星野廉の日記

うつせみのあなたに

私は言葉である

「私は言葉である」という言葉をとっかかりにして言葉をつづってみると、いろいろな気づきがあります。

「私は言葉である」とは、星野廉という人物が、「自分は言葉である」という比喩を用いて書いている文にも取れるし、言葉が自分のことを自己紹介している話にも解釈できます。また「言葉(ことは)」という名前の人やキャラクター(登場人物)である可能性も浮かんで、きりがないのです。

 まさに語るは騙るであるというぐあいに、語るに落ちるという落ちになります。

 なんでこんなことを書いているのかといいますと、「私は言葉である」に似た設定の小説を書こうとしていて、そのためのとっかかりを求めているからなのです。

 この小説は未完のまま放置しているものなのですが、ときどきやって来て私の袖を引っぱるのです。ねえねえ、廉さん、まだなの? もうそろそろでは? 私、我慢できない。

 いま書いた文ですが、その未完の小説になりきっている自分――「私は小説である」的な心もち――を感じます。とても他人事とは思えないのです。そりゃあそうですよね、自分の作品とは、たとえそれが未完であったとしても、自分の子どもみたいなもので愛おしいしかわいくてならないのです。まして長くほったらかしにしていたとなると不憫でなりません。ごめんね。

 どうしましょう。久しぶりに訪ねてきたその子に情が移ってしまい、心中穏やかではない気分になりました。子をもった経験のない私ですが、こういうことはよくあります。とつぜんやって来るのは、我が子のような存在だけではありません。

 このところ、夜になるとやって来る女性がいます。枕元に立つのです。顔はよく見えないのですけど。というのは、半分冗談です。神仏のたぐいは信じていませんし、超常現象とか神秘体験みたいなことはほとんど無縁で生きてきました。でも、半分冗談ですから、半分は本当なのです。

 夜な夜なやって来るのは、書きかけで放置してある小説の登場人物です。長い間温めているにもかかわらず、なかなか完成できない小説がいくつかありますが、そのうちの一編の主人公さんなのです。その人とはそれほど長い付き合いではありません。お付き合いを始めて二年くらいになります。

(拙文「一人でいるべき場所」より引用)

 ただいま引用した文に出てくる「女性」は、記事という形で(成仏させてじゃなくて)務めをまっとうさせてやりました。あの記事は一種のメタフィクションだったというわけですが、メタフィクションもフィクションです。ちなみにデスマスクもマスクです。 

 ここまで書いてきて思ったのですが、ものを書くときにはいろいろなものにうつりかわる、または擬態する自分がいます。この状況は何かに似ていると考えていて、読むのに似ていると思い当たりました。読むことは書くことだ、書くことは読むことだなんていう、文学理論の本に書いてありそうな高尚なお話レトリック=トリックではありません。

 文章を読んでいるときには、読みながら、書かれていることだけでなく、書かれてもいない以外のいろいろなものやことが次々と頭に浮かびます。

 集中力が散漫な私だけに当てはまることかもしれませんけど。

 要するに、読んでいる最中にさまざまなものやことのあいだを行ったり来たりするのです。何がって、たぶん私(自分)星野廉and/or言葉がです。書かれている言葉がいろいろなイメージを呼び起こすのかもしれません。読んでいる言葉や文字を離れて、脳や神経が軽い暴走を起こしているのかもしれません。

 こういうことは、映画やテレビを見たり、歌をうたったり、その辺を歩いていたりしても起きます。まして、文章を書いているときにはかなり強くというか激しく起こっている気がします。

 歳のせいかしら。話す相手がいないのでわかりません。

 飛躍した言い方になりますが、思うとき、書くとき、読むとき、聞くとき、触っているとき、匂いを嗅ぐとき、舌で味わっているとき、感じているとき、人は一時的に何かになっている、あるいは脳と神経をふくむ身体でなぞっているのではないでしょうか。憑依なんて言いませんけど。

 自分がどこどこに住むだれだれであるということを一瞬あるいは部分的に忘れてしまう。何かになるどころか、ときにはなりきってしまうこともある――。そのとき、意識はあるのですが、まばらであったり、まだら状になります。

 これも、常にぼーっとしているとよく言われる私だけに起こっていることなのかもしれませんけど。

        *

 この文章を書いていて思ったことなのですが、タイトルが「私は言葉である」だからなのか、私は言葉である、私は文章である、私は未完の小説である、私は文字である、私は画素である、私はPCの画面である……なんて具合に、いろいろなものになる、つまり擬態する自分を感じるのです。行ったり来たり、入ったり出て行ったり、スイッチが入ったり切れたり、とにかくせわしないのです。

 よく考えると、いま始まったことではなく、これまでもそんなふうだったようにも思えます。

 私は自己暗示をふくめて暗示にかかりやすい人間なようです。そんな気がするとそんな気になってしまうのです。じつに乗りがいいというか、単純だというか、浅はかきわまりないというか。お酒や薬物にも弱くて、聞くところによるとすぐにころりと効いてしまうらしいのです。

 言葉こそが人にとって最強の嗜好品であり薬物であり麻薬ですから(何しろ人は言葉に依存し嗜癖しています言葉なしには生きられません)、私みたいな軟弱な人間が言葉にころりと参るのは当然だという気がします。

        *

 話を戻します。

「私は言葉である」に似た設定の未完の小説があって、その命をまっとうさせてやりたいという話でしたね。

 

……………ここにいると、君と僕との間に起きた出来事が記憶ではなく小説のように思われてくる。僕がこうやって過去の出来事の記憶を言葉としてつづっているせいだろう。書かれた記憶は、まるで小説のようだ。自分の書いた文章を読み返していると、いったい誰が書いた物語なのだろうと不思議な気持ちになることがある。確かに書いたのは僕だ。書いた記憶があるからね。ただいったん書きとめられ文章となった、出来事の記憶を読み返すと、果たしてその文章は僕が本当に書いたのだろうかという思いが頭をもたげてくることがある。そういう時の僕はひどく疲れているのだ。

 身体がないのに疲れるのはおかしいと人は思うにちがいない。でも疲れるんだ。頭だけになった、いや正確に言えばおそらく脳か意識になったらしい僕なのに疲れは感じる。眠くもなる。そして眠りに落ちる。夢を見る。夢を見ない眠りもある。夢を見たのを覚えていない場合もあるだろう。そして目覚める。ここはどこ? 寝覚めが悪いと決まってそう思う。少し考えて、ああいつものここね、とつぶやき諦めとともに完全な覚醒を待つ。すっかり目が覚めると、ネット内をあちこち歩き回るか、考えごとをする。

 考えごとばかりに耽っていると収拾がつかなくなっていらいらするから、こうやって思いを文書にする。言葉はその時々の思いや感情を文章という形で固定するから、支離滅裂になりがちな僕の思考を抑制しなだめてくれる。書かれた言葉を眺めていると不安が消えて気持ちが安定する。そんなわけで、文章を書いている時がいちばん生き生きする。いったん書かれた文章には妥協するしかない。いじり出すと収拾がつかなくなるからね。最近よく考えるんだけど、ただ書いているだけでは駄目だ。ただひとり言を書いているのと君に当てたメールを書いているのとは雲泥の差と言っていいほど違う。君に話しかける時、僕は幸せを感じる。

 書くのに疲れると、例の感情に支配される。これは誰が書いた文章なのだという疑問だ。自分が自分以外の誰かの書いている物語の中にいるような居心地の悪い気分と言ってもいい。いっそのこと自分が架空の存在だったらどんなに楽かと思う時がある。そんな時には自分を突き放して見つめている自分がいる。自分は突き放されているのだけど、何か大きな存在に身を任せている安心感がある。……………

 

 以上が、その未完の小説の一部です。タイトルは決まっていなくて「意識だけ」という名前でテキストエディタのファイルに収めてあります。

 この「僕」というのは、意識だけになってネット上でメールを書いているのです。意識だけと言いましたが、脳をふくめて身体がないのです。その存在を確認できるのはメールという形の文章だけ、つまり「僕は言葉である」「僕は文章である」、「僕は未完の小説である」、「僕は文字である」、「僕は画素である」、「僕はPC画面である」……という感じ。

 どうしましょう。

 体調が悪いので、この小説の続きを書いて、なんとか終わらせることができるかどうか、自信はありません。

 ひとつ言えるのは、この文章を読んでいると「私は言葉である」感がとてもリアルに迫ってくることです。機が熟したといえば大げさですが、いまの私はまさに「私は言葉である」という心境にあり、これをとっかかりにして何か書けそうな気配を感じるのです。

「私は言葉である」という言葉をとっかかりにして言葉をつづってみると、いろいろな気づきがあります。

「私は言葉である」とは、星野廉という人物が、「自分は言葉である」という比喩を用いて書いている文にも取れるし、言葉が自分のことを自己紹介している話にも解釈できます。また「言葉(ことは)」という名前の人やキャラクター(登場人物)である可能性も浮かんで、きりがないのです。

 まさに語るは騙るであるというぐあいに、語るに落ちるという落ちになりました。