星野廉の日記

うつせみのあなたに

ま~は、魔法の、ま~

 頭の整理を兼ねて、前回に書いたことをまとめてみます(安心してください、前回の記事をお読みにならなくても分かるように書きますので)。

*「間違い」-「違い」=「間(※ま)」

*「間」は、「あいだ」「隔たり」「距離」「離れていること」「空間」「からのま」「何もない空間」「空白」「無」「中身なし」「うつせみ」である。

*「間」は、「差異(※さい)」とも言う。

ということでした。

 さて、

ここで童心に帰りましょう。「ドレミのうた」を歌いませんか? ただし、さびの部分だけを、拝借します。例の「○は△△の○~」というやつです。では、こちらからリードさせていただきます。最初は、シリアスにいきます。

*「間(※ま~)」は、真面目の、ま~。「間(※ま~)」は、まことの、ま~。「間(※ま~)」は、まともの、ま~。「間(※ま~)」は、マネーの、ま~。「間(※ま~)」は、マックの、ま~。「間(※ま~)」は、真央ちゃんの、ま~。 

 何だか、面白くないですね。ちょっと、ネガティブにいきます。

*「間(※ま~)」は、麻薬の、ま~。「間(※ま~)」は、間抜けの、ま~。「間(※ま~)」は、負け犬の、ま~。「間(※ま~)」は、負け組の、ま~。 

 自分のことのようで、悲しくなりかけました。気分を変えて、哲学的・文学的にいきましょうか。

*「間(※ま~)」は、間違いの、ま~。「間(※ま~)」は、曼荼羅(まんだら)の、ま~。「間(※ま~)」は、マンガの、ま~。「間(※ま~)」は、マイナスの、ま~。「間(※ま~)」は、マラルメの、ま~。「間(※ま~)」は、マルクスの、ま~。「間(※ま~)」は、万葉集の、ま~。 

 こんなん出ましたけど、どうどすか(※イズミさん、あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか?)

 要するに、

*ま~は、魔法の、ま~。

と、お感じになりませんか? 少なくとも、自分にとっては、「間=差異」は魔法のように不思議です。以上の駄洒落がぜんぶ、「当たっている =言えてる」ような気がするのは、やはり間抜けだからでしょうか? ふ抜けなのは、知っていましたけど、間まで抜けているとは? 魔が差したのに、違いない。とうとう、悪魔に目をつけられたらしい。

 やはり、罰(ばち)があったのか? そうかもしれない。それにしても(※いや、「だからこそ」か?)、摩(ま)訶不思議です。自分の誕生日が命日になる人がいるくらい、不可思議です。ねえ、小津安二郎(おづやすじろう)さん(※あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか、千の風ですか)? なぜ、ここで Ozu が出る? やっぱし、魔が差しているのではないか? きっと、魔法だ。やっぱし、オズの魔法使い

     *

 ここで弁明をさせてください。いや、弁明などと格好をつける柄ではないので、言い訳をさせてください。

 どうして、このブログでは、ダジャレとオヤジギャグに走るのか?

 格好をつけた弁明と、へなへなへろへろした言い訳の2つがあります。

(1)弁明 : 戦略です。徹底的に言の葉の表層にこだわり、言語活動の必然性である抽象化に、あえて絶望的な抵抗を試みることを、具体的な言葉の身ぶり、および運動として実践するのを目的とする。言い換えれば、マラルメの詩作=思索=試作のツールであるサイコロのように、言葉に「賭ける」ことにより、「書ける」という当たり前のようで決して当たり前ではない、偶然と必然の共存を実践するため。

(2)言い訳 : お勉強は嫌い。本を読むのも苦手。無気力。アカデミックな権威とは無縁。友達なし。コネも引きもなし。事実上の無一文(=いい年をして親のすねかじり)。こうしたネガティブな状況にあるけれど、哲学がしたいんです。そのためには、自分の頭と体を使って考えるほか、ないじゃないですか。いや、それこそが哲学することだと思います。アカデミックな場でするものだけが、哲学ではない。言葉と面白おかしく本気で戯れること(※これって鉄学の哲則です)なら、野垂れ死にする最期の最後の瞬間まで、できるんじゃないか。

※おまけの弁解 : ひとりギャグを飛ばしながら、うつを紛らわすという、トホホな理由もあります。

 というわけです。ご理解いただければ、うれしいです。本当に。

     *

 へこんできたので、ちょっと、格好をつけていいですか? では、いきます。

*「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。

【ここで、1つお願いがあります。このブログ日記を読んだあとにでも、フランスにいたジャック・デリダという人が勝手に作った、différance(※ différence ではなく )という語について、グーグルでぜひ検索をしていただければ、幸いです。いろいろな訳語がありますが、「差延(さえん)」(※さえんなあ、などと冴えないギャグを飛ばせば、ダジャレが大好きだったデリダさんは、お墓の下できゃっきゃいって喜びますよ。もし、お墓にいればの話ですが)をキーワードに、ウィキペディアで検索されると、かなり良質な解説にたどりつけます。これが、てっとり早いでしょう。ただ、その解説に目を通して、「ん? こんなの読む気はしない」と、少しでもお思いになれば、即、おやめください。頑張るのは、よしましょう。】

 繰り返します。

*「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。

 難しいのも当然です。「差異」=「間」=「空間」=「からっぽ」=「無」なんですから。<何にもない状況 or 事態>を、「何にもない」と言葉にしたところで、何にもないことに「変わり(=代わり)」はないですよね。

 でも、それをやっているのが、ヒト(=狂ったサル)なんです。この難しい、または不可能なことを、やすやすとできると錯覚する。この鈍感さなしに、ヒトは生きられない。この鈍感さなしに、ヒトとして存在できない。と、いうことなんです。

 前回の記事で、

*「知覚することは違いがわかること」

だって、書きました。たぶん、ブドウ球菌も、シーモンキーもやっている。つまり、生き物全部がやっているらしい。

 ただし、ヒトの場合、それをやりすぎてしまっているんです。だって、月に仲間を送りこんだんですよ。今、こうやって、ネットであなたとつながっているんですよ。原子爆弾を、こしらえちゃったんですよ。世界で一番のベストセラーは、バイブルなんですよ。天然痘を、みんなで力を合わせて根絶したんですよ。ガレージで何かをつくり始めて、(中略)えげつない抱き合わせ商法で、世界中に何かをばら撒いて、お金=貨幣を気の遠くなるほど儲けて、大邸宅をいくつも持ち、少しだけ他のヒトたちに与えて、ギゼン家じゃない、ジゼン家として、ソンケーされるヒトまでいるんですよー。ビールを飲みすぎてゲーッツ。

 これって、やっぱし、やりすぎです。いいこと、悪いこと、含めて、やりすぎです。

     *

 もっと、身近な例を挙げて、「知覚すること」について、考えてみましょう。

 知覚するのはいいけれど、他の人の、肌や目や髪の色や、顔立ちや、身なりや、体つきや、発音・発声や、訛りや、目には見えないところまで、知覚(=差別)するなんて――。

 また、知覚をする器官のうちで、欠けたり、具合が悪かったり、無いところがある人を知覚(=差別)するなんて――。

 それでいて、愛はこの惑星を救う、などという、甘い言葉=美辞麗句に、涙流しながら、ポテチを食べ食べ、テレビを見ているなんて――。

 自分を含めて、やりすぎです。でも、致し方ありません。

 知覚っていいますけど、映画やテレビやパソコンのモニターを見ているのと、大差ないんじゃないか、と思います。見ているのは、影だったり、電気信号の線や画素の集まりだったりするわけで、「本物=物自体=現象自体」じゃないんですよ。バーチャル・リアリティらしいのです。

 脳細胞や脳神経なんて、理科も科学も苦手だった自分にはよく分かりませんが、とにかく、知覚(=ちかく)は、離れたものや分かりっこないものを「近く=ちかく」で見ている、または感じているように、錯覚させる、仕掛け(=大嘘=フィクション=代理)なんですよ。

 トンボは複眼で世界を見ている。さかなは魚眼で世界を知覚している。犬の嗅覚は、ヒトも利用するほど高感度。ウサギは聴覚がいいらしい……。すると、ヒトの見ている世界像や知覚している「世界」や「宇宙」なんて、「スタンダード=標準=基準=規範=模範」なんかじゃない。

 特権的でも、絶対的でも、まして「極めて優れて」なんかいないのではないか? 「誰も、そんなこと、言ってねーよ」と言われれば、「さいですか? ほな、さいなら」とすごすご引き下がるしかありませんが。

 でも、言いたいです。

 現実なんて、見たり感じたヒトなんて、本当はいないんですよ。見たり、聞いたり、感じたという言葉があるだけなんです。そういう言葉をほかのヒトに伝える、あるいは残すだけ。「どんだけ~?」と、尋ねられれば、「そんだけ~」なんですよ。はっきり、言えば。

 まして、前世や未来や霊やオーラなんて、見たり感じたヒトなんて、いない。見た、感じたという、言葉があるだけ。それが、証拠に本を出すたびに、大儲け。テレビに出てしゃべるだけで、大儲け。「見ました」「聞きました」「感じました」という

*「言葉」を切り売りするだけ

で、お金がどんどん入ってくる。

 ああ、しんど――。もう少しまったり、いきましょう。

     *

 たとえて言えば、影絵です。小さいころ、片手を使ったり、両手を合わせて何かの形を作り、光と影の織りなす像を映し出し、いろんなものが「見える」ことに、幼い心をときめかしたこと、ありませんか? 不思議でしたよね。感動しましたよね。そこに、ぜんぜんないものが、あるように思える。それはそれで、すばらしいことです。

 影絵は、違ったもの、異なるもの、相反するとされているもの――そうしたものを、いとも簡単に影という形でつなげます。言葉は、影絵にとてもよく似ています。種を明かせば、一種の「錯覚」です。ここで言う

*「錯覚」とは、Aの代りにAでないものをAと取り違えること

です。

 だから、言葉があり、ダジャレがあり、言い間違いや聞き間違いがあり、比喩があり、こじつけがあり、言葉にいろいろな意味がくっつき、言葉が豊かになり、言葉がノイズでまみれ、誤解があり、理解がある。そして、「コミュニケーション」や「全然話が通じない」や「聞いても聞こえなかったことにする」ということが成立する。そんなふうにも、言えるように思います。

 そうだとすれば、すばらしいことです。ま~は、魔法の、ま~。

*やっぱり、魔法です。

 要するに、影なんです。知覚とか、言葉とか、表象とか、情報とかいうものは――。「何かそのもの」ではない。「何かそのもの」には、ヒトは決してたどりつけない。だから、その影(=代理)を「見る」「知覚する」という、仕組みを作り上げたというより、わけも分からず手に入れてしまったのです。「授かった」と言う人もいますが、自分は、ちょっと「違う」ような気がします。本当のところは、誰にも分からない。分かるなんていう人がいたら、それは人ではない。超人です。そんな人、いますか?

     *

 今、申し上げたことは、「嘘だ、大嘘だ、デタラメだ、妄言だ、妄想だ……」とおっしゃる方がいるに違いない。それは十分承知しております。自分は、自分の思っていることを書くだけ。言葉として書くだけ。自信も確信も確証も、全然ありません。ただ、「そう思う」と書くだけです。

 誤解しないでくださいね。自分は平和と平穏を愛しています。喧嘩は弱いから、しません。議論は、頭が悪いからしません。喧嘩にも議論にも、勝ったことなど、生まれて以来、一度もありません。それだけが自慢です。弱い者いじめは、やめましょう。喧嘩や議論するなら、強くて頭のいい人と、してください。どうやら、被害妄想の傾向が強くなってきたようです。

 さて、「差異 = 間」に話を戻します(※あちこち振りまわして、ごめんなさい、首尾一貫とか筋道を立てることが苦手なのです)。

 繰り返します。

*「差異 = 間」は、言語化できない。

だから、

*迂回(うかい)、つまり、「差異 = 間」のまわりを、おろおろ、うろうろするしかない。

あるいは、サイコロを振るように、どんな目が出るか分からないけれど、

*賭けるしかない。

 ヒトは、まさに絶望的な慢性的ギャンブル依存症に陥っているわけです。でも、大丈夫。ヒトはたくましい。鈍感さとすれすれの、たくましさを持っているからです。「見る」に代表される「知覚する」ことによって、森羅万象をつなぐという、魔法を手に入れて以来、その威力を信じている。

*森羅万象をつなぐ「頑丈な鎖=魔法」

とは、当ブログで何度も書いてきた、

*「表象の働き」、言い換えると「Aの代理として「Aではないもの」を用いること 」

にほかなりません。これはすごい「からくり」です。半端じゃない。すごい武器です。おそらく、この惑星で最強でしょう。だから、月にも行けた。だから、あなたも頑張って、というわけです。

 せいぜい(※こんな言い方は、他の生き物たちに対して、まことに不遜ですが )オオハクチョウか、チョウザメか、アカゲザルくらいの、「知覚する」能力を持っていれば、ヒトは、これほどややこしい事態・状況を日々生きることはないわけです。でも、ほかの生き物の持つもの以上のもの(※これも、不遜な言い方です)を、いったん手に入れたからには、しかたがありません。ヒトをやめるわけにはいかない。「どうにもとまらない」状態です。

 正しい、間違っている、良い、悪い、違う、同じ、偶然、必然、原因、結果、意味、概念、観念……何だか、やけくそに、いっしょくたに、してしまいましたが、今、列挙したような、目で見たり、手で触れたりできない「もの」や「こと」や「さま」も、はたまた、鉛筆、ダイヤモンド、自分の住まいにいるペット、自分の大切な手や足、目の前の愛用のパソコンやケータイ……といった、見たり手で触れたりできる「もの」も、本当は、

*ヒトからは遠く離れた、決して見たり触れたりできないもの

なのではないでしょうか? 寂しいけど、悔しいけど、そうではないでしょうか? でも、いいのです。みんながそうなのですから。

     *

 何だか、しんみり、しちゃいました。シンコペーションしましょう。シンコペーション? 言葉に詰まったので、言葉のサイコロを振ってみたら、何だか「場違い」な言葉が出てきました。「間違い」ではなく、「場違い」。「場」……。これを考えると、大変なことになりそうなので、いつか、別の機会に書きます。「 あんたに、頼んじゃ、いねーよ 」。ああ、また幻聴だ!

「差異」という言葉は、難しく響くので、「間」を使って考えてみましょう。間が悪い、間を取る、間が抜ける――というときの「間」というのは、説明しにくくありませんか? 何となく、「イメージ」は分かるような気がするけど、言葉にしにくい。こういう場合には、やっぱり、魔法が必要なのです。魔法を使うと、いちおう言葉になり、これまた分かったような気がする。でも、あえて「イメージ」にこだわり、そこにとどまるのもいいですよ。すごく、こころよいです。

 今、「イメージ」と言ったものですが、音楽、歌、絵、空に浮かぶ雲のかたち、バレー(※バレーボールじゃなくて、ballet のほうです)、スポーツ、目的のない散歩、場合によってはゲーム――だったりします。「イメージ」のイメージが分かって、いただけたでしょうか? 

 言葉を、あまり意識しないものばかりです。

*言葉は影絵に似て、「差異」をあっさりと「見えるもの」にしてしまう面を持っている、

と言えそうです。

*「差異 = 間」を知覚することは、影絵を見ることに「似ている」。影絵のように、「きれいだ」。

 そんな「見方=考え方」もできそうです。影絵は光と影の織り成す「まぼろし」です。漢字で書くと「幻」。「幻影」「幻灯」なんていう言葉もありますね。「幻灯」は「映画」のおとうさんか、おかあさん、みたいなものです。光と影の踊るさまを見ていると、何だか、ふわっというか、ぼーっとした気分になります。

 幼かったころに、影絵を見て胸をおどらせた体験を思い出しながら、そっと目を閉じてみませんか? 頭の中に残っている、きれいな映像と、当時の素直な感動にしばらく浸ってみませんか? 思い切って、今夜にでも童心に帰って、手を結んだり開いたりして、影絵遊びをしてみませんか? 

 これ以上、言葉は要らないと思います。