星野廉の日記

うつせみのあなたに

誰が語っているのでしょう

 置きかえた瞬間に、そこに立ちあらわれるのが名詞だと思います。名詞が名指してそこに何かが固定される。名詞も「名指す」も、それに相当するものが自然界には見当たりません。あえて言うなら、自然界にあるのは動詞(「動き」ではなく「動く」)ばかりなのです。

 名詞も動詞も名詞であることに変わりはありません。人のすることなすことのすべてが名詞だからです。人の書いた文章に名詞が満ちているのは当然でしょう。動詞という名の名詞も含めての話です。動きは動いてはじめて「動く」なのだとも言えます。

 人は不自然であり、つまり名詞的であり、動きをあつかうのがきわめて不得意だと考えられます。人は動きを名指して固定しないと、つまり言葉に置きかえないととらえられないようなのです。

 動きを言葉にした瞬間、それは名詞になります。動きだけでなく、もののありようも言葉にしたとたんに、名指されたもの、つまり名詞となるのですから、名詞は名指と表記するのが妥当ではないかと思うほどです。

 誰が語っているのでしょう。上のような文章を書いているとそう思います。「名詞を名指と表記する」とか「名詞も動詞も名詞であることに変わりはありません」なんて尋常ではありません。ふつうではないのです。

「語るは騙る」なんて言い回しもそうです。言葉の音(おん)や形(かた)の「似ている」点や面にうながされて言葉がつづられています。「論理とか理屈というもの」にうながされていないことは確かです。

 こういう騙りは、レトリックとか言葉の綾とか駄洒落とか言葉の遊びとかに、置きかえることができますが、誰が語っているのでしょう。言葉が語っているなんて言えば、まさに騙りでしょうが、すべてのかたりが騙りだと居直れば、そうも言えそうです。

 何とでも言えるのが言葉の特徴です。この「言う」も「語る」も「騙る」も「書く」も、「置きかえる」とそっくりの身振りをしているように見えます。どれもがそっくりな点がそっくりなのですが、このそっくりさんたちをそっくり置きかえて「名詞にしている」と考えてみましょう。

「名詞にする」とは手なずけているのです。名づけることで手なずける。手なずけるのは、怖いからです。手ごわいから名づけて、つまり名前をあげて、餌づけるのです。餌は生きがいいのをあげるのがいちばん。生餌です。なまえをあげるのです。供物に似ています。

 こわいものをなづけて飼いならす。不思議であったり、恐ろしいものや、もののありようを「これは〇〇現象と言うんですよ、ほかにもあります」「ああ、それは〇〇効果、よくあることです」というぐあいに。名づけることで何にも解決されていないのに、個々の事象の事情を切りすてて解決済みとする。人の常套手段でもあります。げんに、ここでもやっていますね。

 そもそも機能に限界があるのは視覚だけではなく、知覚全般や脳自体にも抜けがあるみたいですから、人にとって不思議や謎や「わからない」があるのは常態であり、名づけて解決済みの振りをするのはきわめて杜撰(ずさん)つまりテキトーだと言わざるをえません。

 誰が語っているのでしょう。誰が語っても騙ることになると思います。

 名前をつければ手なずけた気持ちになれます。手なずけて飼いならす。慣らすは均すです。でこぼこしたものを平らにするのです。そうです、平ら、平たいです。平たくすればやさしくなります。易しい、優しい。やさしくして、痩せさせたいのかもしれません。スリム、シンプル、やさしい、やすい、痩す、やせる。

 痩せれば扱いやすいでしょう。やすくなるのです。太いよりも痩せているほうが扱いやすい。大きいよりも小さいほうが入れやすいし入りやすい。小さくする。細くする。絞るのです。●→・。小さくすればチョロいよと思っているのかもしれません。いや、そうにちがいありません。人の考えそうなことです。

 濡れてふくらんだ雑巾を絞って細長くするだけではなく、カメラのレンズなんかで絞りという場合の「絞る」、音を絞る、話題を絞る、人数を絞る。口をすぼめる感じです。「酸っぱい」なんて言うときの唇を思いえがくとわかりやすいでしょう。梅干しを思いだしてください。

 一本化するイメージ。「決める」もそうですね。束をまとめて一本化を目指すのが「決める」のイメージ。抽象もそうです。余分だと思われる部分を切り捨ててすっきり痩せたものにする。捨象なんて言って抽象の親戚です。痩せて細いほうが入りやすいし入れやすいからです。ごちゃごちゃぐちゃぐちゃして容量が多いと、入れにくいし、伝えにくいし、うつしにくい。

 これはシンプル、さくさくと読める、事実は単純明快なの、一言で言えないものは真理ではない。

 誰が語っているのでしょう。誰が語っても騙ることになると思います。

 誰が話しているのでしょう。

 話す、放す、離す。音がそっくりなだけでなく、イメージが似ているのです。何かがはなれていく。むこうにいってしまう。たぶんあっちにいって消えてしまう。それが話す、放す、離す、です。すぐに消えるのですからはかないですね。

 いつまでも、しつこく居座る「書く、掻く、描く」よりはましです。「かく」(ひっかいて傷跡を残す)はすごく不自然なんです。反自然と言ってもいいくらい。かいてもじつはかいていないので、もがき、あがくしかありません。えんかくそうさなのです。つまり、遠隔操作であり隔靴掻痒。

 話す、放す、離す。書く、掻く、描く。それぞれの言葉の身振りの「振り」、つまり動きや、形、つまり様子が似ているのです。似ていれば、口で繰りかえして聞きくらべたり、並べて見くらべて「おお、似ているわ」と感心したり、置きかえて「同じだよね」と納得できます。

「似ている」は人を惹きつけます。赤ちゃんや幼児を見るとわかります。こどもを見るとわかります。おとなを見るとわかります。

 話をつづけるためには、似ているでつづけるのがいちばん相手を安心させられます。話が飛ぶと相手が混乱して怒りだすこともままあります。適度に飛ぶのはかまいませんし、相手が面白がることもあります。反復と変奏を適宜に、です。音楽と同じ。

 音が似ていなくても、イメージや振りや感じが似ていればだいじょうぶです。「似ている」は人を安心させます。

 こういうのは、人の常套手段でもあります。げんに、ここでもやっていますね。というか、ここではまさにそういう話をしているのです。

 似た音、似たイメージや振り。こうしたものが人を安心させます。人は「似ている」が好きなのです。たぶん嗜癖(しへき)しています。依存しているという意味です。「似ている」が先に来て、底にある感じです。「似ていない」は、ぜんぶ「異なる」とか「違う」となります。「似ている」に一本化されるのです。「似ている」と「その他もろもろ」という感じ。「異なる」は刺身のつまなのです。

 というか、人には「異なる」がとらえられないようです。たぶん、気づかないのです。逸(そ)れる、すれる、外(はず)れる、誤(あやま)る、ずれる、すれ違う、違(たが)うしかない。ひょっとすると怖くてまともに向きあえないのかもしれません。見ていない振りをしている感じも濃厚です。「似ている」を見ているほうがずっと楽でしょうから。

 いずれにせよ、「似ている」と「その他もろもろ」なんて大ざっぱですね。絞らないと、人はものごとをとらえられないからです。視界にある枠はふだん認識されませんが、人は枠にとらえられています。枠でとらえているのではなく、枠にとらえられているのです。こう考えると、人の内にも枠があると考えられます。

 視界とか視野には枠と同時に焦点があります。これも絞りです。絞らないと見えないのです。人は自分が思っているほど視力がよくないのです。脳もそうにちがいありません。機能だけでなく、容量が制限されているのでしょう。枠と絞りは似ています。同じとは言いません。「似ている」は印象であり、検証できません。そもそも、ここでは検証可能な話はしていないのです。

 一方、同じや同一は印象ではないようです。たぶん計器や道具でないと、はかれないし検証できないと思われます。同じや同一は人知を超えているとも言えそうです。「似ている」しかとらえられないし扱えないのですから。せいぜい「そっくり」とか「激似」という言葉でお茶を濁すしかありません。

 原則として同一は世界にたった一つしかないはずです。でもその検証は人の知覚には荷が重すぎるのです。似た物と偽せ物の区別ができないという意味です。せいぜい「た」と「せ」が違うことしか見分けられません。しかも本物の似物や偽物の本物があって、ことをややこしくしています。

 大切なことなので繰りかえしますが、「同一」は人には検証できません。きわめて精密な機械が必要です。そんな機械にも誤差があるそうです。やっぱり「似ている」は楽です。人に向いています。

 おそらく人は、枠があり絞った視野とか視界で世界を見ているのでしょう。その視界では「似ている」が基本になります。「似ている」は篩(ふるい)とか簾(すだれ)みたいに細かい格子状をしていると思われます。格子なんて言うと、整然としたイメージがありますが、人の視野はまばらでまだらなのです。人は「似ている」に合わせて「見ている」のです。

 まばらでまだら状の網越しに、絞った視野で、まばらでまだらな「似ている」を見ている。そんな感じではないでしょうか。これは、見ている本人にはわからないし、検証できないという意味でたわごとにほかなりません。ここではたわごとしか話していません。

 なにしろ、いまお読みになっている文章は小説なのです。タグも付いています。フィクションですから、実在の人物や事物または場所とはいっさい関係ありません。

 誰が、かたっているのでしょう。誰が、はなしているのでしょう。誰が、かいているのでしょう。

 誰があるいは何が……。たぶん、こう書くべきなのだろうと思われます。言葉をかたり、はなし、かくという不自然なことを人がやっているから、こんな込みいったことになっているのではないか。そんな気がします。きっと人はもてあそばれているのです。チョロいよと思われているのです。言葉に、です。