星野廉の日記

うつせみのあなたに

あう、でくわす、ふれる

 粗雑な話になるのを覚悟して、単純に考えてみましょう。

 AとBがあう、またはでくわす。それぞれが相手にふれることもあるだろう。

 こんな状況とかストーリーを想像してみましょう。

 AとBは、何でもいいです。人と人。人ともの。人とこと(この場合のこととは現象とか抽象です)。ものとものとか、こととこととなると、物理学(physics)の領域に踏みこみそうなので、形而上学(metaphysics)的な枠内に踏みとどまりましょう。

 なお、ここでのmetaphysicsとは、英和辞典にある「机上の空論」とか「抽象的論議」という意味です(リーダース英和辞典より)。要するにたわごとですので、無いものねだりはなさらないでくださいね。

 よく考えると「AとBがあう」、これだけの話です。人は出会い、そして別れる。人生はそんなものさ。なんていうもっともらしい言い回しを連想します。そうなのかもしれません。

 出会ってから別れるまでは何があるのでしょう。交流、交際、付き合い、触れ合い。「交」は「まじりあう」です。付き合いにも触れ合いにも「あい・あう」が見えます。あいは愛だなんて言いたくなります。でも、言えている気がしませんか。

「僕たち、愛し合ったじゃないか」「はあ?」

 これに似たやり取りがよくテレビドラマや映画や小説に出てきます。要するに「すれちがう」が生じたわけです。相手と自分の思いがくいちがうというのはよくありますね。思いだけじゃありません。「言った言わない」「やったやらない」と言い合い、言い争う。検証可能な食い違いもあれば、事実は永遠に不明なんて事態もありそうです。

 人と人が出会い、そして触れ合う。お互いに見つめ合いながら、話し合いながら、肌と肌を接し合いながら、思いは離れたまま、合ったとしても部分的なものであって全面的な「合う」=一致ではない。まして結合ではありえない。同床異夢のうつつ版です。

 それなのに、「しあった」と過去形あるいは完了形で言い表し、それが「しあった」ことになる。

「僕たち、愛し合ったじゃないか」「はあ?」

 よくある話です。ありすぎなくらい。こういうものだと腹をくくるしかないのかもしれません。

「合う」の「合」を漢和辞典の解字で調べると、「人+一=蓋」で、それに口(容器)を合わせる、なんて説明があります。お鍋みたいですね。

 それにしても、人という漢字はすごいですね。支え合うように、もたれ合っています。気になって調べてみると、立った人(一人です)が大股を広げている姿からきたみたいで、安心しました。

 支え合うなんて、いかにもできすぎていませんか。ま、きれいな話ではありますけど。いずれにせよ、私は正しい正しくないには興味はありません。

 何を言いたいのかと申しますと、「あう」とは「~しあう」の「あう」というよりも、であう、ゆきあう(いきあう)、つまり進み出てあうというイメージではないか、なのです。言い換えると、相互的な関係ではなく、一方的なものということです。

 あんた自身がそんな出会いばかり繰りかえしてきたから、そんな個人的なイメージで一般化しようと思っているんでしょ? そんなご託で世界をまとめないでちょうだい。

 なんて言われると返す言葉がありません。確かに「しあった」記憶がほとんどないのです。一方通行とすれ違いばっかりの人生――。自分でツッコミを入れて落ちこんでいれば世話はいりませんね。

 他者との「であい」は、対象が人であれ、ものやことであれ、一方的なものであり、「あう」というよりも、「ふいにであう」という意味で「でくわす」というのがふさわしい、なんて言いたかったのですが、言う気が失せました。

 話を変えます。

 作品との「であい」を考えてみましょう。今回は、作品との「あう」について話したかったのです。小説であったり、映画であったり、楽曲やお芝居であったり、アート作品を思い浮かべてください。

 その対象との触れ合いは「相互的な関係」ではありえません。一方的にこちらが見たり、読んだり、聞いたりするのが原則です。例外としては、楽曲やお芝居という形でのライブや実演があるでしょう。パフォーマンス=作品との相互関係が成り立つ場合ですね。ただし理想を言えばです。その場合でも、どれだけの「しあう」があるのかは不明です。

 小説や詩との「であい」に話を限ってみます。

 作品という他者の間にあるのは、解釈です。こちらからの働きかけと考えることもできます。これまでの自分の知識や体験やいだいているイメージを総動員して作品と向き「あう」わけです。

 予備知識があるとないとでは解釈が大きく異なるでしょうが、知識がなければ「あう」はないなんてことは断じてありません。知識には量と質がありますが、しょせん相対的なものです。解釈は個人的なものですから、人それぞれです。

 作品から働きかけてくれることもありません。あるとすれば、それは擬人法や比喩をもちいたレトリックでしかないでしょう。

「僕たち、愛し合ったじゃないか」「はあ?」

 こういうやり取りさえも成立しません。

 でも、一方的でいいのです。

 愛と性についてあれだけ書きつづった谷崎潤一郎川端康成は繰り返し、「僕たち、愛し合ったじゃないか」「はあ?」を描いていたではありませんか? シェイクスピアだってそうです。村上龍だって。

 対象が何であれ――作品もです――、愛とは激しければ激しいほど一方的なものなのです。なんて言われても、気休めにもなりませんね。

 否定的な言い回しを重ねましたが、私はこうした作品との「あう」は素晴らしい「あう」だと思います。「しあう」がなくても、です。

 

 人にとって「わかる」とは、文字通り言葉にできない未知のものが「わかる」というのではなく、「ああ、あれだ」というぐあいに既知のものを確認する(つまり「わける・みわける」)作業であり、そうやって「実は知っていながら、たまたま忘れていたものや気づいていないもの」に「置き換える」だけだ。言葉にできない未知のものを「わかる」=「わける」ことは人にはまずできず、そうした稀有なことがあるとすれば、それはむしろ「あう・ふれる・でくわす」=「遭遇」ではないだろうか――。

 

 以上は、蓮實重彦経由によるジル・ドゥルーズの言葉の身振りにふれて、私なりにまとめたものなのですが、とりあえず、いまはそんな気がします。他者を「わかる」はなく(他者を「みわける・わける」はあっても)、他者とは「あう・でくわす」しかない(この状況を可能性と見るか限界と見るかは見方の問題であり人それぞれでしょう)、と図式的にまとめることもできます。 

(拙文「であう、あう、でくわす」より引用)

 あなたと作品との「であい」は、あなただけの一回きりの「あう」です。それが記憶という形で回想され反復されることもありますが、その作品と向きあった時間は人生で一度しかありません。また次回があるとしても、「いまここで」の「であい」は唯一無二の体験なのです。

 その「であい」を言葉にするのは難しいと思います。それでも、人に伝えるためには言葉にする必要があります。それはそれでいいのです。それしかないのですから。

 とはいえ、あなたには、作品とのあなただけの唯一無二の時間があったのです。これからもあるのです。いまここにあるもの、いまここにあることを別のものに置き換えないで、それを「身にうける」ことが、「あう」ではないでしょうか。

 その「あう」のさなかには、言葉は浮かばないと思います。文字通りの「言葉が出ない」とか「言葉が出ない」状況です。たとえ、小説や詩のように、作品が言葉から成るものであってもです。

「あう」、「あってしまう」、「ふいにであう」、「でくわす」、「ふいうちをくらう」、「がつーん」、「ふれる」、「出来事=偶然アクシデント」、「あたる」、「ぶつかる」、「ぞくぞく」、「あれよあれよ」。

「ふれる」が「狂れる」であることは十分にありえます。というか、この「ふれる」こそが「あう」の正統であり正攻法であり醍醐味かもしれません。ふれたとしても、一時的なものであれば害はないでしょう。

 震え、発汗、息切れ、咳、くしゃみ、鳥肌、動悸、発熱、目まい。そうした身体的な変化があらわれるかもしれません。語弊はありますが、それは発作に似た体のつぶやきであり声であり叫びなのです。寝込むことがあっても不思議はありません。

「あう」とは頭をふくめた身体的なものだからです。頭だけの「であい」ではありません。

 あうはいまここにあるのです。具体的な体験として。ひょっとすると身体を貫く体験かもしれません。

 作品の話をしていましたが、人との「あう」でも同じことが言える気がします。いま問題にしている「あう」は惰性の触れ合いではありません。とはいえ、初めての「であい」だけが「あう」だとは限りません。ぜんぜんそうではありません。

 ひょっとすると、「であう」と「あう」と「でくわす」、そして「ふれる」は、夢に似ているかもしれません。さめていないさなかの夢ですから、思い出そうとしても、その名残や断片しか浮かばないかもしれません。それはそれでいいと思います。そうなるしかないのですから。

 あと、夢を酩酊やカラオケや、忘我エクスタシー――大げさな言葉ですが、似たような体験は日常にあるはずです、こころあたりがなければそれこそ「あっていない」だけです――と考えるともっと分かりやすい気がします。とはいえ、大切なのは、こうやって別の言葉に「置き換えること」でも、分けることでも、分かることでもないのは言うまでもありません。

 とはいえ(何度も繰りかえしてごめんなさい)、「あう」は決して神秘的であったり特殊な体験ではないのです。やっぱり夢や酔いと似ています。