそのアカウントのわんちゃんを見てしまいます。

 楽しくもあり切なくもある習慣です。私の病状が急に悪化したために飼い続けるのを断念したという事情があるからです。その子は現在新しい家族のもとで暮らしています。

 いまはそばにいない存在の面影をたどる――。面影はいい言葉ですね。面と影の組み合わせがわくわくする連想を呼ぶし、辞書の記述を読んでみるとぞくそくします。このところ私がよくつかっている、「何かに何かを見る」という言い回しと似た発想の語義もあります。そのほか辞書には「面影に立つ」とか「面影付」という知らない言葉の説明も載っていました。

 森鴎外が「於母影」という訳詩集を出していたと知ったのも収穫でした。鴎外主宰の結社の同人による翻訳詩を集めた本らしいのですが、翻訳というところに「おもかげ」の意味が重なります。翻訳とは原文のおもかげを別の言語による表現によってたどる行為ではないでしょうか。於母影という当て字も、想像力をかきたててくれます。

 あの子ではない犬にあの子の面影をたどっているとはいえ、見ているのは実物の犬ではなく、パソコンの画面での話です。画素の集まり。何かに何かを見る。最近こんなことばかりを考えています。

「何かに何かを見る」について考えていて、いま気になっているのが隠喩だとか解釈だとかほのめかしではなく、面影(おもかげ)だと気づきました。面影は人について言われることが多いので、「誰かに誰かを見る」ということになりそうです。

「誰かに誰かを見る」という場合の二つの誰かは、同一人物であったり別人であったりするようです。「ちょっとした立ち振る舞いに彼女がバレリーナだったころのおもかげを見る」、「仕事着を身につけて忙しそうに立ち働く息子の姿に亡き祖父のおもかげを見る」という具合です。

「この景色に江戸時代の城下町のおもかげを見る」となれば、物でしょうか。この場合の「おもかげ」は、「たたずまい」に近い気もします。たたずまいという言葉を眺めていると、「誰かに何かを見る」「何かに誰かを見る」もありそうに思えてきて、おもしろいです。

 こんなふうに、言葉にうながされ助けられて文章を書いています。気をつけないと、言葉にもてあそばれてしまいそうです。

 おもかげという言葉をつかうとき、その対象となる人や事物の関係には「似ている」だけではなく血縁や親しみや懐かしさという要素が重なっているように感じます。記憶に支えられて見ている、あるいは記憶の中の何かをなぞりながら見ているという感じでしょうか。

 失われたものを記憶というかたちで思うのが郷愁ですから、懐かしいという気持ちや郷愁には「見たいものを見る」というのも大いにありそうです。「故意に見る」のです。一種のやらせだというシニカルな見方もできるでしょう。げんに「おもかげを求める」という言い回しがありますね。

「懐かしい」というと写真を連想します。過去のある「とき」をわざわざ切り取って映像(おもかげの「かげ」は影です)として残しているのですから、懐かしいのは当たり前なのかもしれません。

 写真にうつっている自分や、鏡にうつっている自分を見ると、不思議な気持ちになるだけでなく不安に襲われるのは私だけでしょうか。

 写真はまだしも、鏡を覗きこむと私はびびります。心が乱れるのです。何が何だかわからなくなるのです。こんなことを言えるのは、ユーザーネームでいるここだけです。ひとさまには言えません。私にとってはとてもパーソナルなことなのです。

 ここだけの話です。

 鏡の中を覗きこむとき、人は妙な心理状態に陥るのではないでしょうか。写真にうつった自分を見るときもそうだという気がします。「人は」なんて一般化してはいけない気もしますが、話を続けさせてください。

 さらにいうなら、顔を見るとき、顔の中でも、とくに目を見るとき、心穏やかではないのは私だけでしょうか。あのときの私は「見ている」とは言えない気がします。見えてはいますが、見ているようで見ていないのです。見ているという「ふり」があるだけ。ふりが空回りしている。

 飼い犬がいたころ、目と目が合ってどぎまぎしたことを思いだしました。顔をくっつけ、よしよしなんて言っていたときですから、目と目の間が七センチくらいだったはずです。それだけ接近して目を合わせるなんて何十年ぶりの出来事ですから、うろたえてしまいました。

 たぶん赤面していたにちがいありません。もちろん、私ですよ。こっちが相手の左右の目を交互に見ると、あっちもそれに応えるようにして瞳を動かすのです。相手が犬だとは信じられませんでした。犬に化身した誰かに見つめられている。そんな妄想というよりも幻覚みたいな鮮やかな瞬間でした。

 目を見るというのは不思議な心もちにさせてくれる体験です。生きた相手と対面しているのであれば、こっちが目を見れば相手も見ているわけです。よく見ると相手の瞳に自分の姿らしきものがうつっていることがあります。

 瞳は人見だという話がありますが、真偽は知りません。嘘か誠かはこのさい、どうでもいいです。

 嘘だと思ったら、鏡を見てください。そこには鏡=瞳があるはずです。そこには自分・あなた=I・eyeという他者・自分=眼・memeが映っているはずです。

 冗談とレトリックはさておき、「うつる」の漢字をまじえた表記には自信がありません。辞書や用字辞典で確かめながら書きますが、例文が同じだったりして、自分の書きたい文でどちらをつかったらいいのか、迷うことがよくあります。とくに「映る」と「写る」は迷います。

「にやけた顔で写っている」「裏のページの絵が写って読みにくい」「鏡に映った顔」「障子に映る人影」なんて複数の辞書やネット辞書でも見かける例です。孫引きというやつですね。辞書の例文や語義は、伝染んです。

 きょとんとなさっている、お若いあなた、「うつるんです」と読んでください。とってもシュールで味わいのある漫画です。私は、ぼのぼのと同じくらい好きです。


 うつる、写る、映る、移る、遷る、伝染る、流行る、孫引る、引用る、模倣る、偽造る、剽窃る、盗作る――。こうしたものは、ぜんぶ、うつるんです。

 いま考えていることに関していえば、「うつる」の曖昧さや多義性を楽しみたいので、わざと「うつる」と書くことがあります。うつるものぜんぶを「うつる」に反映させようという欲深い考えなのです。

 鏡にうつっている自分の姿、顔、目。写真にうつっている自分の姿、顔、目。こうしたものを目の当たりにして覚える「びびり」や惑乱の根っこには、「見られている」があるように思います。

 正確にいえば、見られている気配でしょう。気配、とりわけ気配だけ感じる(気配のもとである実体が宙づりにされているという意味です)というのはリアルな体験です。怪談の怖さは、まさにこれでしょう。夢や夢うつつや仮想現実のリアリティも、これだという気がします。

 言葉をいじるというのは、そして言葉で語るというのは、気配を捏造するいとなみであり仕組みなのかもしれません。なぜ捏造なのかというと、言葉が名指すもの、つまり実体や実物や本物のありようや動きが保留され宙づりにされているからです。なにしろ検証も確認もできないのです。

 気配にこだわらない、別の考え方もできそうです。

 人は何かに何かを見る生き物だとよく思います。前者の「何か」と後者の「何か」は別であるはずなのですが、見るのですから、それらが「何か」はわかりません。

 要するに、「見る」は「わかる」ではないと言いたいのです(人はわからなくても見ているとも言えます)。

 この場合の「見る」は、「見る」というよりも「見える」なのかもしれません。積極的に「見る」に対し、なんとなく「見える」という感じでしょうか。

 積極的に「見る」場合には、たとえそれが「わかる」ではないにしても、確信犯的な確信がありますから、「見る」は「わかる(じっさいには「わける」だと思いますけど)」に近づいている気がします。

「何かに何かを見る」は、空の雲、壁や天井の染み、顔の表情といったものを思いうかべるとわかりやすいかもしれません。雲や表情は変わりますが、染みは動きません。でも、そこに、それに、何かが見えてしまう。

 この「見える」はおそらく見えているものを名指しているという意味の「わかる」である気がします。見ながら、たぶん言葉に言い換えているのです(つまり「わけている」のです)。言葉でわかっている(わけている)という感じでしょうか。

 鏡を覗きこんでいる、つまり自分を見ているときの私の不安と混乱のもとには、わからずに見ている――、見ているはずなのに、わかってもいないし、わけることもできていないという無意識に近い意識があるのかもしれません。そのままならさから来る不安定さが、不安につながっているのではないでしょうか。

 もしそうであれば、この不安を解消する、あるいは軽減するためには、言葉をいじる必要があります。ままならない世界においては、言葉こそが、世界は思いどおりになると錯覚――世界なんてちょろいもんだという錯覚――させてくれる「道具」だからです。

 ぶっちゃけた話が、だから私は、言葉をいじり、言葉をつかっている気になって、こんな文章を書いているのでしょう。世界を手なずけ飼いならした気分に浸っているのです。お恥ずかしいかぎりです。

 別の気配の話にうつります。

「映る・写る」が「移る・遷る」ではないか、という無意識に覚える不安のことです。何かが移ってくるような気配と気分。移る、乗り移る、取り付く、取り憑く、憑く、憑依する。こうやって見ていくと、穏やかではありません。じつに不穏で怪しいし妖しいのです。おどかして、ごめんなさい。

 多くの場合には、おそらく、じっさいにはそんなことはないのですから、やはり気配でしょう。気配だけ。

 写真を撮られると魂を取られるという迷信を連想します。魂を取られるだけではなく、何かが入ってくるのではないでしょうか。取り憑くのです。取り憑かれるのです。

 何かに何かを見るというのは、何かから何かへとうつるではないか。投影されるし、転写されるし、憑依される。

 人は何かを見たときに、必死で何かをなぞっている。なぞるときには、その何かは意識されない。なぞるはなぞをなぞるなのだ。複製の複製。反復の反復。

 その「なぞる」が顔なり何かの形に見えてきたとき、人はその対象に「なる」のではないか。一時的にでも、それになってしまう。

 このときの「なる」は劇的でもなければ鳴り物入りの出来事でもない。あくまでも心の中の出来事であるが、人にとっては心は一大事。とはいえ、日常に起きているごく当たり前の一大事。ささやかなビッグイベント。軽度の憑依。それがなければ人でなくなるほどの掛け替えのない出来事。

 うつる。水面に映る。鏡に映る。影として映る。写真に写っている。心が移っている。気持ちや思いがそっちに移っている。思いが映る、写る、移る。

「うつる」は「なる」や「なりきる」に「似ている」。その意味で、人は何かに何かを見たとき、なぞり、つぎに何かから何かへとうつるのだ。

 うつり、そっくりなものがどこかにうつっている。うつしだされている。うつっているものであるから、実体はない。

 映画もそう。テレビもそう。あなたと私がいま見つめている画面もそう。うつっている。うつるんです。実体? 野暮な話はよしましょう。リアルな体験に、じつは実体は要らないのです。

 写し(コピー・複製)はあくまでも写し。ふりだけがのこって芸人の消えたパントマイム。

 なにもない。なにもないはず。

 でも、見える。聞こえる。気配がする。

 不思議の国から鏡の国に、うつる。

 ふりが、うつる。ふりだけの世界。ふりが、あちらからこちらにうつってくる。こちらからあちらに、うつっていく。

 夢と同じく、ふりと動きはあるが名前はない世界。夢と同じく、名詞(おそらく意味さえも)が捏造であることが、あっけらかんと体感される世界。

 鏡にうつった実体を欠く世界に名前があるはずがない。