星野廉の日記

うつせみのあなたに

とっかかり

 文章を書くときには何らかのとっかかりが必要だと思われます。私の場合には、よく言葉を並べます。そのうちに言葉が言葉を呼び寄せる感じで文章が書けてくることがあるのです。

 もちろんぜんぜん書けないで終わることもあれば、数行書いただけで中断することもあります。

 書きだす前に言葉を並べるのですから、白紙の状態で臨むわけではなく、漠然としたものが頭の中にあって、それを呼び出すために言葉を並べているのかもしれません。並べる言葉を選んでいる時点でもう執筆に入っているとも言えるでしょう。

 いま私は「とっかかり」について書こうとしています。頭の中で、とっかかり、よりどころ、よすが、たより、というぐあいに言葉を並べて転がしているうちに第一文が出てきて、その文を眺めながらその続きを書いています。こういうのをでまかせとも言います。文字通り、出るに任せるわけです。

 なぞるのにも似ています。雲を眺めていて、それが何かに見えてくるのに似ているなあと感じるので、見えるとなぞるはとても近いのではないかと思います。あくまでも私の中での話です。

 この記事を書きはじめる直前に感じた、とっかかりについてのとっかかりを探し求めるさいの、ぞくぞくするような気分について、いま考えているのですが、このぞくぞくは、私がものを書くときにとても大切にしているものなのです。

 たったいま書いた上のセンテンスですが、繰りかえしが目につきますね。書きながら気づいて苦笑してしまいました。とっかかり、について、ぞくそく、書、もの、です――というふうに重複しています。

 重複に気づくとふだんはそれを避けるように書き直すのですが、いまはそのままにしています。とっかかりについて書いているからです。必死でとっかりを求めているのが具体的な言葉の身振りとしてあらわれているからです。

 書いている言葉を書いているテーマに擬態させているとも言えます。変なことをしているとお思いでしょうが、これもとっかかりを求めた結果なのです。こういう自分の妙な癖は愛しいものです。

 言葉とテーマを擬態させる、シンクロさせる、からませる。言葉が言葉に擬態する。シニフィアンシニフィエに擬態する。

 簡単な例を挙げると、ことばはひらがな、コトバハカタカナ、古斗葉波万葉仮名、kotoba wa romaji。Words are words. とか、言葉は笑い(笑)、言葉は草www、言葉はいやーん ///、@+&X暗号、こ鳥羽は変換ミス。

 いまのは半分冗談箸休めなのですが、これまでに私はこの種の書き方レトリックを何度もしてきたので、味を占めているのかもしれません。常套手段というやつです。恥ずべきことなのでしょうけど、年を取ってくると面の皮がだんだん厚くなるもようです。

 言葉は言葉。私は言葉。

 いまのは本気です。こういう擬態レトリックだらけの記事を書くことがあります。これが私にとってのとっかかりみたいです。

        *

 話しているうちに言葉につまって、しどろもどろになることがありますね。私はああいう瞬間が好きです。

 何とか言葉を出そうとして、支離滅裂な言葉を吐いてしまうこともあるし、あれれという感じで言葉が出てきて何とか意味をなしているのに自分でも驚きながら言葉を続けることもあります。つまり、よりどころがなくなって、とまどっているのに、あれよあれよと言葉が出てくるのです。

 あれは何なんでしょう? 何かに助けてもらっているのでしょうか? そのよりどころにしている「何か」とは外にあるものなのか、内にあるものなのか。外とか内とかいう言葉とイメージではすくえない「何か」なのであって、だからこそ「何か」と呼ぶしかないものなのか?

        *

 ぞくぞくとかわくわくとかどきどきを感じる文章があります。今度はひとさまが書いたものの話です。最近気づいたのですが、私がぞくぞくする文章にはとっかかりがないのです。いや、とっかかりが感じられないというべきかもしれません。私が勝手にそう思っているだけですから。

 どうなっているのだろう? なんでこんな文章があるんだろう? いったい、これはどういうことなのか?

 出会ったときの気持ちをあらわそうとしても、こんな言葉しか出ないのです。

 たとえば、固有名詞(特に人名)によっかかっている文章にはそういう気持ちをいだきません。

 ほらほら、おまえの好きな〇〇だよ、どう、おいしいかい? 〇〇印のお豆だから、ぜったいにおいしいはず。

 これじゃ、えさを目の前にばらまかれた鳩と同じじゃないですか。どこかから持ってきたえさで釣られたくはないですよ。あなたのつくってくれた料理を食べたいのです(オリジナリティなんてたいそうなものは求めていません、手でつくってくれたものが食べたいだけです、お礼に私もつくりますから)。これって贅沢ですか?

 固有名詞だけでなく、流行の言葉やビッグワードによっかかっている文章にも似た気持ちを覚えます(そうした言葉を出しても、それによっかかっていない文章は別です)。差し障りがあるので、どんな言葉かは具体的には書けませんが。

 そうした言葉は、ある社会や集団に共有されたイメージによっかかっていますから、文章を読んでいても、ああ、あれね、あの話でしょ? それくらい知ってるわよ、という感じですんなり話に入っていけます。安心して読んでいられるわけです。つまり、すでに知っていることや以前から分かっていることを確認する作業です。

 一方で、どうなっているのだろう? 的な文章には、なかなか入っていけません。とまどうわけです。それこそ、というか、まさに、読もうにもとっかかりがない感じがするからです。

 読むという行為は一方的なものですから、書いた人が目の前にいない限りは、あれこれ自分で考えなければなりません。ああ、わけがわからない。なんだ、これ? そう感じられる文章を、あなたはあえてお読みになりますか? 

 自分のお金を出して買った本なら読むかもしれません。元を取ろうとして頑張るからです。でも、ブログの記事だったら、どうでしょう?

 あるいは、〇〇さんの書いたものとか、〇〇さんのおすすめだから、無理をしても読むことがあるかもしれません。固有名詞、とりわけ有名人の名前の放つ光は強いからです。読む前に価値判断をし評価を下してしまうという意味です。

 でも、無名の人が書いたブログの記事だったら、どうでしょう? 

 どうなっているのだろう? なんでこんな文章があるんだろう? いったい、これはどういうことなのか?

 読みかけてそんな気持ちになる記事がネット上、たとえばブログなどにあります。ジャンルでいえば、小説、詩、エッセイ、批評、評論、その他……なんでもあります。いろいろなケースがありますが、とっかかりがなくてなかなか入っていけないけど、知らない間に読んでしまった自分がいる。そんな読書体験を味わわせてくれる記事があります。

 偶然目にした記事、読む義理もない記事との出会いほど、「純粋な」読書体験はない気がします。目の前には言葉しかないのですから。

(もちろん、読みにくければいいとか、ややこしければいいという話ではありません。また新知識や新事実――そんなものがあるのでしょうか――や新発見が披露されているという意味でもありません。具体的な言葉の身振りや言葉のあらわれ方、つまり文章体験の話をしています。あと、ひとつ確かなのは、この読書体験は評価や評判や権威とは無関係だということです。)

 そうした記事には固有名詞や流行の言葉やビッグワード――どれも読むときにとっかかりになるもので、これがあると分かりやすいし分かった気持ちになれます――はあまり出てきません(あったとしても、それに釣られて読んでいるわけではないのです)。ぜんぜん出てこない記事もあります、それも毎回(これがすごいのです)。

 でも、ぞくぞくするのです。ぞくぞくわくわくあれよあれよ――こんな貧しい言い回ししか頭に浮かびません。あえて言葉にする必要すら感じさせないとも言えるでしょう。

 こうした出会いはまれです。しょっちゅうあることではありません。だからこそ、またその体験を味わいたくて、そのアカウントに出かけます。同じ体験があるわけではありませんが、似たような体験があったり(がっかりもあります)、何度か訪ねるうちに、べつのわくわくやぞくぞくがあったりして、結果的にそこの常連になっているのです。

 なんででしょう? そこで何が起こっているのでしょう? これは、おそらく個人的な印象の話なので、自分で考えるしかなさそうです。

 ある事物や言葉について、誰もが、自分だけに通じるイメージを持っていると思います。そのイメージとは、その人だけがいだいている心象であったり風景であったり連想であったりします。たいていは人に伝えられないものです。一人受けするギャグのように。

 また、イメージは不動であることはまずなく、うつりかわったり、ゆれうごくものであり、そのずれやゆれの度合いはさまざまである気がします。ひょっとすると、イメージとは、自分の意志や意思とは関係なく、あらわれ、ゆらぐものなのものかもしれません。壁の染みや雲の形のように。

 それでいて、おそらく死ぬ間際までついてきてくれるという意味で愛おしくかけがえのない、あなただけのものなのです。

 きわめて個人的なものですから(共同体に共有されるとかいうイメージについてはここでは考えません)、そういうイメージは辞書にも事典にも図鑑にも書物にも載っていないでしょう。

 簡単にいうと、たとえば「カエル」という言葉を辞書や事典やネット上のサイトで調べても、いま話している意味での「カエル」のイメージと同じ――部分的に似たものはあったとしても――記述や映像は見つからないでしょう。

 要するに、あなただけの「カエル」にまつわるイメージの話だと考えてください。似たものはあっても同一のイメージはないはずです。あなたのこれまでの生の総体(生き方、生きざま、日々の生活、生きてきた場所と時間)と深くかかわるものだからです。

 あなただけのイメージという場は、たとえばカエルが帰るや変えるや買えるや虹(←蛙)や原発シェイクスピアと結びついてもいてもぜんぜんおかしくない世界なのです。荒唐無稽や偶然、即秩序や必然であるような世界とも言えます。何もかもが肯定されるという意味では、夢や夢うつつに近い場ではないでしょうか。

 そんな自分受けするだけの世界を言葉や絵や曲としてひとさまの前に出すためには、それ相応の芸や手法や様式広義のレトリックが必要であるにちがいありませんが、私はその手法を普遍性とは呼びません。通じることなどありえないと思うからです。

 たとえばある個人的なイメージをあえて言葉にしたとしても、その言葉はほかの人には、また異なったイメージをいだかせるはずです。人それぞれなのです。

 私がぞくぞくするのは、たぶん誰かの個人的なイメージに偶然に触れた、とっかかりのない瞬間であり一回きりの夢なのだという気がします。