星野廉の日記

うつせみのあなたに

愛は具象として立ちあらわれる

 犬関連のインスタグラムのアカウントを見ていると、マグカップやTシャツやエサ用の皿に、犬の名前や生年月日だけでなく、顔や姿を印刷して販売するサービスの広告が目につきます。愛犬の画像を送れば、それをCGか何かを利用して商品に印刷するみたいです。

 いま飼っている犬だけでなく、お別れした犬の顔を印刷した日用品を持つことで、追憶にふけったり面影をしのぶ人もいるのではないでしょうか。とはいえ、愛犬の顔や姿を印刷した商品が送られてきてクレームが付く場合も考えられます。

「似ていない」とか「違う」という苦情です。視覚的なイメージはきわめて個人的なものであり、愛着が強いほど容姿が「似ている」かどうかをめぐる判断はことさら詳細をきわめるものとなるにちがいありません。

 名前や生年月日ではこうした苦情は起こりません。愛する犬の名前に文字に誤記がない限り、あるいは生年月日の数字に間違いがない限り、「これは違う」「返品します」「作り直してください」というクレームは生じないでしょう。

 マグカップやTシャツやエサ用の皿に印刷された名前は文字であり、生年月日は数字だからです。詳しくいうと、文字と数字の抽象的な面を利用しているからです。

 抽象ですから、文字や数字は複製(コピー)が可能で、愛犬家向けの複数の商品にどんどん印刷すれば、愛犬家は歓喜するでしょう。

「これは〇〇ちゃんの顔と名前と生年月日の入った鉛筆でしょ、あれはノートでしょ、むこうにあるのはマイバッグで、友達に贈ったら大好評で大喜びされたわ。今度は風呂敷を注文するつもり」

 文字や数字は抽象だから「同じ」や「同一」を容易に、しかも大量に複製できる。一方、視覚的なイメージは具象なので「似ている」かどうかをじゅうぶんに注意したうえで複製しないと「似ていない」とか「ぜんぜん違う」という苦情を招く。

 そんなふうに、かんたんにまとめることができそうです。

 でも、抽象と具象というのは、それぞれが別個に存在するわけではなく、人がどう見るかによって左右されるし、そもそも抽象と具象は重なりあっていたり、グラデーションであるらしい。

 こんなふうにも考えられます。ややこしそうですね。じっさい、ややこしいみたいなのです。

 たとえば、以下のような話が考えられます。

「あんたねえ、愛犬の名前と生年月日は文字と数字であり抽象だから、それをTシャツに印刷すれば正確に伝わるし、複製もかんたんにできるし、愛犬の顔や姿というイメージとか印象と違って、「似ていない」とか「ぜんぜん違う」といったクレームはつかないなんて言ってたけど、うちの商品に苦情が来て返品があったのよ。こんな可愛くない文字は、うちの子にはぜんぜん似合わないとか言ってさ」

 はいはい、そうですね。おっしゃるとおりです。大変でしたね。ご苦労さまでした――私としては、そう返事をするしかありません。

 作り話とそれに対するひとり返事はさておき、抽象とはほんとうに分かりにくいものです。いまのTシャツの例ですが、フォントや活字という文字の形についてのイメージが問題になっています。

 たとえ文字や数字であっても、その抽象的な側面だけが伝わるわけでは必ずしもなく、形というイメージ(像)についてのイメージ(印象)がつきまとうのは避けられないのです。

 純粋な抽象も生粋の具象もありえないという意味です。

 数字も言葉も、文字としての形と、発音された音声は抽象になりえますが、それが人に受け取られる、つまり人の内に入ったとたんに、その人独自の意味とイメージがまとわりつくことを忘れてはなりません。

 だから通じないや伝わらないや誤解されたなど、すったもんだが起こるのです。

 これが顔や姿であれば「似ていない」というわかりやすいクレームになるのですが、名前を記すのにつかわれた文字のフォントや、生年月日を表す数字のフォントが、あの子には「似合わない」「似つかわしくない」という繊細かつ微妙な反応もありうるし、そうしたクレームをする気持ちもまたよく分かる気がします。

 愛しているからです。愛は、しばしば具象として立ちあらわれます。たとえば、細部への過剰ともいえるこだわりがそうです。

 愛しているものに対して、人は繊細かつ微妙な反応を示します。イメージや印象を支えるものは、きわめて個人的な感情だからです。その感情は細部に具体的に立ちあらわれますから、抽象度はきわめて低く、ほぼ具象と言っていいと思います。

 漠然と曖昧に愛するなんて、人にはできません。抽象的に愛することも無理だと考えられます。目に見えて触れられるものしか愛せないのです。愛する対象が目の前になくてもかまいません。代理さえあれば、です。

 写真一枚でも、名前であってもいいのです。目で撫で(視覚)、舌で転がせれば(言葉)、それは愛の対象の代理になります。そもそも人が愛しているのは代理なのであり、その代理は思いの中に具体的な形で、つまり具象として存在するのです。

フェティシズムなんていう抽象的な言葉に置きかえて、まとめないでくださいね。分かった気持ちになったところで、その感情は愛とはぜんぜん関係ありません。)

 ところで、あなたは、愛しているもの(人でもかまいません)をどれくらい目の前で見たり触ったことがありますか? いまはどうですか? そのものや人が目の前にいますか? いなくても愛しているのではないでしょうか。

 愛おしくてたまらないものは、つねに目の前にあったりいたりするわけではないのです。つねに(い)ないほうが普通なのです。(大切なことなので繰りかえしますが)、ただし、代理が必要です。不可欠というべきでしょう。いわば遠隔操作とか遠距離恋愛がいわゆる「愛」や「恋愛」の実態である場合がきわめて多いと考えられます。

 でも愛している気持ちに変わりはないと思います。ここで言っている愛とか具象とはそういう意味です。

 話をもどします。

 たしかに明朝体と丸ゴシックと角ゴシックとでは、その文字と数字の印象ががらりと変わりますね。

 個人的なイメージでは、洋犬であるトイプードルの名前を記すには明朝体や勘亭流の字体は似合わない気がします。フレンチブルドッグなら別ですけど。お分かりいただけますか?

 ワンコに興味がない人には「はあ?」という感じではないでしょうか。このようにイメージというものはきわめて個人的なものであるために、それをひとさまに披露した場合には、受けるかどうかの保証はありません。

 偶然性に左右される賭けであり、その意味で、受けるかスベるかの瀬戸際につねに立たされている駄洒落やギャグと同じなのです。

――洋犬であるトイプードルの名前を記すには明朝体や勘亭流の字体は似合わない気がします。フレンチブルドッグなら別ですけど。

 ここの意味がお分かりになりましたか?

 こうした「似合う」「似合わない」という判断の根底には、やはり愛犬である「あの子の姿」というイメージがあるのでしょう。そのイメージと、フォントという文字の形と顔(文字にも顔があります)のイメージが、合っているか合っていないかという話になるわけです。

 文字をめぐって、抽象とは異なるレベルでの判断が働いているといえます。

 抽象と具象は豹変しあうなんて言い方もできるでしょうが、そうした表現は言葉の綾、つまりレトリックでしかありえません。何とでも言えるという意味です。そもそも、豹変するのは人のほうなんですから。いまのも言葉の綾です。

 抽象と具象をめぐっては、言葉の綾を編むしかなさそうです。