星野廉の日記

うつせみのあなたに

不意に立ちあらわれるものについて

文章を読んでいて

 文章を読んでいて、話を聞いていて、ふいに立ちあらわれるものがあります。文章であれば文字、話であれば声です。当たり前の話ですけど、ついそれを忘れてしまいます。

 そこにある文字ではなく、その向こうにある別の何か、いま聞こえている声ではなく、それが呼びさます別の何かを、読み、聞いてしまうのです。それは読むというより書く、そして聞くというよりも話すなのかもしれません。

 誰かが書いた文字を読みながら勝手に頭の中で書き、誰かが口にした声を勝手に自分が口にしている。そんな気がしてなりません。当然のことながら、そこにはずれが起きます。置きかえているからです。それがもどかしさに通じ、ままならさを生みます。

いまは便利になりました

 いまは便利になりました。以前なら文章を書いてそれが多くの人に読まれるためには、誰かが紙に文字をつづる、その紙の上につづられた文字を別の誰かが読んで手直しをし、その紙を受けとった別の人が手書きの文字を活字に組んだといいます。

 つぎに印刷されます。手で書いたインクの染みが新たなインクの染みになるわけです。

 そうやって印刷された文字をのせた紙がとじられ、他の紙といっしょに一つにまとめられ、運ばれ、本や雑誌であれば書店の棚に並べられ、誰かの目にとまり、その手にのり、その人の家に連れていかれる。

 そのあいだに、何人の人の手を経たことでしょう。どれだけの距離を移動したことでしょう。

 それが、いまでは、パソコンやスマホの画面上に、誰かが文字をつづり、それが一瞬のうちに他の誰かの目にとまるのです。しかも修正や加工や改編が可能な場合がままあります。こんな夢のような話をかつて想像した人はごく少数であったにちがいありません。

 いまの当たり前は、ちょっと前まではぜんぜん当たり前ではなかったのです。

 うまいへたはありますが、言葉は誰もがある程度いじれるしある程度あやつれます。さらに自分のすぐ目の前で、あるいは手にのせ、道具や機械をつかって聞いたり話したり読んだり書いたりできれば、言葉のままならさやもどかしさを忘れます。

私は文字

 私は文字、私は言葉、私は文章、私は記号、私はもよう、私はかたち、私は画素の集まり。

――それはそうなのでしょう。そう書いた者にとっては身も蓋もない話なのですが、そうなのでしょう。ここは文字どおり文字同士がであう場ですから。

 あなたとお呼びしたらいいのか、それともみなさんがいいのか迷います。むしろ、私たちというべきなのかもしれません。

――そう言っているあなたは誰?

 あなたがいま目にしているのが文字であることは確かです。画素の集まりであることも確かです。でも、それが具体であって抽象ではないと言いきれません。

 抽象とは、ありもしないことやものという意味です。ありもしないことやものを相手にするとは、あるはずのものやことにたどり着けない人間にとっては、基本的なありようであり手段だと考えられます。

 ありもしないことやものを、あるはずのことやものをないがしろにして、いじるのが人においては常態になっているという意味です。

――あ、私もです。

 当然のことながら、こうしたことをやっていると、ずれが生じ、そのずれこそが、さらにままならさと、もどかしさをもたらします。

――私も困っています。

ラジオが懐かしくてたまりません

 ラジオが懐かしくてたまりません。幼いころに、言葉に触れたと感じたのがラジオでした。ふだんの生活の中で言葉に触れながらも、言葉の不思議さと素晴らしさを感じたのがラジオの放送でした。

 遠く離れたところから声や音や旋律が聞こえてくる。それはまさに魔法の箱でした。まだテレビが一般的ではなかったころの話です。ラジオではすべてが生放送だった記憶があります。録音する技術が限られていたようです。

 いまでもラジオはテレビにくらべて、生が多い気がします。とくにローカルの放送や、特定の場所やリスナーだけに向けた放送がそうですね。

 誰かがマイクに向かって声を出し、それが一瞬ではなくてもほぼ一瞬のうちに、誰かの耳に届く。

 自分だけに向けられたささやき声を耳にしている。耳に息がかかって撫でられているようで、くすぐったい。ラジオを聞いていると、そんな気がすることがあります。

 SNSでの文字のやり取りにも、それに似たものを感じます。なんだか懐かしいのです。一対一感というか、「あなただけ」感というか。

        *

 ただし、文字は残ります。それがラジオとの大きな違いです。声はたちまち消えますが、文字は消さないかぎり残ります。具体的な現象としてはそうです。

 もっとも聞いた記憶と読んだ記憶はともに残りますが、思いの中で、まばらに残っているにちがいありません。それにあくまでも思いですから抽象です。触ることも見ることもできません。ありもしないものだともいえます。

 とはいえ、人にとってはかけがえのない大切なものです。思いや記憶は死ぬ間際までついてきてくれる、あなただけのものです。愛おしいです。

 ありもしないもので人は動き、励まされ、いやされます。だから、人はありもしないものを信じます。ありもしないものをあるものだとみんなで決めるという意味です。

「ない」を「ある」と決めて、それである程度うまくいくのですから、やめられません。味を占めて、「ない」は「ある」、と決めたつぎに、その「ある」は「正しい」、と決めます。

 もちろんうまくいかないことも、たくさん起きます。その意味で、人はつねに「賭け」ているのかもしれません。「ある」かどうかは、じつはギャンブルなのです。当たり外れがあるという意味です。「ある」と決めた時点でギャンブルだったともいえます。

声には声の、文字には文字の

 声には声の、文字には文字の臨場感があるように思われます。誰かの声を聞きながら、それを反芻している自分の声を聞く。その声は自分の声だけではなくて、これまでに聞いたことのあるさまざまな声たちが重なっている。

 文字も同じ。読みながらなぞるのです。目にしている誰かの書いた文字は、自分の中にあるさまざまな文字の記憶と重なっている。言葉は生まれたときにすでにあったわけですから、つまり、いわば借りてつかっている借り物なのですから、当たり前なのかもしれません。

 声が声を呼び、文字が文字を呼ぶ。そしてみんなして立ちさわぐ。それがここでいう臨場感です。声も文字も孤独ではありません。かかわりあいの中で、生きているといえるでしょう。

 ものを書くときに、数ある文字のうちからどの文字を選び、それをどんなふうに並べるのかは、書いている人しだいです。でも、いったん文字が書かれ、それが誰かの目に触れると、書いた人は無力です。読んでいる人が勝手に読んでしまうからです。

 人はいろいろ思いながら文字を書きつづっていきますが、文字はその思いのすべてをすくい取ることができません。書かれる文字はいたって澄ました顔をしています。思いがぐちゃぐちゃなのに対し、文字はとても静かなのです。

 文字は不動です。物だからでしょう。同時に抽象でもあるからでしょう。文字が動きますか? 動き揺らぎぶれるのは人のほうです。

 こっちは苦労して書いているのに、文字は憎らしいほど静かでシンプルな顔をしているのですが、書いている最中にはその顔が見えません。そんな余裕はないのです。

 その澄ました顔がふいに立ちあらわれる時があります。書いているときもも、読んでいるときにも、です。

 文字の奥や文字の向こうを見ていると、つまり、意味やイメージやストーリーや論旨などを追っていると、その顔には立ちあえないかもしれません。不意に、じつに唐突に、文字の顔は立ちあらわれます。

文字の顔と書きましたが

 文字の顔と書きましたが、文字の表情でもいいでしょう。顔か表情か、あるいは顔貌かなんて、言葉の綾です。言葉の綾の綾とは模様のことです。平たくいうと、形でしょうか。

 模様や形に何かを見てしまう。雲の形に何かを見てしまうのと似ている気がします。壁や天井の染みに何かを見てしまうのと同じでしょう。

 人は何かに何かを見てしまう生き物です。前者の何かと後者の何かは異なります。人において異なるだけですけど。

 ふいに立ちあらわれるものは、それに似ています。何かを見てしまう、何かにあってしまう、であってしまう。その何かに意味があるとは限りません。意味以前とか無意味ともいえますが、それこそ言葉の綾でしょう。

 その何かは遠い記憶であったり近い記憶であったりするかもしれません。その記憶が、いつのことであり、どこのことであったかが不明であっても不思議はないでしょう。

 思いとは、そうしたまだらでもどかしくままならないものです。

 文字が文字でなくなる、文字が形に見えてくる、その形が形でなくなる。ゲ〇ュタルト崩〇とかいうもっともらしい言葉で置きかえたり、くくるのはやめましょう。

 いかめしい言葉は、ものを見えなくします。ビッグワードは大きすぎて、すかすかすぎて、細かいものをすくえません。生の体験を抽象で置きかえることで、「何か」大切なものが失われてしまいます。

ただでさえ

 ただでさえ、私たちはまばらですかすかなのです。ただでさえ、もどかしくままならない体と思いをかかえているのです。そのさまは想定外というより想像以下です。

 たどり着けないのが当たり前であり、わからないのがつねであって、その中で「たどり着いた」「わかった」と言葉と思いをいじる(言葉で言って「決める」ということです)しかないようです。

 たとえば「神」「真理」「悟り」とは人の口癖です。実体とは関係なく、そう口にすることで「ある」と決めたのです。その取り決めの結果が文字として具体的に「ある」ともいえます。

 そんな状況にあって、「ふいに立ちあらわれる」は、たとえそれが錯覚であっても、まばらとままならさを不意打ちする体験だといえます。この「ふいに立ちあらわれる」は夢に似ています。夢は「ふいに立ちあらわれる」の連続です。

 思いどおりにならないというよりも、思いどおりにしようと考える余裕すらないのです。夢はあれよあれよと起こり展開します。夢ではすべてが肯定されます。荒唐無稽も起こります。それでいて懐かしいのです。現実もどきなのです。

 おそらく現実を引きずっているから懐かしいのでしょう。現実のおさらいとか、現実の記憶の出所を消す「マネーロンダリング」をしているのかもしれません。

 現実もままならず思いどおりになりませんが、夢はそれ以上にいじれないしあやつれそうもありません。ふいに立ちあらわれているからです。その連続だからです。

音楽と映画もそうです

 音楽と映画もそうです。

 夢を「ふいに立ち会われる」の連続と考えると、かつての音楽と映画もまた、そうではなかったかという気がしてきますが、楽曲と映画作品の鑑賞の仕方は大きく変わってきています。

 かつては楽曲も映画も、誰かのつくった作品であり、圧倒的多くの人たちにとって、その鑑賞は受け身的なものでした。つまり、かつての楽曲や映画作品は、素人が容易にいじれるものではなかったという意味です。

 ところが、いまでは楽曲と映画作品は、パソコンやスマホで自由自在に閲覧できるようになったのです。これは画期的な出来事だといわなければなりません。

 自分の好きなところで中断したり途中から再生し直したり、速度を変えたりできます。さらには素人による編集や加工や再利用も可能になってきました(著作権の問題や違法性についてはここでは触れません)。

 夢ではこんなことはできませんね。あれよあれよと強引に事が運ぶのが夢ですから、夢のままならさは強力です。最強かもしれません。いじったりあやつったり、加工やリピートなんてできません。保存もできません。まして、再生も。

 誰かがつくった楽曲と映画作品は、言葉並みにある程度思いどおりに、いじったりあやつれるものになってきたといえそうです。仮想現実とは、この延長線上にあるのかもしれません。

 ルールや縛りがあって、ある程度ままになるというのが仮想現実のリアリティであって(現実を真似ているからそうなります)、何でも思うままになれば、その魅力は半減するでしょう(ただし、素人が自分で仮想現実の「空間」を自由に制作できるようになれば、何でもあり状態になるかもしれません)。

 繰りかえしますが、夢のままならさは強力です。最強かもしれません。

 椅子に座ったまま手足を縄で縛られ、その縄が椅子にくくりつけられている。その身動きできない状態で、劇場の真ん前でたったひとり映画を見ている、あるいは舞台の上の演奏を聞いている。そんな自分を想像してみてください。夢のままならさとは、それに似ています。

 映画や演奏を中断することはできません。それでいて、不意に予告もなしに終わるかもしれないのです。人生や現実も、不意に始まり、不意に終わります(この場合には「ふい」ではなく「不意」です)。

人はままならない現実の中に

 人はままならない現実の中に放りこまれている自分を見いだし、その中で、ある程度ままになるものをいじりあやつることを覚え、味を占め、さらにはある程度ままになるものをつくることを覚えた。

 ふいに立ちあらわれるものは、人に自分のままならさを思いだせます、あるいは気づかせます。

 自分の底には、まばらで、すかすかで、そのため、世界を思いどおりにいじれたりあやつれない自分がいる、しかも自分と自分の底にいる自分は切り離すことはできないのだ、と。

 ややこしい話をして、ごめんなさい。うんと単純化してみます。そのためには、たとえという置きかえ(すり替えともいいます)が有効だと思います。

 自分がまばらであるというありようを、格子模様の透明なスクリーンが張ってある窓にたとえてみましょう。そのスクリーンを通して人は外の景色を見ているというイメージです(うさんくさい話で、ごめんなさい、じっさい、うさんくさいのです)。

 その視界に見慣れてしまうと、格子模様を通して見ていること、そして格子模様そのものの存在を人は忘れます。そのほうが快いし都合がいいからかもしれません。何しろ、人は気位が高い生き物です。自分がこの星の最高位にあると考えていますから。

 そんな状態にある人ですが、ぼけーっとしています。集中力を維持するにも限界があるのです。睡眠もとらなければならないし、食事を欠かすわけにはいきませんし、排泄もします。病気にもなります。いつか終りにもなります。

 あくびをしながらあるとき、あるいは頭がさえた瞬間、ふいに格子模様が立ちあらわれます。

 あ、という感じでしょうね。じつに、あっけないのです。

 それほど興奮したり感動する体験でもありません。よくあることなのです。でもすぐに忘れます。ふいに立ちあらわれるものにかかずらっていては、人は生きてはいけないからです。

 あくびが出ましたか? ごめんなさい。