星野廉の日記

うつせみのあなたに

私家版『存在と無』

 これまでにずいぶんたくさんの本を買いました。図書館からも借りました。でも本を読むのは好きではありません。購入、借り出し、積ん読、未読、返却、売却、廃棄、焼却。その繰り返しでした。いまは買うお金がありません。図書館へ行く気力と体力がありません。

 哲学は好きですが哲学書は好きではありません。特に体系化された論文とか、緻密な論理を積み重ねていく文章が、駄目です。息が詰まります。頭がついていきません。脳の情報処理能力が低いからでしょう。でも考えることは好きです。しょっちゅう考えています。

 断章、断片、アフォリズム。そうした構成の文章が好きです。どこからでも読める。どのページでも前後を気にしないで読める。辞書みたいに読める。そういうつくりの本があります。スリリングです。立ちどまって休み、考えて、また同じページにもどる。疲れますが楽しいです。

 体系化された、緻密な論理を重ねて組み立てられた文章であっても、最初から読んでいくのではなく、あちこち拾い読みしながら読むことができます。素人はそれでもいいと思います。

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存在と無

 かっこいいタイトルだなあ。中学三年生の時にそう思いました。哲学したい。そう考えるきっかけになった本のひとつです。高校生になってから買いました。大部で難解、つまり退屈で訳が分からないので拾い読みしました。途中で読むのをやめて積ん読していました。

 いつ処分したかは覚えていません。いまは持っていないことは確かです。

 本の題名を眺めながらいろいろ考えることが好きです。中身に興味がないわけではありませんが、もともと本を読むことは苦手でできれば避けたいと思っています。

 題名を知っているだけで自分にとっては十分。そんな本がたくさんあります。『存在と無』も、そのひとつです。わくわくするタイトルです。いろいろなイメージや言葉の断片がつぎつぎに頭に浮かんできて、収拾がつかなくなります。それなのに楽しいのです。

 存在と無

 上の文字をよく見てください。少なくとも十秒は見つめてください。時計の秒針を見ながら五秒たつのを「待つ」と分かりますが、五秒って意外と「長い」です。

 固有名詞は強い光を放つ言葉です。前後の言葉たちの影を薄くし、ときには読めなくしてしまうほどの、まばゆさが固有名詞にはあるので注意を要します。

存在と無

 恐縮ですが、すぐ上の文字をまた五秒間ほど見つめてください。

 さっきの、存在と無、との違いを感じませんか? 『存在と無』と、かぎ括弧でくくったとたんに単なる名詞が本のタイトルとして固有名詞に変化する。そしてその固有名詞は強い光を放ちます。その差異を感じ取っていただきたいのです。

 存在と無、と、『存在と無』との差異。それは、両者の「存在」から生じたと言えると同時に、両者の「無」から生じたとも言えます。その両義性について考えてみたいのです。

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<私家版『――――』>というタイトルで文章をつづりたいという夢があります。

「――――」の部分には、既に書かれて存在する書籍のタイトルが入るのですが、ここでしているのは、その書籍とは無関係の話だとお断りしておきます。

 読んだこともない本。過去に買った、あるいは借りたが、全然読まずに終わった本。拾い読みはしたけれど、その内容の断片すら記憶にない本。名前しか知らない本。

<私家版『――――』>の「――――」には、そうした本の名前が入る。そういうタイトルの文章を書いてみたい。そんな荒唐無稽ともいえる夢があるのです。

 哲学や文芸批評関連の書籍や雑誌の記事に<『――――』の余白に>というタイトルが、やたら使われた時期がありました。<私家版『存在と無』>よりも<『存在と無』の余白に>のほうがかっこいいなあと思いましたが、<『――――』の余白に>には『――――』を読んでいるのを前提とした響きがあるので気が引けます。

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『――――』に入れたい言葉たちが、つぎつぎに頭に浮かびます。

 善悪の彼岸、言語にとって美とは何か、野生の思考、鏡・空間・イマージュ、権力への意志、「わからない」という方法、動機の文法、男が女になる病気、アレゴリーとシンボル、負け犬の遠吠え、思考と行動における言語、ああでもなくこうでもなく、部分と全体、起きていることはすべて正しい、名付けえぬもの、象は鼻が長い、存在の大いなる連鎖、「あいまい」の知、ビジュアル・アナロジー、翻訳とはなにか、文字の美・文字の力、モノからモノが生まれる……。

 哲学したい、批評したい、自分の頭と体で考えたい。そんなスタンスで言葉を紡ぎたいと思っています。引用、固有名詞の威を借りるスタンス、研究、検証、実証、お勉強といったものは嫌いなのに、です。

 上に羅列した文言や言葉たちは、自分が初めて耳にし目にしたときには、書名という名の固有名詞でした。それは確かです。でもばればらにすれば、もともと『』などついていなかった言葉たちです。

『』は、お約束事、つまり制度、しがらみ、ルール、掟です。さきほどの、存在と無、と、『存在と無』の差異を思い出しましょう。書名という名の固有名詞から、『』を外し、匿名化された言葉の環境へと解き放してやる。

 すると、例の固有名詞特有のまばゆい輝きの代わりに、どこに光源があるのか定かではない部屋に置かれた物体のように、目を凝らせば凝らすほど、何であるかが認識できない、初めて目にするものとしか言いようのないものとして現前します。簡単に言えば、固有名詞が普通の名詞、つまりただの言葉に見えるということです。

 なにやら懐かしい、それでいて心騒ぐ薄明の中で、そこにある言葉たちが光るのをやめて、必死になって別の言葉たちを求め、おびき寄せようとする。

 上に羅列した言葉たちは、思考を刺激し、考えることを促してくれる触媒なのだとも言えるでしょう。その言葉たちのまとう表情と身ぶりと運動に、自分の頭と体を任せてみたい。母親の胎内から出て、まだ見えぬ目で初めて「世界」と向き合ったという、始原あるいは誕生という名の「物語(=フィクション)」を想定しながら。

 あえて言うなら、その言葉たちの生い立ちや起源は、このさいどうでもいいのです。誰が最初に言った、誰が発明した、誰のオリジナリティー、誰の専有物、「おい、真似すんなよ」、「すごい、わたしって天才? つばつけておこうっと、ぺっぺっ」「そこのあなた、パクるんじゃないわよ」――。

 とはいうものの、「作者」という根強い「神話」と、「著作権知的財産権」という名の「制度=ルール=掟」があります。「作者」と「著作権」という考え方なしに、「現在の」人の世界は成り立たないのですから。

 あくまでも「現在の」です。「作者」や「著作権」や「オリジナリティ」といった約束事=制度がない時代のほうが、ずっと長かったらしいのです。そうした制度がつくられたのは、人の歴史の中ではつい最近のことだという話があります。

 またもや長い文章になってしまいました。読んでもいない本のタイトルを借りて気ままに文章を書いてみたい――。言いたいのはそれだけです。