星野廉の日記

うつせみのあなたに

であう、あう、でくわす

 文章を読んだり書いていて、言葉のある身振りが気になってしかたがなくなることがあります。いま気になるのは「~してみる」の「みる」と、「~しあう」の「あう」です。「してくる」の「くる」と、「するようになる」の「なる」も気になるのですが、とりあえずは「みる」と「あう」に向きあってみたいと思います。あら、出ましたね。「むきあう」。

 昔の人(大雑把な言い方で申し訳ありません)の文章に「して見る」という表記があります。一方の「し合う」はいまの人が書く文章にもよく見られますし、私もそのときの気分で「しあう」とも「し合う」とも書きます。

私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。
谷崎潤一郎痴人の愛』から引用・太文字は引用者による)

【※上の例は『痴人の愛』の冒頭、つまり第一段落の第一文ですが、第二段落の第一文は「考えて見ると」で始まります。】

「ちょめちょめしてみる」という場合には、相手の顔を見て、その反応を確かめながら「ちょめちょめする」感じがしますね。いやらしく聞こえたら、ごめんなさい。「ちょめちょめしあう」だと、相手と顔を合わせて、相互に反応を確かめながら「ちょめちょめする」光景が目に浮かびます。いやらしく聞こえたら、失礼しました。谷崎先生の文章を引用した直後だからなんて言い訳はしません。

(ちなみに谷崎先生は何といっても「して見る」タイプの書き手だったと思います。読者をナンパする(『テクストの快楽』におけるロラン・バルトの言い回しです)ために頻繁に変えたとしか考えられないそのねちっこい文体は、常に読者の反応をじとーっと見ているかのようです。)

 こう考えると「して見る」と「し合う」という表記に説得力を感じますが、表記に関しては私は誰もが好きなように書けばいいと考えているので、どっちがいいかとか、どっちにすべきかという話をしているのではありません。

「してみる」と「しあう」とでは、「しあう」のほうが気になります。このところ、「みる」についてしきりに考えていたのですが、だんだん「あう」のほうに興味がうつってきました。


「あう」についてはブログで連載記事を書いたことがあり、以前から気になっている言葉です。私は文法が苦手なので、「彼女にあった」の「あう」と、「彼女と向きあった」の「あう」の違いについて、文法書を見ることはありません。まず上の「ちょめちょめ」のように、あれこれ想像します。その後で、せいぜい辞書を引くくらいです。

 で、該当するところを辞書で調べてみましたが、やっぱりねと思う説明でした。不思議なことは、いきなり調べるよりも、あれこれ自分で考えるほうが好きです。私は正解とか分かるを求めてはいません。ああでもないこうでもないというプロセスが楽しいのです。


「であう」という言い方には「であい」という言い方につきまとっているイメージ(出会い系のことです)が重なるので、使うのを避けたい。さらには「おちあう」とか「しめしあわせてあう」という意味あいのない、つまり偶然にあうという意味での「であう」という意味に似た言葉がないかと探していて、辞書で「ゆきあう」と「でくわす」に出くわしました。

「でくわす」がいいなあと、いまは思っています。

 ここで引用をさせてください。

 人にとって「わかる」とは、文字通り言葉にできない未知のものが「わかる」というのではなく、「ああ、あれだ」というぐあいに既知のものを確認する(つまり「わける」)作業であり、そうやって「実は知っていながら、たまたま忘れていたものや気づいていないもの」に「置き換える」だけだ。言葉にできない未知のものを「わかる」=「わける」ことは人にはまずできず、そうした稀有なことがあるとすれば、それはむしろ「あう・ふれる」(であう・ふれあうではなく)=「遭遇」ではないだろうか――。

 以上は、蓮實重彦経由によるジル・ドゥルーズの言葉の身振りにふれて、私なりにまとめたものなのですが、とりあえず、いまも私はそんな気がします。他者を「わかる」はなく(「み・わける」はあっても)、他者とは「あう」ことしかない(この状況を可能性と見るか限界と見るかは見方の問題であり人それぞれでしょう)、と図式的にまとめることもできます。

 拙文「触れる、振る、震える」から引用しました。


 いま頭の中にあるのは、上の引用文にある「あう」なのです。

「であう」と「ふれあう」にまとわりついている相互的な関係という意味あいが気にくわないのです。それなら「ふれあう」を「ふれる」とすればいいのですけど、「であう」から「あう」を引くと、「で」になり、「でる」というふうに動詞の語尾をつけてやると、何だか違うものになってしまう。そんなことで悩んでいたのです。

「でくわす」なら問題はなさそうです。「でっくわす」とも言いますね。威勢のいい語感があります。ちょっと離れますが「不意打ちを食らう」も突然の出会いという感じでいいなあと思います。「ふいにあう」という具合にずらすこともできます。

 引用文にもある蓮實氏の使っている「遭遇」という漢語系の言葉もありますが、個人的にはできれば「和語」でいきたいのです。「ふいに」を「不意に」と書くと、もとが漢語っぽいようですが、私は大和言葉至上主義者ではないので、「ま、いっか」にしておきます。

 本題に入ります。

 考えているのは「あう」なんです。

 たとえば人と人があう。あるいは人とものやことがあう。「あう」といっても、夕立にあうは夕立に遭うと表記されることが多いですね。「遭遇」の「遭」を使うわけです。あう、合う、会う、逢う、遭う、遇う、和う、韲う、敢う、饗う。いろいろな「あう」があります。

 漢字を使って「わける」と、「わかる」と「わからなくなる」が同時に起こる気がしませんか。私にとって「わかる」と「わからない」と「わける」は似ています。

 同じとは言いません。似ているは印象ですから、個人的な思いでしかありません。私は印象派なのです。いまのは冗談ですが、もし私が自分用の辞書を作るなら、「わかる」と「わからない」と「わける」を同じ項に入れます。いまのは半分冗談ですけど、半分は本気です。

「わかる」と「わからない」と「わける」という似ているのグループに「あう」を入れたい。これは本気です。

 たとえば人と人があう。あるいは人とものやことがあう。あうことで、「わかる」と「わける」と「わからない=わけられない」が同時に起きます。

 この場合、「あう」は徹底して一方的なもの(こと)であると私は感じます。AとBがあうのだから、そこに相互的な関係が生まれると考えるのは抽象ではないでしょうか。無意味であるとか、まして間違いであるなんて話ではなく、抽象だと言っているのです。人は抽象を免れたり避けることなんてできっこありません。言葉という抽象(具象でもあります)を使っているのですから、当然のことです。

 そもそも「相互」とは虫のいい、つまりご都合主義的なイメージであり、両方の側から「みる」だけでなく、自分を棚に上げて、高い位置から両者を俯瞰するようなメタっぽいいかがわしさを感じるのです。これは印象ですよ。私は印象派ですからさっき冗談だと言ったじゃないか。

「あう」とはあくまでも一方的なもの(こと)であり、あった相手については想像するしかない。まして相手との「あう」を距離を置いて「みる」なんていう視座はありえない(つまり抽象である)。

 さらに言うなら、「あう」とは、相手を想像する余裕も、「あう」という行為を俯瞰する余裕もない(これは意見)、せっぱつまった「不意打ちをくらう」でなのである。

 なんて言いたくなりました。こうなると「あう」というよりもむしろ「でくわす」ですね。一人で納得。では、言い直します。

 人にとって「わかる」とは、文字通り言葉にできない未知のものが「わかる」というのではなく、「ああ、あれだ」というぐあいに既知のものを確認する(つまり「わける・みわける」)作業であり、そうやって「実は知っていながら、たまたま忘れていたものや気づいていないもの」に「置き換える」だけだ。言葉にできない未知のものを「わかる」=「わける」ことは人にはまずできず、そうした稀有なことがあるとすれば、それはむしろ「あう・ふれる・でくわす」=「遭遇」ではないだろうか――。

 以上は、蓮實重彦経由によるジル・ドゥルーズの言葉の身振りにふれて、私なりにまとめたものなのですが、とりあえず、いまはそんな気がします。他者を「わかる」はなく(他者を「みわける・わける」はあっても)、他者とは「あう・でくわす」しかない(この状況を可能性と見るか限界と見るかは見方の問題であり人それぞれでしょう)、と図式的にまとめることもできます。

 以上、随時更新中千鳥足の印象派による印象たわごとでした。