星野廉の日記

うつせみのあなたに

聞こえてる?

 中途難聴者であるせいか、人の顔や表情を読もうとする傾向が強いようです。顔色をうかがう、顔色を見る、顔色を読むという言い方がありますが、実感としてよく分かります。単純にいえば、表情から相手の気持ちをくみ取ろうとするわけです。

 聴力が著しく低い、ろう者の中には、話している人の口の形と唇の動きに注視して、話し言葉を読みとる訓練を受けている、または受けた経験のある方が多いそうですが、現実には至難の業だと聞きました。

 相手の表情を読もうとする話にもどりますが、とにかく疲れます。ストレスになります。自分の場合には、肩がばんばんに腫れて凝ります。でも、そうするしか仕方がない状況が多いです。

 何度も聞き返される目に遭う相手の方も、ストレスを覚えるにちがいありません。相手の身になって考えるとつい気を遣い、遠慮してしまうことがあります。いわゆる空返事をしたり、うやむやに会話を済ませることも多いです。いいことではないのですが流れでそうしてしまいます。

 自分の場合、「聞こえにくさ」は先天的なものではなく、ある年齢から聴力が低下しはじめ、現在では補聴器なしには生活はできなくなったというものです。中途難聴と呼ぶことがあります。現在では聴力が著しく低くなったために身体障害者手帳の交付を受けています。

 自分が特に感じるのは、聴力が低下するにしたがって、周りの人の表情、目つき、仕草、身ぶりなど、身体が発しているさまざまな「信号」に敏感になってきたということです。

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 話は変わりますが、川端康成の文章の中に、自分の目つきについてある女性からある癖を指摘されて、はっとしたという意味の一節があった記憶があります。家にある川端康成の本を何冊か探し、あちこちめくってみたのですが、どの本に書かれていたのか見つけることが出来ませんでした。記憶が間違っていたら、許してください。確か次のような話でした。

 相手が無遠慮または不躾と感じるような目つきで、他人の顔をじっと見つめる癖がある。自分では全く意識したことのなかった癖を指摘されて、大きな衝撃を受けた。これまで無意識のうちに、どれだけ多くの人に不快な思いをさせてきたかと考えると心が痛む。

 そうした意味の文章に、川端の自己分析が添えられていました。これもうろ覚えなのですが、確か川端が少年時代まで一緒に暮らしていた――二人きりの生活だったと記憶しています――祖父の目が不自由だったために、祖父の顔をじっと見る癖がついていて、それが知らない間に長年の習癖になってしまったのではないだろうか。川端はそう回想し、同時に戸惑っていました。

 それを読んでいて、あることをふと思い起こしました。目の不自由な方は誰もが完全な暗闇の中にいるというわけではなく、明暗を感じとることができる方が多いという話です。祖父についての川端の文章の中でも、祖父が日の当たっている方向へよく目を向けていたという思い出が語られていた記憶があります。こちらの思い違いかもしれません。でも分かるような気がします。

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 ところで「目に見えない障害」という言葉があります。聴覚障害者は、その障害が目につかないために苦労するので、この言葉の意味を日々実感しています。店や銀行や病院で名前を呼ばれても分からないために、係の人に事情をいちいち説明して合図を送ってもらう必要があります。そのたぐいの不自由さを挙げれば切りがありません。

 内部障害、あるいは内臓障害という言葉もありますね。内臓や身体内部の機能に障害をかかえた人は、たとえば公共の乗り物の優先席に座って体を休めたいと思っても、周りの人たちに苦痛や不調が「見えない」ために、遠慮が先立ってなかなか座る勇気が出ない。「すみません、もしよろしければ、席を譲っていただけませんか」と言い出せない。冷や汗をかきながら苦しみをひたすら我慢する。そうした経験談を聞いたことがあります。

 広く意味をとると、在日の日系外国人や、一部の帰国子女も、そうです。初めての場所を訪ねなければならないとき、ローマ字表示がないために道に迷う。人に尋ねたいが言葉に不自由する。きょろきょろ辺りを見回していても、髪や目や肌の色、そして容貌にきわだった「異国性」がない場合には、ほとんどの人が親切心を示してくれないそうです。困ったあげくに、道を尋ねようとして片言の日本語で話しかけると、気味悪がられたり警戒される。場合によっては相手が逃げて行くこともあるらしいです。

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 こう考えると、目または視覚というものは、ある意味でとても残酷ですね。

 とりわけ「見える」つまり「目につく」障害を持つ人にとって、他人の目または視線が残酷なものだということは、容易に想像できるのではないでしょうか。自分をじろじろ見る相手。あるいは自分を見たとたんに視線をそらす相手。そうした状況を毎日体験している人たちがいると思うと、視線の残酷さの意味が分かる気がします。

 唐突ですが、障害者と健常者という区別に違和感を覚えます。法律、つまりお役所や行政の都合による線引きという印象を拭いきれません。障害とは、誰もがかかえている「程度の問題」であり、健常と障害とは別個のものではなくて――反対語ではないとも言えます――連続しているのです。たとえ一時的または短期間であっても、不調や不自由な体験を強いられれば、それは障害ではないかと広く考えています。

 体調が悪い、病気になる、怪我をする、生理が重い、妊娠する、過労でダウン寸前、心が痛くて死んでしまいたい、年を取るにしたがって徐々にさまざまな不自由が出てくる。そうした状態や状況も、広義の障害だとみなしてもかまわないのではないか。実生活や実社会では、それくらい柔軟に障害を受け止めるほうが自然なのではないか、という気がします。

 話が広がりすぎました。話をもどし、自分自身の体験で語れる難聴にテーマを絞ります。

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 切実な悩みに聞き間違いがあります。頻繁に経験します。笑って済ませられる場合もある一方で、それがもとで他人(家族や親しい人も含みます)との間に不和が生じたり、ときには深刻な問題にまで発展する事態やトラブルも起こります。 仕事や金銭がからむ場合を想像すると理解しやすいと思います。当然のことながら、職を探すさいには難聴は大きなボトルネックになります。

 補聴器をつけていれば大丈夫でしょうと、よく言われます。そうお思いになるのも無理はありません。でも残念ながら、それは誤解です。補聴器は「完璧な」解決策ではありません。

 難聴には個人差があり奥が深い問題で一概には言えないのですが、補聴器についてはとても説明しにくい部分があります。個人的な実感を申しますと、「聞こえるけど聞けない」のです。英語を持ち出せば「 hear できるけど、listen できない」のです。分かっていただけたでしょうか。英和辞典で両者の意味の違いを確認すれば「聞こえるけど聞けない」のニュアンスがお分かりになるではないかという気がします。

 ヒアリング・テストというのは、本当はリスニング・テストですよね。ヒアリング・テストは聴覚機能(つまり聞こえの程度)を診断する、耳鼻科などの医師が行う検査。リスニング・テストは、聞いた内容の理解度を測るテスト。こう説明すれば、ご理解いただけるでしょうか。厳密にいえば違うのですが、比喩的にいえば、ほぼそのようなものだと考えてもいいかと思います。

 相手の喋っている言葉が音としては、はっきり聞こえる一方で、意味のある言葉としては聞き取れない。たとえば、次のような感じです。

「あいた うしに ほご いーちに いてね」

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 聞こえにくさは、人によってさまざまです。ある特定の音域が失聴(または低下)している人、全体的に聞こえが低下している人、耳鳴りが伴う人、片方の耳だけが聞こえない人、ある子音または母音を聞き取るのが苦手な人……。ここで、さきほど書いた意味不明の言葉を再現します。

「あいた うしに ほご いーちに いてね」

「あしたうちに午後一時に来てね」

 後者の「言葉」が、前者のような「音の連なり」として「はっきりと聞こえる」のです。あくまでもたとえばですが、自分の場合には補聴器を着けていても、誇張すればそんなふうに聞こえることがあります。こうした聞き間違いついては笑える話もあります。

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 母がまだ生きていたころの話です。

 スーパーでのことです。母と一緒にレジの前の列に加わっていました。自分たちの前にいた女性二人が、会話をしていました。ご高齢の方と、五十歳前後に見える方です。ご高齢の方が、ある医院の話をしていました。補聴器をしている自分は、少しだけその話の内容が聞き取れました。実は、その医院は母も通っているところなので、母も聞き耳を立てていたようです。

「あの先生、あそこ、ばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれないんだから。あんなんで、いいの?」

 自分には、はっきりとそう聞こえました。驚きました。それが事実ならドクハラでありセクハラです。大病院から独立して開業されて、それほど経っていない、四十歳を少し過ぎたくらいのお医者さんです。とても優しく、患者さんの話をよく聞き、医院の設備も最新で、自分も母もすごく気に入り頼りにしている方なのです。だから自分はびっくりしました。

 ところが不思議なことに、その二人の女性もうちの母も、いっこうに動揺していないのです。自分一人だけが、どぎまぎして赤面していました。レジでの支払いを終え、店内のテーブルでマイバッグに買った物を詰めながら、さきほどの二人の会話について母に尋ねようとしたのですが、まわりに人がいたので言い出せませんでした。帰り道でも恥ずかしさが先に立って尋ねられませんでした。でも不思議でなりません。聞き間違えたことは確かです。難聴者ですから、そんなことは日常茶飯事です。

 聞き間違いらしきことに関しては、いったん気になると解決せずにはいらない性質なので、家に帰ってから思い切って母に尋ねました。「さっきスーパーで、〇〇先生のことを話している女の人たち、いたよね?」とおもむろに切り出し、ついに核心部分について触れました。自分に聞こえた通りの言葉を繰り返したのです。

 母は首を傾げて、けげんな顔をしています。何の話か分からないというか、あの女性たちの会話が思い出せないみたいなのです。少ししてようやく「ああ、あの話?」と言った後、一瞬口ごもり、いきなり笑い出しました。中途難聴者を子に持つ親ですから「あれ、何て言ったの?」に答えるのは、これまた日常茶飯事です。でも、そのときの親は笑ってばかりいるのです。返答がありません。

 こっちは納得できません。「『あの先生、あそこばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれないんだから』って、聞こえたよ」。笑い声を上げている母に向かって再度言いました。「あれはねえ、『あの先生、パソコンばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれない』って言ってたんだよ」

 謎が解けました。あの医院は設備が最新で、カルテも電子カルテです。だから、先生は問診しながら絶えずキーボードを叩いているのです。母の前では笑えなくて、声を立てて笑ったのは自室に入ってからでした。

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 よく聞こえない日常を送っていると、聞こえる人とはちょっと違った生活の楽しみ方をしているなと感じる場合があります。

 日曜の朝などに、NHKテレビで生き物たちの生態の映像を集めた番組が放映されることがありますね。音楽や音だけで、ナレーションがほとんどないものもあれば、少し解説が少し入るものもあります。いずれにせよ、静かな番組です。自分は大抵ミュートにして見ます。かすかな音を聞き取ろうとすると、ストレスになり肩が凝るからです。

 あの種の番組をミュートにして見ていると、いろいろな発見があります。映像に集中するからでしょうか。いつも思うのですが、どの生き物もビクビクしながら生きています。自分の周囲の様子をすごく気にしながら、生きています。当然ですよね。弱肉強食の世界にいるのですから、のんびりなんかしていられないのでしょう。それに動きが速い。小動物、たとえば、うさぎ、ねずみ、りすなどの仲間たちは、驚くほど機敏な動作をします。

 昔、ジャンガリアンハムスターを飼っていました。ハムスターをケージから出し、よく床に放して遊ばせていましたが、その走るさまを見ていて感心しました。体のサイズと、走る距離を比べてみると、F1並みのスピードで走るんです。参りました。思わず尊敬してしまいました。

 こちらも床に這いつくばって、自分の目をハムスターの目線にできるだけ近づけ、走る様子を見ているとうっとりしました。とにかく格好いいのです。目線で思い出しましたが、どうしてこんなに可愛い顔をしているのかと思い、ハムスターの目と鼻辺りをじっと見つめていたことがあります。それで気がつきました。黒目ばかりで白目がほとんどないのです。そう言えば――と思い当たり、アニメの番組を見てみました。キャラクターたちが黒目がちなのを確認し、ひとりで納得していました。

 BBCという英国のテレビ局が制作した生き物の番組は、よくできていて感動します。BSで放映されていますね。ただ解説があまりにもできすぎている感じがしませんか。人間の思い入れがやや強すぎるように思えます。勉強になることは多いのですが、そこだけが気になります。あの番組もミュートで見ると印象が、がらりと変わります。言葉による解説から得られる情報とは異質な、生き物たちが発しているさまざまな「信号」に目が行き、新しい発見があるのではないかと思われます。

 どんな番組でもかまいません。音を消して見ると思いがけない発見がありそうです。バラエティー番組をミュートで見ていると、登場する人たちの間の目配せや、ちょっとした表情なんかがクローズアップされて見えます。スタジオ内の人の位置や配置、雰囲気、漂う空気をはじめ、音や声を聞いていると音声に気をとられて見えない物や出来事がきっと見えます。または「読めます」。目と耳の関係は意外と奥が深そうです。

 バラエティー番組は、特に音がうるさいですね。難聴者の耳には大音響の雑音に聞こえてしまいます。画面の下に字幕もよく出ますが、あれもうざったいです。自分はカレンダーの裏の白い面を折って作った被いを用意しています。それで字幕を隠し「ミュート」にして番組を見ることがあります。もちろん親がテレビを見ていないときですけど。

 視点や方法をいつもと変えてみる。それで世界ががらりと変わって見えたり感じられる。おもしろいですよ。

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 話は変わりますが、子どものころに次のような経験をしたことがありませんか。

 夜、床につく。目がさえて眠れない。近くで、あるいは隣室から大人たちの声が聞こえてくる。耳をそばだてると話の内容がはっきりと分かる。誰かの噂話をしている。あっ、知っている人だ。へえー、あの人、そんなことやっているんだ。あんな顔をして。ふーん。えーっ、すごい――。

 やがて眠気がおとずれる。噂話には興味があるけど、もうどうでもよくなってくる。聞いている。聞こえている。聞いている。聞こえている。そのうちに聞こえてくるのが言葉ではなく、音、音楽、旋律のように感じられてくる。そして意識が薄れる。

 そうしたことが、ありませんでしたか。もう子どもではないいまでも、無意識のうちに似たような経験をしていることがあるのではないかと思われます。音、音楽、旋律のように聞こえる言葉。いささか甘美すぎる比喩ですが、「聞こえるけど聞けない」というのは、それにちょっとだけ似ています。

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「聞こえてる?」

 きょとんとしていると、よく言われます。

 聞こえているよ。でも聞けないんだ。何を言われたのか分からない――。内心そうつぶやくことが頻繁にあります。

 先天性の難聴、中途難聴、失聴、ろう、という現実を日々生きていらっしゃる方、あるいはそのご家族や友人の方に、申し添えたいことがあります。筆者の不用意な記述のために、以上の文章を読んで不快に思われたさいには、心よりお詫び申し上げます。

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 みなさん、どうか耳を大切にしてください。特に、ヘッドホン、イヤホンのたぐいは、あまりお勧めしたくありません。ケータイのスピーカーに長時間耳を押し付けるのも耳には良くないようです。お節介だと言われるのを承知で申しますが、利用するなら音を小さめにするとか、時間を短くしてみてはどうでしょう。

 聴力は、ある聞こえの周波数の部分がいったん低下したり、失われると、それを回復することはきわめて困難で、不可能に近いと言われています。早期発見、早期治療が決め手だとのことです。もしもお心当たりのある方は、急いで耳の専門医を訪ねてください。すぐにです。煙草が体に悪いように、耳元での大きな音やヘッドホンは、耳に有害です。くれぐれも気をつけてくださいね。