星野廉の日記

うつせみのあなたに

定型について

翻訳調の文体

 翻訳の仕事に携わっていたころ、「直訳」という言葉をつかってたしなめられたことが何度もありました。「英文読解じゃないんだから」とも言われたこともあります。

 で、張りきって訳し直すと、今度は「こなれすぎ」「意訳しすぎ」「〇〇節がまた出たね」(〇〇には私の名字が入ります)とたしなめられるのです。頭をかかえたものです。

「直訳」に似た言い方に「翻訳調」があります。作家でも翻訳調と評される文体の人がいます。

 翻訳された文章のような文体とはどんなものを指すのかは、一概にはいえないと思いますが、私のイメージする翻訳調とは、英語の長文読解の模範解答にあるような文体です。もちろん、大学受験用の教材の話です。

受験英語」という言葉がいまもつかわれているのか知りませんが、私の学生時代にはよく見聞きしました。

 長文読解の模範解答の文章は、「私は英語の構文、文法、単語をちゃんと理解していますよ」という「アリバイ証明」みたいな役割があり、それが不自然さやぎこちなさにつながります。as soon as =「~するやいなや」、because =「なぜならば」という具合です。

 つまらないですよね。馬鹿みたいですよね。不条理でもあります。いまは知りません。

 英語の文章のどこがどこにかかっているかを枝分かれみたいな図で示した受験用参考書もありました。なんだか漢文の読み方に似ているなあと、高校生時代に感じたのを思いだしました。案外漢文の訓読を真似ていたりして。

 This is the book that I bought yesterday.

        ┌─ that I bought yesterday.
 This is the book

 要するに、定型なのです。構文や文法の知識の確認である長文読解では、訳し方が決まっていて、採点する側も採点される側も、お互いに分かりやすい方法としてパターンが形成されていったということでしょうか。

 パターンですから、一対一に対応しているほうが、採点つまり評価がしやすいわけです。as soon as =「~するやいなや」、because =「なぜならば」みたいに。正解は、みんな似たり寄ったりの文章になるでしょうね。

 もしそうだったとすれば、つまらないですよね。馬鹿みたいですよね。不条理でもあります。いまは知りません。

 翻訳調としてよく言われるのが「無生物構文」です。久しぶりでこの言葉をつかいました。

 何が彼女をそうさせた? What made her do it?

 その光景が彼を怒らせた。 The sight made him angry.

 こんな感じです。その文の言いたいことは分かりますが、あまり言わないし書かない気がします。もちろん「私はそう言うし書きますよ」という人がいても不思議はありません。人それぞれですから、私は否定する気などさらさらありません。

 なんで彼女はそうしたの? どんなわけで彼女はそうしたのですか? 彼女がそうした理由は何?

 その光景が彼を怒らせた。それを見て彼は怒った。それを見たので彼は頭に血がのぼった。

 もちろん、前後関係で言い方は決まるでしょうね。一概には言えません。

翻訳調がなかったころ

 ここで、でまかせを書きます。思いつきで書きますので、そのつもりで読んでくださいね。

 もし翻訳調の文章があるとしたら、日本国内で辞書や文法書や語学の受験参考書が「熟した」からではないでしょうか? 熟したというのは、できあがっちゃったという意味です。

 昔々、日本に英和辞典みたいな「〇和辞典」や、日本語で書かれた文法書や、日本の受験生向けの構文集や熟語集のたぐいが不備だったり、まったくなかったりした時代には、翻訳調はなかったのではないでしょうか?

「昔々」なんて曖昧な言い方をして申し訳ないので、以下の引用をご覧ください。

西周(1829-1897):漢文、オランダ語、ドイツ語、留学。

福澤諭吉(1835-1901):漢文、オランダ語、英語、万延元年遣米使節

新島襄(1843-1890):漢文、英語、江戸時代の1864年に密出国して米国に渡り、米国訪問中の岩倉使節団と会い参加する。

森有礼(1847ー1889):漢文、英語、薩摩藩第一次英国留学生。

ラフカディオ・ハーン/小泉八雲(1850-1904):英語、フランス語。お雇い外国人。

*アーネスト・フェノロサ(1853-1908):英語、お雇い外国人。

坪内逍遥(1859-1935):漢文、英語。

内村鑑三(1861-1930):英語、札幌農学校1884年に私費でアメリカに渡る。

森鷗外(1862-1922):漢文、オランダ語、ドイツ語、1884年陸軍省派遣留学生。

新渡戸稲造(1862-1933):英語、ドイツ語。札幌農学校、米国へ私費留学、官費でドイツへ留学。

岡倉天心(1863-1913):漢文、英語、アーネスト・フェノロサの助手、宮内省より清国出張を命じられる。インド訪遊。ボストン美術館勤務。

二葉亭四迷(1864-1909):漢文、フランス語、ロシア語。ロシア滞在。

*津田梅子(1864-1929):英語。1871年、父親が女子留学生に梅子を応募させ岩倉使節団随行して渡米(5人のうち最年少の満6歳)、米国で教育を受け、1882年に帰国。1889年に再び渡米。

夏目漱石(1867-1916):漢文、英語。1900年文部省より英国留学を命じられる。

南方熊楠(1867-1941):漢文、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語。私費で渡米、渡欧。

◆明治時代(1868年から1912年)

上田敏(1874-1916):漢文、英語、東京帝国大学英文科、講師小泉八雲からその才質を絶賛され、小泉の後任となる。1908年欧州へ留学。

有島武郎(1878-1923):父の教育方針により米国人家庭で生活、英語、札幌農学校1903年に渡米。

片山広子(1878-1957):英語、東洋英和女学校卒。松村みね子名義でアイルランド文学を中心に翻訳。

永井荷風(1879-1959):英語、フランス語。1901年暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、1903年父の意向で実業を学ぶために渡米。1907年から1908年にかけてフランスに10か月滞在。

*アーサー・ウェイリー(1889-1966):日本語、中国語。パブリックスクールを経てケンブリッジ大学で古典学専攻。日本語と古典中国語を独学で習得する。東アジアの古典語に通じていたが、現代日本語は操れなかった。来日もしていない。

日夏耿之介(1890-1971):漢文、英語。フランス、イタリア、イギリス、アイルランドの文学の紹介と翻訳などをおこなう。

堀口大學(1892-1981):フランス語。外交官の長男。1911年父の任地メキシコに。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語がフランス語。父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。

村岡花子(1893-1968):英語、10歳で東洋英和女学校に給費生として編入学、そこでカナダ人宣教師から英語を学ぶ。

西脇順三郎(1894-1982):英語、ラテン語、フランス語。1900年に小学校に入学し姉からナショナル・リーダーズを習う。1922年渡英。オックスフォード大学。

*由良哲次(1897-1979):ドイツ語、留学。エルンスト・カッシーラーのもとで博士論文を完成。

*呉茂一(1897-1977):英語、古典ギリシャ語、ラテン語。1926年ヨーロッパ留学して古代ギリシア文学・ラテン文学を修める。

*ロベルト・シンチンゲル/Robert Schinzinger(1898-1988):ドイツ語。エルンスト・カッシーラーの下で博士号を取得。1923年来日。東京大学でドイツ語とドイツ文学を教える。1946年から1974年まで学習院大学教授。

渡辺一夫(1901-1975):暁星中学、フランス語。1931年から1933年、文部省研究員としてフランスへ留学。

小林秀雄(1902-1983):フランス語。東京帝国大学文学部仏蘭西文学科。

平井呈一(1902-1976):英語。永井荷風佐藤春夫に師事。

*田中美知太郎(1902-1985):ギリシャ語、ラテン語

久生十蘭(1902-1957):フランス語。1929年から1933年までフランスのパリに遊学。

河盛好蔵(1902-2000):フランス語。京都帝国大学文学部仏文科。1928年、学校騒動で関西大学を辞職して渡仏しソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。

神西清(1903-1957):フランス語、ロシア語。、東京外国語学校露西亜語学科。

吉川幸次郎(1904-1980):中国語。1920年第三高等学校文科甲類へ進み、現代中国語を学び、1923年大学進学の休みに中国江南を旅する。京都帝国大学文学部文学科で考証学・中国語学・古典中国文学を学ぶ。1926年、卒業論文を漢文で書き大学院に進み唐詩を研究。

*高津春繁(1908-1973):ギリシャ語、ラテン語。1930年 から 1934年、 オックスフォード大学でギリシア語とサンスクリット語の比較言語学を研究。

森有正(1911-1976):フランス語。6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学ぶ。暁星小学校暁星中学校。1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任。第二次世界大戦後海外留学が再開され、その第一陣として1950年フランスに留学。パリに留まり1952年にパリ大学東洋語学校で日本語と日本文化を教える。

(拙文「言葉の夢、夢の言葉」より)

 少なくとも、上のリストに挙げた人たちが西洋の言語を学んだ時代には、〇和辞典や日本語で書かれた語学書のたぐいは「熟していなかった」、つまり現在みたいに「完備していなかった」ように想像できます。

 ではどうやって学んだのかというと、おそらく英英辞典、仏仏辞典みたいな辞書や、その言語で書かれた文法書をたよりにその言語の読み書きを覚えていったのではないでしょうか。

 学習者に和訳させて重要構文を理解したかをチェックする方法など、当時はなかったにちがいありません。外国語の文法や熟語の試験があったとしても、それはその言語でなされたと想像できます。

 つまり、ネイティブと同じように言語(外国語)を学んでいたという意味です。日本語への訳読によって、その読解の程度を判断するなんて方法はなかったのではないでしょうか? たとえあったとしても、定型の訳し方など「熟していなかった」と想像します。

 あくまでも、私の想像です。

 上のリストをもう一度ご覧ください。素晴らしい日本語の書き手ばかりです。また外国語の日本語訳としてさまざまな作品を残している人が多いです。

 自分の中にある日本語のセンスで外国語を日本語の文章にしていった。そうとしか考えられません。

初めての辞書

 ここで、また引用させてください。

 初めての辞書はどんなふうにして作られたのだろう。

 最近、よくそんなことを考えます。外国語と母語をつなぐ辞書。たとえば、英和辞典、和英辞典のように。あ、国語辞典を忘れてはなりません。古語辞典や漢和辞典も。

 想像するのは、外国語と母語をつなぐ辞書のない環境で、何らかの形で外国語を習得した人(習得しつつある人と言うべきでしょう)が、自分の中にあるその外国語と母語の知識を総動員して、「これはあれだ」「あれはこれとほぼ同じ」「これに似た言葉はないけど、あれで間に合わせようか」「さっき本を読んでいて思いついたけど、あれにはこの訳語をあてよう」なんて具合に、「自分の中にある辞書」(比喩です)を具体化していくというものです。

 素人の空想、いや妄想でしかないわけですが、そんなさまを勝手に思い描いていると幸せな気分になります。

 かつて翻訳家を志していたころに、変な言い方ですが「英英辞典」を使うようにと盛んに言われたことを思い出します。英文を読んでそれを日本語にするさいに、英和辞典という既成の訳語集にとらわれずに、なるべく自分の語感で訳せというのです。

 それでも訳語が浮かばなかったら、英語のネイティブスピーカーが使っている英語の辞典を引いて、それに相当する日本語を探る。専門用語や特殊な用語については、大きな英和辞典とか百科事典で調べる。大切なのはさまざまな分野の本を英語でも日本語でもたくさん読むこと。

 確かにそうです。正論だと思います。でも、大変ですよね。

 この記事を書くためにウィキペディアの解説を利用しながら、まだ〇和辞典も、和〇辞典もない時代に勉学し研究にいそしんでいた人たちのことを思いました。そういう人たちは上で述べたような方法を無意識に実践していたのかもしれません。

 二つの言語、外国語と母語、古い母語と今の母語、漢文と日本語――。異なる言葉のあいだに生きる。それは異なる言葉の境をこえた夢の言葉に身を置くような気がします。

(拙文「言葉の夢、夢の言葉」より)

 やっぱり同じようなことを以前に書いていましたね。最近、物忘れがひどいのです。物忘れのひどさにがっかりすることが増えました。

 話を変えます。

決まり文句

 定型、決まり文句、紋切り型。こうしたものに固定観念を加えてもいいでしょう。言葉や言い回しと、物の考え方は、容易に切りはなすことができないということです。

 固定観念となると、先入観や偏見にも通じそうですね。

 ある集団で似たような、あるいは同じ言葉や言い回しがつかわれると、効率的に事が進むという考えがありそうです。この考えを進めると「個性は邪魔だ」「異なることは効率的ではない」に発展しそうで、私は怖いです。

 雨が降ったら「雨が降った」と書け。こんな意味の小説作法を書いた作家がいます。

 私は「悲しい」とは書かない。「悲しい」と書くことで、いろいろなものがすくえなくなるから。こんな意味の意見を述べた別の作家もいます。

 世の中の決まり文句や固定観念が吐き気がするほど嫌で、「紋切り型」を集めた辞書をつくって、呪った作家もいたらしいです。「紋切型辞典」、「悪魔の辞典」。

断絶

 どんなことを書くにしろ、先行する文章の模倣と引用にならざるをえない。こう言えそうです。つまり、俳句を詠むためには俳句を読まなければならないように、小説を書くにはまず先行する小説を読まなければ書けないし、前衛小説も実験小説も反小説も書けないというわけです(脱構築や破壊するためには、自分の中である程度の構築や創造がなければならないともいえそうです)。

 ところが手本とする小説がなかった時代、あるいは時期があるようなのです。つまり、その時期の前後に断絶があるという意味です。

 いま私たちが読んでいる「小説というもの」が成立したのは、日本語の歴史ではつい最近だったという意味のことを、高校の文学史の教科書で読んだことを思いだしました。

 よくは覚えていないのですが、二葉亭四迷がロシア語の小説から訳した文章が国木田独歩あたりを刺激して、いまの小説の文章ができたとか、なんとか。

 念のために、ウィキペディアの解説をちらっと読んでみたところ、この部分に深入りするととんでもないことになりそうだと感じたので、やめておきます。

「小説というもの」の定型がどう成立したか――。

 これは、現在私たちがふつうにつかっている、漢語を核とした翻訳語の成立と同じく大問題です。

 わくわくするテーマですが、私にはこの大問題を勉強する余裕はありません。

【※この翻訳語の問題に真正面から取り組むと、多岐にわたる現代日本の知の体系に、ことごとく疑問を呈する必要があるので、取り組む人がほとんどいないようです。『翻訳語成立事情』を著わした柳父章が頭に浮かびました。恐ろしい本です。】

(以下は引用です。)

 プルーストのこうした凝った文章は推敲というか加筆を重ねた結果なのでしょう。「作家」と呼ばれる個人、つまり一人のの書き手が文章をいじりまくって作る小説という形式は、比較的新しい(novelな)ジャンルだと言われています。

 小説は書き手が書き言葉をいわば「物のように」彫琢することが可能なジャンルなのです。たとえば、フローベールのように、です。複数の人によって口承という形で語り継がれてきたり、何種類もある写本で伝わってきた物語とは大きく異なるわけです。

(拙文「読みやすい文章、読みにくい文章」より」

 この話は、西洋だけでなく、日本にも当てはまるようです。作家という職業の人が一人で書く形の小説は、以外と新しいジャンルなのですね。

山を書く

(以下は引用です。自己引用が多くてごめんなさい。)

 いま住んでいる家の窓からは山が見えます。近所を歩いても必ず遠景には山があります。かつて住んだ施設や住宅もそうでした。小学校から高校までの通学路からも近くにそして遠くに山が見えました。とくに気にとめなかった山が、この歳になって、急に気になる存在になったのです。

 同時に、これまでに読んだ小説に書かれていたはずの山の描写を、自分が読み飛ばしていたのに気づいたのです。古井由吉藤枝静男、そして幸田文の作品を読みかえすようになりました。すると出かけるのが楽しくなったのです。

 三人の作家の文章には山の描写がよく出てきます。山だけでなく地形や地勢に関する記述も頻出します。読みながら感じたのは、読むと見えるようになる、見えるようになるとさらに読みたくなる、さらに読むともっと見えるようになる、ということでした。

(中略)

 自分が山について書こうと思うと、山についての言葉や用語や言い回しを知らないことに気づきます。それでも、書いてみたいと思うときにどうするかというと、真似るしかないのに気づきます。

 見よう見まねで先行する文章にならい練習するのです。「ならう」は「習う」「倣う」と表記できます。ちなみに、「学ぶ」と「真似る」、つまり「まなぶ」と「まねる」は同源だそうです。

 文章に関していえば、知らないものは出てきません。まねる、ならう、まなぶしかないのです。言葉は外にあります。外から入れるというよりも、借りて入れるというほうが適切な気がします。借り物ですから自分のものにはなりませんし、独り占めも無理です。

(拙文「言葉とうつつのあいだを行き来する」より) 

 山についての文章を書きたいので、いま先行する文章を読み、真似ながら勉強しているところなのですが、そっくりな文章を書くわけにはいきません。

 ですから、いったん読んだものを忘れて、身についた言葉や言い回しをあれこれいじりながら苦心して書いて練習しています。

 で、山についてあれこれと書きながら、ふと思いだしたことがあります。絵とか浮世絵です。

 絵には二通りの描き方があるそうです。一つは、見たとおりに描く。もう一つは、他人の描いた絵を真似て、あるいは参考にして描く。

 よく絵には〇〇流みたいなものがありますが、あれはその流派の描き方に沿って描いているから、似たような作品ができあがると勝手に理解しています。

 定型に沿って描くということですね。

【※ちなみに流派に相当する英語にschoolがあります。すずめの学校でみんながチイパッパと定型を学んでいるさまが頭に浮かんで、大好きなイメージの英単語です。英和辞典の語義には「流派、学派、画派、学風、主義」とありますが、要するにparty(政党)の派閥や「グループ」と同じなのですね。師弟関係や特定の集団もそうですが、私のもっとも苦手とするものです。】

 私は絵については無知です。絵心もありません。デッサンや遠近法を学んだこともありません。ですから、ここで絵について書いていることはぜんぶでまかせですので、ご承知おきください。

 〇〇流とか〇〇派とか〇〇主義のたぐいは、絵でも文学でもありそうです。詩歌では定型詩があります。あれは膨大な数の先行する作品に敬意を払いながら創作するのでしょう。

 型破りも型破りという名前の定型だと言えば言いすぎでしょうか。名前(名詞)のまとめる力には恐るべきものがあります。名詞は何でもかんでもいとも簡単に「固定する」のです。

 ここで思いだしましたが、いつだったか、テレビを見ていて、大都市の風景を短時間見ただけで、じつに細かいところまで絵として再現する人がいました。その人にはつねに別の人が付き添っていたのですが、どうやら知的な障がいがあるとのことでした。

 すごいですね。写真のようにそっくりに風景を描くのです。

 先行する何かを模したという感じではありませんでした。深い尊敬の念を覚えた記憶があります。

* 

 凡人である私は、ひたすら先行する文章をたくさん読み、真似て、自分なりに個性(たぶん、ないですけど)を出す。それしかないようです。

 いま読んでいるのは、幸田文の『崩れ』です。

正直にいって、あれしか私には書けない。あの通りに見たし、思ったし、感じた。だがこれでは地形も、大きさも量も、何もお伝えできていない。じれったくてたまらないが、能力のなさは如何ともしがたい。専門家の書かれたものを見ると、それが実にすらっと、よく呑みこめるようにできている。

 こうした言葉があちこちに書かれています。描写力の優れた名文を残してきた幸田文が老齢になって、そう書いているのです。「専門家」というのは、文章の専門家ではなく、山で働き、山を記録し既述している人を指します。この意味は大きいです。

 私がいま何よりも学ぶべきのは、こうした謙虚な姿勢であることは間違いなさそうです。