星野廉の日記

うつせみのあなたに

夢は第二の現実

 ちなみに、思いが勝手に動いたり暴走するのは、夢です(あるいは幻想や幻覚も)。ままならないという意味では夢は現実に似ているかもしれません。夢とは、いわば第二の現実です。その意味で、夢も外だという気がします。ままならないからこそ、人は夢に血道をあげるのです。

 思いどおりになる夢なんて見てみたいですよね。

 でも、思いどおりになる夢が見られるのなら現実なんて要らなくなります。まさに現実から逃避して夢の世界に行きたくなるでしょうね。ずっと眠りつづけるという意味です。永眠。

(拙文「言葉をいじる」より引用)

 私には、いったん投稿した記事をいじりまくるという癖があります。「言葉をいじる」もいじりまくっていました。上に引用したのが、いじっているうちに書き足した部分です。

 現実はままならない。夢もままならない。それなら、夢は第二の現実だ。そんなふうに短絡していったわけです。

 簡単には結びつかない関係のもの同士をいとも簡単に結びつけることを短絡というようです。要するに、こじつけであり矛盾であり無茶苦茶ではないでしょうか。

 言語活動や思考や認識といういとなみの本質をついているような気がしないでもありません。なにしろ、「猫」というものと「猫・ねこ・ネコ・neko」という文字や音声を結びつけているくらいですから、人にとっての現実は滅茶苦茶です。

 現実は、なぜかそこにあります。有無を言わせず、そこに立ちあらわれています。人はわけがわからないままに、そこに放り投げられているのです。

 一方で、本来は関係ない者同士が結びついたり、当たり前の顔をして立ちあらわれて、踊りまくっているのが夢です。これも、無茶苦茶、滅茶苦茶です。現実に負けないくらい。

 何もかもが肯定されて、そこにあり、そこで動いているのが夢。荒唐無稽で、とりとめがない。ただし、荒唐無稽とか無茶苦茶というのは、目が覚めて夢からに「うつつ」に、つまり現実にもどったときに夢を思いかえしていだく思いです。

 夢の中では、それが夢だとは意識しないし(「意識できるよ」とおっしゃるあなたに座布団一枚)、夢批判とか夢批評なんてできません(もちろん、夢分析や夢占いもできません)。

 夢は思いどおりになりません。つまり、ままならない。やっぱり、第二の現実に思えてきます。

        *

 話を変えます。

 図式化すると以下のようになります。

 現実:外(ままならない)
 言葉:外と内(外と内の両面を兼ねそなえた便利なもの・じっさいにはままならないが思いどおりになると錯覚させる)
 思い:内(ぐちゃぐちゃ、ままならない)

 現実:外にあり、外そのもの(本来は言葉と無関係であり無縁である)である
 言葉:外にあり、外そのものであると同時に、外から内に入りこむ
 思い:内にある、得体の知れない=本来は言葉にならないブラックボックス、実は外

 これも「言葉をいじる」からの引用ですが、自分で書いたものとはいえ、あらためて見ると、うさんくさいです。荒唐無稽でもあります。夢を見て書いたとしか思えません。

 とはいえ、自分が書いたものはかわいいものです。ちょっとだけ説明させてください。

 現実と言葉は人の外にあって、思いどおりにならなくて、物でもある――言葉のうち、音声は空気の振動ですが、空気は物であり、ふるえは抽象です、一方の文字はたとえばインクという物質であり、同時に形という抽象です、音声と文字はどちらも物と抽象の両面を備えています――というのは何となくわかります。

 それに加えて、思いが物ではないということまではわかりますが、外であるとはどういうことなのでしょう。これは「たとえ」だと考えましょう。

 言葉の綾とも言えるでしょう。レトリックというもっともらしい外来語で呼ぶこともできますが、ここでは言葉の綾と呼びます。

 ところで、綾って何でしょう? 

 辞書で調べると「模様・もよう」という言葉が見えたので、要するに形とか姿とか表情ではないかと感じました。抽象的なものであり、それを知覚するためには物や物質に助けてもらわなければならないということです。

 それって、音声や文字のことじゃないですか? 

 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫の話を思いだします。猫が笑って、その笑いだけが残るというお話です。

 猫という物つまり具象が消えて、笑いという表情つまり抽象が残る――。

 ルイス・キャロルって面白い話をとてもリアルに書いた人ですね。私には難しすぎて苦手なのですが、すごい作家だと思います。かなりこみいったややこしいことを子ども向けのお話という形でリアルに書ける人なのですから。

 このすごい作家についてすごいことを『意味の論理学』で書いたジル・ドゥルーズもすごい。すごいの連続で、ごめんなさい。それくらいすごいんです。

 そのすごさを実感するには、『不思議の国のアリス』と『意味の論理学』を読んでいただくのがいちばんだと思います。「なんも言えね-」状態になるか、惚(ほう)けたように「すごい」を連発するしかありません。個人の感想です。

 言葉の綾の綾とは、模様のことで、模様とは具象と抽象を兼ねそなえているという意味で、音声や文字とそっくりである。音声と文字は言葉である。したがって、言葉の綾の綾とは言葉とそっくりである。つまり、模様は言葉とそっくりである。

 言葉の綾とは言葉の言葉ということになりそうですが、不思議の国に迷いこみそうなので、ここでストップします。

        *

 わかったようなわからないような話ですね。ある意味もどかしいです。ままならなさを感じます。でも、それでいいのではないかとも思います。言葉の綾を文字通りにとって本気にすると馬鹿を見るという意味です。

 これは『不思議の国のアリス』を読むと、体感的に実感できます。『意味の論理学』を読むと、頭で理解できます。

 とはいうものの、模様は言葉とそっくりであるというのは、かなり言えている気がします。

 模様を、笑いのような表情とか、あるいは仕草とか、身振りと考えると何となくわかるような気がします。形という意味では抽象だけど、その形を知覚したり認識するためには、その形が具体的な物で構成されていなければならない――ということでしょうか。

 そう考えると、視覚でとらえている形そのものも模様と同じだということになります。ということは、見えるものすべてがチェシャ猫の笑いみたいなものになりそうです。

 みなさん、笑いを思いうかべてみてください。誰の笑いでもいいです。できれば目をつむってください。待っています。

       *

 見えましたか?

 その笑いって何でしょう? あなたの頭(心でも魂でも脳でもいいです)の中に浮かんだ笑いってイメージですね。心象とか印象です。つまり、思いの一種ですよね。

 その笑いを、あなたは自由にあやつれますか? 心に浮かんだものを自由に、その動かしたり、形を変えたりできますか? 自由自在にですよ。

 べつに笑いじゃなくてもいいです。心に浮かんだもの、つまり思いを自由に操作することができますか? 

 私にはできません。たぶん、物じゃないからあやつれないのではないかという気がします。それが外なんです。思いは外なのです。正確には、内にある外です。

 思いとは、内にあって、得体の知れない、つまり本来は言葉にならないブラックボックスであり、実は外なんです。

 ですから、笑いに実体はあるかとか、笑いとは何ぞやとか、上でやっていたように問うのはおそらく意味がありません。言葉の綾です。文字通りに取るとたぶん馬鹿を見ます。外という「たとえ」についても同じです。

        *

 思いをあやつることは、人によってある程度できるかもしれません。ただし、夢のようにリアルな、視覚的であったり聴覚的であったり場合によっては触覚や味覚や臭覚をともなうイメージを自在にあつかうことは無理なのではないでしょうか。ままならないのではないでしょうか?

 夢は、第二の現実だとつくづく思います。夢は内(思いの中)にあって、現実と同じくままならないし、あやつれないのです。思いどおりになる夢を見てみたいなあ。切にそう思います。

 思いは思いどおりになりません。

 夢レベルの思いを自由にあやつれたら素晴らしいでしょうね。もしそんなことができるなら、ままならない現実なんて要りません。ままならない夢も要りません。頭の中で、思いどおりにいろんなイメージをあやつっていればいいのですから。

 思いの中で何でもできるんですよ。どこへでも行けます。思いを思いどおりにできるのです。人の欲望には限りがありません。実に欲深い生き物なのです。

 ちょっとだけなら可能だとしても、現実はいじれないしあやつれない。どうやら、思いも思いどおりにできそうもない。第二の現実である夢も、まず思いどおりならないしいじれない。

 人生とは、つまり人として生きていくのは、ままならないことだらけ。

 そのままならない森羅万象の中にあって、唯一言葉だけが、そこそこいじれるしあやつれる。じっさいには、いじったりあやつれる気分にしてくれるだけみたいだけど、とりあえず、この何でもできるという気分を大切にしよう。

 何しろ、言葉があって、ここまで来たのだから、だいじょうぶ。月にまで行けたじゃない。2000年問題に打ち勝ったじゃない。気温も上がったじゃない。これからもだいじょうぶに決まっている……。いや、やばいかも。

 いずれにせよ、言葉に感謝。言葉なしに人は生きていけない。