星野廉の日記

うつせみのあなたに

意味は宙づりのまま、なぞり、えがく

一つだけという点が共通して、それぞれがばらばら

「存在とは何か?」「存在とは何であるか?」「存在って何?」「「ある」とは何か?」「あるとは何か?」「あるとはどういうことであるのか?」「「ある」とは何であるのか?」「「ある」とは何で「ある」のか?」

 以上の言い方を、ぜんぶ同じことを言っているととらえるのが、抽象なのだろうと思います。普遍を目指しているからです。異なって見えることを同じだと言い切るためには、体感を裏切るわけですから、それ相応の覚悟が必要です。覚悟とはしばしば感情的なものです。

 同じであるはずだ。普遍というものがあるはず。誰にでも通じることがあるはず。誰にも等しく分かることがないわけがない。こういうのは、信念です。思いこみです。意思であり意志であり意地なのです。

 石にも意志や意地があるなんて言うと、そういう意志と意地をもった人はたいてい腹を立てます。石頭と言われていると勘違いするのかもしれません。そういう人は頭の回転がはやいですから。

 融通がきかないのかもしれません。純粋と言えば純粋。単純と言えば単純。抽象や普遍や客観を指向し嗜好する人は、石のように硬く強い意志と意地をそなえているように見えます。要するに、怖いのです。なぜ怖いのかと言えば、切り捨てるからです(切り捨てられる身になってください)。切り捨てないかぎり、抽象や普遍や客観はありえないからです。

 そんな感じですから、冒頭で並べた八つの問いの答えは「一つしかない」なんて、抽象を指向する人は言うかもしれません。普遍や客観を指向する人はたくさんいるし、人それぞれですから、それぞれが「オンリーワン」の答えを用意するでしょう。

 一つだけという点が共通して、それぞれがばらばらという意味です。各自が「一つ」を勝手に決めているだけですから、当然のことながらそうなります。

 もうお分かりいただけたと思いますが、抽象において大切なのは「一つだけ」にしぼり、その単一性に過剰なほどこだわるという点です。真理や事実や解答や解釈が「一つ以上」あっては困るわけです。事物や現象が見方によって変わるという見方ができないのです。とぼけている可能性もあります。これは感情および気質の問題だと思われます。

言葉の顔に過剰にこだわる

 次のようにも言えるでしょう。

存在と無」と「L'Être et le néant」と「あるとない」の違いがあたかも無いかのような顔をして語る人、それは抽象的な思考をしている、または自分のしているのが思考であって抽象的な思考だとはぜんぜん考えていないにちがいありません。勉強がよくできて頭がいいと言われている人に多い気がします。

 【※「存在とは何か?」「存在とは何であるか?」「存在って何?」「「ある」とは何か?」「あるとは何か?」「あるとはどういうことであるのか?」「「ある」とは何であるのか?」「「ある」とは何で「ある」のか?」の違いはレトリックの問題だとも言えます。

 何がって、真理っぽいとか(真理は別として)、哲学っぽいとか(哲学は放っておいて)、詩っぽい(「らしいもの」「らしきもの」「っぽいもの」だけがあるらしい)です。「っぽい」はレトリックしだいで「っぽく」見えるという意味です。「あるとない」より「存在と無」が「っぽく」見えるとか、難しそうな言葉遣いをしていれば、難しそうに見えると言えばお分かりいただけるでしょうか。字面とか顔の問題なのです。私なんか、このレトリック=呪術=手品にはまって、この歳まで来ました。

 ちなみに、タグにあるように、この記事は小説、私小説、つまり作り話です。本気になさらないでくださいね。そもそも、こういう話は本気でするものではありません。】

「存在とは何か?」「存在とは何であるか?」「存在って何?」「「ある」とは何か?」「あるとは何か?」「あるとはどういうことであるのか?」「「ある」とは何であるのか?」「「ある」とは何で「ある」のか?」

 上の八つの問いをながめて考えこむ人もいるでしょう。「あほらし」と言って無視する人もいるでしょう。それぞれの違いについて検討する人もいるでしょう。それぞれの「ずれ」を楽しむ人もいるでしょう。人それぞれです。

 たとえば、「存在とは何か?」「「ある」とは何で「ある」のか?」のあいだの「ずれ」をああでもないこうでもないと考えながら、お茶をすする人もいます。げんに、ここにいます。お茶を濁してもいます。

「存在とは何か?」「「ある」とは何で「ある」のか?」の答えを考えているのではありません。答えなど出ないと思っているらしいのです。その二つの問いという言葉の字面を、ただひたすらながめているのです。両者の「ずれ」を楽しんでいるようにも見えます。

 ささいなずれや細部が気になってならないのでしょう。融通がきかないのかもしれません。純粋と言えば純粋。単純と言えば単純。これは感情および気質の問題だと思われます。

 言葉の顔、つまり表面に過剰にこだわるのです。その人は、そういうふうに言葉の表面や表情にこだわることが具象だと思いこんでいる節があります。ほんとうのところは分かりません。

 そもそも、その人は「ほんとう」なんてない、と考えているようなのです。そういうひとつの「見方」をしているということですね。というか、見方が猫の目のように変わります。決められませんから、優柔不断でとりとめがなく、なにしろ面倒くさいです。

言葉を並べてわくわくする

 抽象、具象、事象、現象、表象、仮象、印象。

 こんなふうに、言葉を並べてわくわくする人がいます。ここにもいます。辞書や事典で調べたり、ネット検索をする気配はありません。ただながめて、にやにやしたり、うーむとうなってみたり、鼻をほじったり、たまに天井の模様に見入っていたりしています。

 言葉の意味を調べるよりも、字面をながめて、「ああでもないこうでもない」をするが好きなようです。そうやって考えたことを、noteの記事にしたりします。

 あと本を手にしても、読んでいるというよりも、見ています。病弱だということもありますが、通院以外に外に出ることはめったになく、とくにすることがないみたいです。家事をするほかは、たいてい一日中ぼーっとしています。

漢字の造語力は大したもの

 抽象、具象、現象、言象、幻象、限象。

 後半が、なんだかあやういですね。現象まではよく見かけるのですが、それに続くものは何ですか? 上の言葉を並べた人は、「げん界」とか称して、ぜんぶで十個の「げん」についての記事を書いたことがあるらしいのです。

 現界、言界、幻界、限界……。

 理解不能です。限界ですわ。自分語には付きあいきれまへん。

 冗談はさておき、漢字の造語力は大したもので、漢字を組みあわせることで簡単に言葉が造れます。明治維新後の日本は、漢字の造語力に助けられて翻訳語をどんどん造って日本語を豊かにしていったそうです。最近は、カタカナ語と略語がトレンドみたいです。シーニュエクリチュール、ディスタンス、サステナブルSDGsAKB48……。

 大和言葉だと、そう簡単にはいきません。せいぜい「見える化」くらいの迫力のなさ。漢字はいかにも厳めしい顔をしています。「視覚化」のほうが、もっともらしいですね。

 漢字には無いものを有るように見せる力があります。

 真理、普遍、哲学、詩、愛、民主主義……。こういった漢字を見ていると、わくわくしてきませんか? 元気が出てきませんか? 文字にパワーがあるのです。顔芸とも言います。

 文字には顔があります。顔が命と言ってもかまいません。たいてい、それでみんなイチコロになります。意味や理屈よりもイメージや気分だと言えば、お分かりいただけるでしょうか。イメージや気分は日常生活をいとなむさいには、とても大切です。

意味不明なものとは言葉

 真理、普遍、哲学、詩、愛、民主主義……。無いものも有るように見えてくるから不思議ですね。そもそも言葉は人がつくったものであり、「これをつかいますよ」と決めたものです。辞書に載っている語義や意味や理屈や個人がいだくイメージは後に来たもの、つまり後付けだという意味です。

 かといって、いちいち話すために辞書を持ち歩く人は見たことがありません。そんなことをしていては日常生活はおくれません。誰もがやることがいっぱいあって忙しいのです。

 辞書や意味や理屈が最初にあったわけではぜんぜんないわけです。「無いものも有るように見えてくる」とはそれくらいの意味だと思ってください。意味不明なものを意味不明なままにつかうのが人なのです。面倒だし忙しいからでしょう。

 意味不明なものとは言葉のことです。自業自得でしょう。世界が意味不明なのは人のせいではないようです。

 だいいち「ほんとうに有るか無いか」なんて分かるわけがありません。そんな高尚な話はここではしていません。無いものねだりはなさらないでくださいね。内容なんてないよーです。意味不明なものを意味不明なままにつかっているだけですので。

意味は宙づりにされたまま、空(くう)に「えがく」

 原象、眼象、弦象、減象、絃象。

 漢字の造語力はすごいです。そんなものが有るように見えてくるから、不思議です。上の例はひとりで勝手につくっただけで、内実というか内容は無いようですから、造語力の「やってる感」だけとか、「やってる感」の空回りみたいなものと言えばいいのでしょうか。

 でも、こういうことを本気でする人がいるのです。げんに、ここにもいます。「げん界」、つまり現界、言界、幻界……という感じで感字をしているという話です。ご丁寧に、それなりに理屈というか説明もしているのですから、ご苦労なことです。

 抽象や具象や現象や表象の「象」とは、「像」と同じく「かたち・かた・すがた・ありかた・ありよう」のことらしいです。言葉(文字)を、人は「かたち」として、何かに描いたり書いたり、あるいは、各人の思いの中で「えがく」のだろうと想像できます。

 意味不明なままです。ここがポイントです。意味は宙づりにされたまま、空(くう)に「えがく」のです。形だけ。なぞるに似ています。なぞにも似ています。いや、そっくりと言うべきでしょうか。

 個人的には、ぜんぶ印象とか心象でまとめたい気持ちになりますが、これこそが一本化指向の抽象なのでしょう。人は抽象という操作なしに認識も思考もできないようです。いま述べた個人的な感想を一般論をよそおって、「人は……」なんて、まとめるのも抽象にほかなりません。

例のゾウさんをめぐっての話

 切りがないわけです。こういう切りのないことに血道を上げるのがヒトのようです。もっと知りたい、もっと分かりたい、もっと欲しい、のでしょうね。もっともっとのエスカレーション。これを「欲望の空転化現象」と漢字で造語すると、もっともらしいし迫力がありませんか? もっと分かるはずだ、もっと手に入るはずだ、生き物の頂点だもの、霊長類のトップだもの。

 2000年問題に打ち勝ったんだぞ、仲間を月に送ったんだよ、地球の気温を上げたのよ。なにしろ、お鼻だけは高いのです。

 かりに、抽象、具象、事象、現象、表象、仮象、印象のほかに、言象、幻象、限象……があったとしても、そういう抽象的なものをこしらえて、ああでもないこうでもないと言うのは、例のゾウさんをめぐっての話に似ている気がします。

 複数の人が一頭の象さんの部分に触れて「象とは○○のようなものだ」と語るという例の話です。お鼻だけはやたらに高いが、お鼻の長い象さんにはけっしてたどり着けない。

 森羅万象――シンラマンゾウとも読むそうですが、ナウマンゾウに似ていませんか? ぜんぜん似てませんね――をとらえることはぜったいにできない。比喩や駄洒落どころではない気がしてきました。

 意味不明なままです。ここがポイントです。意味は宙づりにされたまま、空(くう)に「えがく」のです。形だけ。なぞるに似ています。なぞにも似ています。いや、そっくりと言うべきでしょうか。