星野廉の日記

うつせみのあなたに

触れる、振る、震える

 満月や月というと狂気を連想する人は多いようです。lunaticという言葉からの影響が考えられます。辞書にある語源の説明を見ると、その経緯が書かれていたりします。ウィキペディアの解説も面白いです。

 あと、full moonとfool moonという言葉遊びもありますね。同じような駄洒落を人は思いつくみたいです。「狂う」がらみでいうと、正気のサタデーナイ沙汰でないトとか。確かに、夜になると人は程度の差はあれ、ふれます、とりわけ「ハレ」っぽい週末には。

 こうしたきわめて多くの人、あるいはそこそこ多くの人に共有されたイメージがある場合には、詩や小説や音楽や映画やテレビドラマで、似たようなイメージが繰りかえされ、さらにイメージが拡散されていきます。いまバンド名のLUNA SEAが頭に浮かんだので、ウィキペディアの解説を読んだところ、やはりLUNACYという名称が出てきました。ウィキペディアは便利で大変お世話になっています。

 言葉には辞書に載っている語義だけでなく、集団(大きさはさまざまです)に共有されているイメージがあったり、おそらく一人だけにしかいだかれない私的なイメージがあります。後者は誰かに話せば「あほか」と言われるのがオチで――話せば話すほど正気の沙汰ではないと思われます――、他人に分かってもらう必要のないものですが、だからこそ大切なのです。

(たとえば、個人的なイメージの「(その日の)集大成」である夢を記録した作品の多くは他人には退屈であったりしますが、格好をつけたり脚色したり体裁を整えると「名作」になることもあるでしょう。言葉にすることで、よくできた別物になるからです。)

 私的なイメージは自分だけのものですから、愛しいです。おそらく死ぬ間際にまでついてきてくれるでしょう。もしもしカメよカメさんよ。この歌詞を耳にしたり口にするたびに、月でカメさんに電話をしている(旧式の電話機です)ウサギさんの姿が浮かぶのですが、私はこの心象を愛おしく思っています。

 ふれる、触れる、振れる。

 気がふれるという言い方が気にかかります。琴線に触れるというフレーズを連想します。

 琴の金色の線(糸・弦)に何かが触れて、線が振れ、空気が震える。そんな光景が目に浮かびます。金色の線から金色の空気の波がつぎつぎと円を描いてひろがっていくのです。弱いながら艶のある光を感じて見上げると、弦月半月が濃い紫の空に見えます。月は、金と銀のどちらにも見える微かな色をしています。あ、ウサギさんだ――。そう思ったたとんに、夢ゆめうつつから覚めます。または別の夢ゆめうつつへとうつります。さめてもさめてもゆめうつつなのです。

 こういうのを狂ふれるというのでしょうか。少なくとも、このふれる、ふる、ふるえるは美しいです。右か左か、どちらかにいっぱいにふれてもいいけど、またもどりたいと願うのは、うつつに未練があるからかもしれません。無意識的な安全弁というわけです。

 ところで、触れると触れられるは同時に起こっているはずです。触れ合うというわけですね。人同士の――相互的な――触れ合いの話に絞ると、体が二つない限り、人はどちらか一方にいるのですから、相手のことは想像するしかありません。つまり、触れ合いとか、相手側の「触れる=触れられる」は抽象になるわけです。他者を前にしては想像するしかないということです。

 いま考えているのは「であう」と「あう」です。あちこち、話がうつってふれてごめんなさい。言葉がテーマに(あるいはその逆に)擬態するのです。

 触れる、ふる、ふるえる。

 蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』に、蓮實によるジル・ドゥルーズへの書面によるインタビューがあります。そこで蓮實は「遭遇」という言葉を使って、ジル・ドゥルーズに話を振ります。するとドゥルーズからはいくつかの固有名詞が出てくるのですが、個人的には次の箇所にぞくぞくします。つまりふれてくるのです。

好きな作家というか、わたしを震撼させる作家は、ニーチェアルトーで、ある強烈さをもってわたしの存在を貫いた人びとです。強度のレクチュールが可能な人びとです。
蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』・せりか書房p.83)

 ふれる、それによってふるえることがあったとしたら――。さらには、つらぬくがあったとしたら。

ニーチェ」と「アルトー」は「狂気」という言葉と親和性のある固有名詞です。精神疾患の話をしているのではありません。人と人との触れ合いの話をしているわけでもありません。あくまでもある言葉が別の言葉を呼び寄せているという状況に目を向けているだけですので、深読みなさらないでください。

 人にとって「わかる」とは、文字通り言葉にできない未知のものが「わかる」というのではなく、「ああ、あれだ」というぐあいに既知のものを確認する(つまり「わける」)作業であり、そうやって「実は知っていながら、たまたま忘れていたものや気づいていないもの」に「置き換える」だけだ。言葉にできない未知のものを「わかる」=「わける」ことは人にはまずできず、そうした稀有なことがあるとすれば、それはむしろ「あう・ふれる」(であう・ふれあうではなく)=「遭遇」ではないだろうか――。

 以上は、蓮實重彦経由によるジル・ドゥルーズの言葉の身振りにふれて、私なりにまとめたものなのですが、とりあえず、いまも私はそんな気がします。他者を「わかる」はなく(「み・わける」はあっても)、他者とは「あう」ことしかない(この状況を可能性と見るか限界と見るかは見方の問題であり人それぞれでしょう)、と図式的にまとめることもできます。

 とはいえ、誰もがジル・ドゥルーズのような「遭遇」を体験できるわけではないと思います。文字通り言葉にできないような(「なんもいえねえ」は立派なコ・ト・バ決まり文句です)、そしてほかのイメージにも置き換えられないような個人的なイメージに「ふれる」ことが(「ふれあう」ではなく)、誰にとっても可能な「あう」(こちらは個人的な語感の問題ですが、「であう」ではなく)なのかもしれません。たぶん、それは荒唐無稽であったりとりとめのない体験ではないでしょうか。あえて言葉にするなら。