星野廉の日記

うつせみのあなたに

する、される

 路上で負傷して歩けなくなり、通りかかった人におんぶされて、とりあえず安全な場所へと運ばれた。

 見も知らぬ人の背中にひっしにしがみつきながら、涙が出てきた。その人の親切にではなく、情けない自分にではなく、悲しいその状況にではなく、懐かしさでいっぱいになる自分がいた。

 幼いころに、母親の背中にしがみついていたときの記憶が、腕、手、背中、首、肩、腰、胸、腹、足のさかいなく、全身的によみがえってくる思いがした。

 以前に、こんなことがありました。

「腕、手、背中、首、肩、腰、胸、腹、足のさかいなく」と書きましたが、まさにそんな感じだったのです。体の部位のさかいがないだけでなく、相手の体と自分の体のさかいも感じられない一体感を覚えました。

 おんぶをされるというのは、相手に抱きつくようなかたちにもなります。背後から抱く感じです。ふだん人と接触することのない私は、あのときほどうろたえたことはありませんでした。

 さわる・さわられる、ふれる・ふれられる、おす・おされる、なでる・なでられる、さする・さすられる(こする・こすられる)、あてる・あてられる、つねる・つねられる、ひっかく・ひっかかれる、たたく・たたかれる。

 いま挙げたのは、触覚とか触感的な身振り、動作、行為、動詞です。

 目をつむって、上の動作をしたり、思いえがいたり、思いだすと分かりますが、「する」と「される」が同時に起きている場合があります。「働きかける」と「働きかけられる」、「かける」と「かけられる」が同時に起きているとも言えそうです。

 触覚とは、相手、つまり人や物や生物との双方向で相互的な行為だからです。全身的な行為とも言いたくなります。訳(分け)が分からないのです。対象と一体化するとも言えるでしょう。

 いずれにせよ、対象がない状態でひとりで触れるわけにはいかないのが触覚です。これと対照的なのが視覚だと思います。視覚は絵にしますから、言葉と相性がいいのです。絵も言葉も、ある部分だけを切りとり、ふるいにかけるからでしょう。

 取捨選択が根っこにあるのです。この取捨が、一方的で一方向的なものであることに注目しましょう。サディスティックとも言える気がします。視覚にせよ、言葉での切り分けにせよ、触覚のように双方向的ではありませんから、相手のことを考えないのです。

 そんなわけで言葉は抽象と相性がいいと言えそうです。繰り返しになりますが、言葉の基本的な身振りは「分ける」「切り分ける」だからです。部分に分断するのです。余計な部分は捨てることもあります。つまり抽象です。その代わり、すっきりはします。ある程度は。

 こどもをだっこしていると、抱いているのか抱かれているのか分からない気分になることがある。これは、ある女性から聞いた話です。子をもった経験のない私は感心しながら聞いていました。

「あと、お乳をやっているとき、うちは男の子なんですけど、乳首を口でふくまれていると、何というか、夫と重なるんです――」

 女性はそこで口をつぐんで、その話はそれで終わったのですけど、それ以上尋ねる気にはなりませんでした。

 性行為のときに、するとされるのさかいが不明になるとか、自分の体と相手の体のさかいが消えた感じがするとか、自分がどこにいるのか、なんなのか、だれなのかが頭にない状態におちいる。

 そうした状況は、小説、映画、テレビドラマで繰りかえし出てきます。表現の仕方しだいで、いやらしくも、うつくしくも、きれいにも、きたならしくも、ほっこりにも、暴力的にもなります。

「する・される」が不明になるのは、性行為だけでなく、読むとき、書くとき、映画や動画を見るとき、お芝居を見るとき、歌を歌ったり、音楽を聞くときにも起きる日常的な体感ではないかとも思います。

 私は不案内なのですが、たぶん、ゲームやスポーツや楽器の演奏でもあるのではないでしょうか。

 そういう状況をどう言葉にすればいいのでしょう。描いた言葉はあります。数えきれないほどあります。文学でも、学術的な論文でも。でも、しっくりこないのです。

 そうかなあ。そうだったかなあ。そういうものなのかなあ。

 言葉に期待しすぎているのかもしれません。

 なぐる・なぐられる、ひっぱる・ひっぱられる、つきだす・つきだされる、つつく・つつかれる、ひっぱたく・ひっぱたかれる。

 こうした行為、動作もひとりではできません。相手や対象とのかかわりあいから生まれる出来事です。

「する」と「される」が言葉としてあるから、つかうだけの状況に投げこまれている。それが人と言葉の関係であり、その言葉とは必ずしも世界や現実を「正しく」反映したものではないのです。

 いま「正しく」を括弧に入れたのは、そもそも「正しい・正しく」なんてあるの? と思っているからです。言葉は欠陥品だと考えているので、慎重になってしまうのですけど、人それぞれです。

 車の運転をする人も同乗者も移動しながら静止している、静止していると思いこんでいるが、じつは動いている。

 こういう文を書いていると、自分の表現力のなさを棚に上げて、言葉はなんてまどろっこしいのだろうとか、言葉にもてあそばれているなあ、なんて思うことがあります。

 記述は、既述であり、奇術であり、詭術でもあると感じる瞬間です。

 つまり、言葉をつかって「しるす」行為つまり記述は、すでに何度もしるされた言葉や言い回しを「なぞる」ことで、言い換えると既述であり、そもそも言葉ではない事物や現象を、もっともらしく言葉に置き換えて「描写しました」とか「説明しました」と澄ましているという意味で奇術であり、ひいては語ることで騙る、要するに人を「だます」のですから詭術である、というわけです。

 いま書いたような騙りに満ちた文自体が、記述であり、既述であり、奇術であり、詭術なのですから、語るに落ちるどころか、騙るに落ちるという感じで、呆れかえって思わずのけぞりそうになる自分がいます。

 言葉は物を見えなくしているのではないか。いや、正確には言葉で物が見えなくなっている部分もあるのではないか。そんなふうに思います。

 たとえば、「〇〇する」と「〇〇される」という言い方があるから、ある物や事や現象を見て、「する」と「される」に「分けて」しまう。それで「分かった」気分になるという意味です。

 でも、じっさいには「する」と「される」のさかいが不明な事態というのはありそうです。訳が分からないというよりも、分けが分からなくなくなっているときですから、冷静になれば分けが分かるでしょうなんて短絡したくはありません。

 世界はそんなに単純明快だとはとうてい思えないのです。

 言葉をつかうと世界は「ある程度」単純明快に見えるでしょう。言葉の世界に入るからです。言界は現界とは異なります。「ある程度」の対応や関係はあるにちがいありません。

 人は言界と現界と幻界のあいだを行き来している、あるいは複数の界に同時にいる、とも言えそうです。ただし、限界があります。それぞれの界が一対一に対応した関係にあるわけではないからです。

 食い違い、ずれ、誤差、錯覚、ノイズがあるはずです。それが限界です。限りがあるわけです。かぎりなくかぎりがあるはずです。

 あらゆる現象や、言象や幻象が、たがいに整然と対応しあうという形で、人に都合よく存在しているわけでもないでしょう。いや、存在するどころか、しょせん、どこかの阿呆がつくった自分語でしかありません。

 言界は現界に追いつけません。言葉や言い回しの数が圧倒的に少ないからです。現界の複雑さについていけないのです。これが言界の限界である減界です。

 限りなく少ないもので限りなく多いものを組み立てようとすることに土台無理があるのです。少ない限りには単純明快に見えるという利点もあります。

 そこそこの数で無数を説明する利点はそこにありますが、「そこそこ」であるという限界を念頭に置かないと過信にいたるのは分かりやすい話だと思います。

 目に見える世界、つまり眼界もまた、限界にあります。視野と視点とは、枠と焦点でもあります。つまり、見える範囲には限りがあり、見るとは見えている部分を忘れたり意識に置かないようにして、ある一点に集中することです。

 視野全体をまんべんなく見ることができる人はいないでしょう。焦点があるからです。※笑点や消点(盲点とか死角でしたっけ?)もあるでしょう。

 集中すれば、捨てる部分が必ず出てきます。捨てないで集中しようなんてありえません。虫のいい話です。

 俯瞰や展望とは、世界や宇宙のある部分をながめることにほかなりません。全体とは必ず部分なのです。あらゆる俯瞰と展望は局所的、つまりローカルなものだと言えそうです。

 人は俯瞰が好きです。何でも視覚化できるだけでなく、何でも俯瞰できると思いこんでいる節が見られます。地域地図、世界地図、航空写真、宇宙の画像。集合写真も、俯瞰の一種かもしれません。クラスの全員が映っていれば、全員を把握した気分になれるからです。

 俯瞰とは、場所、つまり空間だけではありません。時間的な俯瞰もあります。スケジュール表、タイムライン、カレンダー、年表などは、時間を見える化するだけでなく、時間の流れを時系列で視覚化する仕掛けとか仕組みとか装置だといえるでしょう。

 地誌・地史、家系図、伝記、国の歴史、世界史、文学史音楽史科学史、宗教の歴史というぐあいに、個々の事象にまつわる出来事を時系列で記述しようとする人の試みと情熱には驚かされます。

 図書館、博物館、美術館、博覧会も、それぞれが俯瞰の一形態だと見なすことができるでしょう。百科事典、辞書、図鑑、博物誌のたぐいも、空間(地球・宇宙)だけでなく時間(歴史・有史以前)の俯瞰を指向していますね。人の飽くなき意志と欲求に驚かされます。

 話を縮小します。

 地誌・地史、家系図、伝記、国の歴史、世界史、文学史音楽史科学史、宗教の歴史――。歴史は時間的な俯瞰と見なすことができますが、それぞれの歴史は、やはりローカルなものです。

 ある部分、ある特定の要素、ある特殊な視野と視点(立場)からながめているだけです。

 たとえば、世界史という言葉は言葉の綾です。世界史という言葉があるから世界史があると思ってしまう。

 各国、各地域、各言語圏、各文化圏にそれぞれの世界史があります。世界史はローカルなものなのです。「世界史」間の闘争も起きています。戦争にもなります。

 しかも、いま挙げた各〇〇の中に、さらにさまざまな考えや意見に基づく世界史があります。この国でもあります。「世界史観」間の争いもありますね。話が、ややこしくてごめんなさい。

 普遍的な世界史などないのです。それぞれの立場と視点による無数の世界史があると言えます。世界史とは名前だけがそうなっているのであって、ある時代のある時期という時間、ある場所という空間の制約の中にあるわけです。

 人に世界が俯瞰できるわけがないじゃありませんか。時間的にも、空間的にもです。世界地図も言葉の綾という意味です。

 このように人には、自分にできもしないことや自分に検証もできないことを言葉にする習性があります。真理や普遍や客観や魔法や悟りがそうです(努力目標なのかもしれません)。

 言界は現界とずれています。どれくらいずれているかは、人それぞれでしょう。印象の問題だからです。そこそこずれているか、とほうもなくずれているか。

 言界と現界がそこそこ対応していると感じて、たとえば世界史という言葉を文字どおりに取ってしまう。これは致し方ないことです。

 人は目にした文字、読んだ文字を、いったん信じます。信じないと読めないからです。読むことは信じることなのです。

 判断、批判、否定、評価は、信じた後に来ます。ただ信じることの容易さにくらべて、判断、批判、否定、評価にはエネルギーを要します。考えなければならないし、調べることも必要でしょう。

 面倒なのです。だがら、たいてい「信じた」だけが残ります。

 空間的なものにしろ、時間的なものにしろ、俯瞰はローカル、つまり局所的なものでしか、ありえません。そもそも視野自体が枠であって、枠には限りがあります。

 俯瞰の語義としてある「全体を見おろす」というのは「部分を見おろす」であるという意味です。あくまでも見ているのは部分なのです。

 また視野全体をまんべんなく見ることができる人はいないでしょう。焦点があるからです。集中すれば、捨てる部分、見ない部分が必ず出てきます。

「捨てる」と「見ない」を選択と排除と言い換えることもできます。その結果として、「たまたま残ったもの」が、たとえば歴史を構成するのです。必然でそうなっているわけではありません。

 また、良いものが残ったとは必ずしも言えないでしょう。運が良かったとは言えると思います。すごい強運です。

 残ったものは強いです。無言で既得権益を主張することができるからです。しかも誰も既得権益とは言いません。

 遺産や古典としてもてはやされます。それしか残っていないのですから、失われた同時代のものと比較できません。褒めるしかないでしょう。

 長く残っているものにはファンも多いです。崇拝者もたくさんいるでしょう。ますます評価されます。ただし競争者のいない評価です。

 結果オーライということです。

 部分なき全体、つまり全き全体とは抽象でしょう。抽象は便利です。焦点や視点と同じく、捨てること、無視することで成りたつからです。つまり、抽象とはすかすかだという意味です。

 部分に集中することで全体をながめるという抽象は、人類の悲願だと思われますが、それは彼岸の話でしょう。この世ではありえない話です。虫のいい、貪欲な願望であることは確かです。

 幻界ではありえる話でしょう。幻界はそうした不条理で荒唐無稽な話に満ちています。現界での、願い、思い、祈りは、人の幻界で花咲きます。

 する・される、部分・全体、世界史が言葉の綾ではないかというお話でした。