星野廉の日記

うつせみのあなたに

触れる、振る、揺らす

 書こうとしても、とっかかりがないと書けないことは、みなさんが日々経験しているのではないでしょうか。言葉が出ないときには、どんなことをしていますか。

 自動筆記とか自動書記とかオートマティスムといった横着な書き方があるそうですが、どうなんでしょう。すらすらと言葉が出てきて、人はそれを書き写すだけみたいな状態らしいのですが、経験したことも見たこともありません。

 言葉を呼び寄せるルーティンとかおまじないがあり、それを利用している人もいるでしよう。コーヒーやお茶や煙草のようないわゆる嗜好品を使う人が多そうです。清涼飲料水やお菓子も嗜好品と見なす場合もあると聞きます。さすがに物を書くときにお酒に頼るとなると抵抗を覚えますが、人それぞれです。

 薬物やいわゆる麻薬によってインスピレーションを得て書いたといわれる文学作品があります。ヒッピーという言葉が生きていた時代にはそうした薬物の摂取が文化となり、生き方となっていたらしいのですが、私が大学に入ったころに急速に収束した、いやもう過去のものになっていた感がありました。

 大学進学のために上京した年の春、好奇心からさっそくこわごわ新宿駅周辺を歩いてみたのですが、フーテンもフォークソングゲリラもきれいに消えていました。拍子抜けしたのを覚えています。

 その後、学生時代にはオルダス・ハクスリーの書いた『知覚の扉』という本が流行っていました。私も持っていましたが、ぺらぺらめくっただけで辟易しました。私には合わないみたいです。そのタイトルだけが印象に残っています。ただ、知覚の扉なんてかっこいい言葉だと思います。

 嗜好品や薬物によって言葉を呼び出す。このように図式的に書くと分かりますが、よく考えると呼び出す対象である言葉こそが最強の嗜好品であり薬物だという気がしてなりません。嗜好品や薬物に依存し嗜癖するように、人は言葉に依存し嗜癖していると言えるのではないでしょうか。

 人の言葉への依存は相当なものだと思います。人は何かを食べたり水分を取らないと死にますが、言葉がなくても死ぬまではいかない気がします。それなのに、人は言葉と表象のためなら何でもやりかねません。そう考えるとますます言葉や表象が嗜好品や薬物に思えてきます。

 自然界では得られない、あるいは自分では生成できない、言葉という「麻薬・魔薬」を呼び出すために嗜好品や麻薬・魔薬をもちいる。やはりヒトはややこしい生き物だと思わずにはいられません。

 話を戻しましょう。

 触れる、振る、揺らす。

 とっかかりのない私は、こんなふうに言葉を並べて言葉に来てもらいます。名詞でもいいのですが、最近は動詞ばかりに遊んでもらっています。そうなのです。私は言葉に遊んでもらうのです。これはレトリックではありません。実感なのです。

 動詞は文字通り動きを指す言葉ですから、動きをうながしてくれます。たとえば、「祭り・まつり」という名詞だと動きへとうつれません。まして「おまつり」というと「お」を付けただけで、名詞感がいや増し、私なんかはかえって言葉が出なくなってしまいます。

 動詞は、「映る、写る、移る」なのです。動きですから、目というスクリーンに映り、それが顔をふくむ身体における動きや表情(表情は動きです)として写り、「何か」が移るのです。

(※「何か」は「模倣あるいは反復および変奏されたもの」であることは確かでしょう。いわゆる「意味」かもしれないし、いわゆる「メッセージ」なのかもしれません。ただ、動きとして視覚的に確認できないために、とりあえず「何か」としておきます。)

 話をもどしますが、「まつり」(名詞)を「まつる」(動詞)とすると、私はとたんに動きを感じます。

 まつる、たてまつる、あがめたてまつる。まつ、待つ、まつわ、いつまでもまつわ、俟つ、まかせる、まける、たのむ――。こんな具合にです。

 論理や体系など無視した一種の連想ゲームなのですが、それに行きづまると、辞書に助けてもらいます。

 纏る、奉る、献る、祭る、祀る。

 並んだ言葉たちに見入ってしまいます。わくわくぞくぞくそわそわします。

 話を戻します。

 触れる、振る、揺らす、でしたね。

 いまイメージしているのはサイコロです。サイコロを振って転がし目が出るのを待つ――これを私なりに分けると、触れる、振る、揺らすなのです。サイコロに触れなければ振れないわけですが、実は「何に」触れているかは不明なのです。

 その「何か」を「宇宙を支配する偶然性」なんてたわごとで置き換えることもできそうです。たわごとにはちがいありませんが、リアルなイメージです。「何か」に触れて、それを揺らす。

 本当は揺れるわけがないのです。それほど「何か」という相手は手強いし、圧倒的に大きい。でも、サイコロに置き換えて、転がし、揺らすしかありません。これって言葉のことじゃありませんか? 

 歯が立たないから、相手を言葉(表象)というものにすり替えて、これはチョロいぞと自己暗示をかける。これって人のやっていることじゃないですか? サイコロは賭けに使いますが、まさに賭けているのです。

 サイコロは賽子、骰子とも書きますね。サイコなんて言葉が浮かびます。こういう邪念はノイズとして退けるのではなく、そこにいてもらって眺めています。せっかく来てくれたのですから、失礼なことはしたくないのです。

 サイコロといえば、ステファヌ・マラルメというフランスの詩人の『骰子一擲』という作品に触れずにはいられません。私の中ではサイコロといえばアインシュタインではなくマラルメなのです。

 こういうのを大風呂敷を広げると言いますね。話がややこしくなりそうなので、私にとって大切なイメージだけお話しします。

 マラルメという固有名詞で私が勝手に連想している個人的なイメージですから、実にたわいない話なのです。私にとって、言葉と向かいあうことは、無数の目のあるサイコロを振っている身振りにほかならず、えいやーっというふうにサイコロを転がして、何らかの言葉という目が出てくるを待つことが、私にとっての「書く」であり、書けるかどうかは賭けなのです。

 いまもそんな感じで書いています。ひたすら待つのです。まつわ、いつまでも、まつわ。すべてお任せして、待つのみ。

 ご降臨とか光臨を待つなんて構えちゃいけません。無心で待つ。俟つ。コツはわんちゃんやねこちゃんのへそ天のかまえです。全面降伏。負けて任せる。これがいちばんのようです。一種の賭け。

 かける、賭ける、懸ける、掛ける、駆ける、書ける。

 人はサイコロを振って転がし言葉の目が出るのを待つ――これを私なりに分けると、触れる、振る、揺らすなのです。サイコロに触れなければ振れないわけですが、実は「何に」触れているかは不明なのです。やっぱり賭け。

 しかも揺らしてもびくともしない。それなのに書けることがあります。書けちゃうんです。最良のギャンブルには種はないと言います。だから、そんな賭けで書けたとしても、何かが揺らいだわけではなく、揺れたのは人だけみたいなのです。

 でも書けたのだから贅沢は言えませんね。またサイコロを振りましょう。それしかありません。