星野廉の日記

うつせみのあなたに

なぞって、真似て、なる

 うつる。なぞる。つたわる。似る。似せる。なりきる。なりすます。なる。なりかわる。訛る。まねる。染まる。染みる。溶ける。合う。変わる。化ける。転じる。

 眠れない夜には、こうやって言葉を転がすのです。

(拙文「眠れない夜の遊び」より引用)

「真似る」を「うつる」で説明する

「真似る」と「うつる」はどちらも私の大好きな言葉で、わくわくするのですが、「真似る」を「うつる」で説明してみましょう。

 やったことはありません。両者をからませると面白いことになりそうです。

「真似る」と「学ぶ」は同源だそうです。たしかに似ています。「似ている」「似せる」「似る」ともからみそうですね。

 言葉を真似ることで言葉がうつる。映る、写る、移る。

 なるほど。自分で感心してしまいます。鏡や影みたいに映る。写真やコピー機みたいに写る。ある人から別の人に移る。要するに「伝わる」わけです。

 こういう言葉の連鎖、イメージの連鎖が快いです。言葉の世界、イメージの世界、現実の世界がまじわる部分に身を置いているような気分になります。

 この三つの世界は、そんなものがあるとしての話ですが、別個に存在するのではなく、三つの輪が重なりあってまじわるような形で「ある」ようにイメージしています。

 人は、言葉の世界、イメージの世界、現実の世界という三つの世界を行ったり来たりするとも言えるでしょう。


分身

 分身、もう一人の自分、片割れ、影のような存在。これはなかなか魅力的なイメージですね。

 鏡、写真、動画、日記、自分で書いた作文、こども、きょうだい、おや――こういったものは分身という言葉でくくれそうです。

 分身の相手には何がうつる、あるいはうつっているのでしょう。

 分身には、姿(顔・身体)、魂、気持ち、気分、心、記憶、知識、血(血縁)、DNA、癖(表情・仕草・身振り)、声(声の質、話し方、口調)といったものが、うつり(移・写・映)、つたわり、模倣・学習されているのではないでしょうか?

 分身には「うつる」要素が満載なのです。これだけのものが、自分と相手の間で「うつる」可能性があります。あとは「うつる」濃度でしょうか。

 頭に思いえがこうとすると、ぞくぞくします。さまざまな分身がありえますが、通底するのは「愛おしさ」ではないでしょうか。食べてしまいたいほど愛おしいのです。

 官能的で、エロチックにさえ感じられます。そもそも自分以外の自分というのは結合や合体に近いものがあります。結合や合体は別れでもあるわけです。

 もともと異なるもの、同一ではないもの同士が出会い、くっつくのですから当然です。異なるものであった痕跡と記憶がある限り、別れはつねに意識されます。

 いつか別れ別れになるのではないかという思いがあるからこそ、激しく結びつこうとします。

 相手に自分を感じる。他人に自分を見る。外見は違っているのに、血でつながっている。まったく知らない者同士が、遺伝子の検査できょうだい、あるいは親子だと判明した。

 前世でつながっていた。前世では一個の人間だった。前世では親子だった。前世で、再会を約束していた。こういうのも、きわめて観念的ではありますが、一種の分身でしょうね。

 観念であるがゆえに、燃えてしまうなんてありそうです。人は観念で欲情する生き物です。ポルノがいい例です。


あの世

 あの世。天国とまでは特定しません。ざっくりあの世としておきます。

 あの世に移る。

 いい言葉ですね。移動の意味の「移る」が希望をいだかせてくれます。楽観的なフレーズと言えるでしょう。

 あの世に遷る。

「遷る」は都なんかが移転するときに使う漢字のようです。遷都と言いますね。左遷の遷でもあります。変遷、遷宮も思いだします。基本的には「移る」なのですが、用法が限られています。

 そうした知識はさておき「遷」という見慣れない漢字、あまり使ったことのない文字に異和感(違和感ではなく)を覚え、異化も感じ、なんとなく「いいなあ」と思ってしまう自分がいます。

 あえて理屈をつけると、「遷」は訳ありっぽいのです。単なる「移動」ではなく、なんか背景に事情がある気がして、「あの世に遷る」なんて書くと、「なんで?」とか「どうしたの?」と呼びかけたくなるのです。

 勝手に呼びかけていろ。ですよね。一人で盛り上がって失礼しました。


魂がうつる

 魂がうつる。魂をうつす。

 文字どおりに取ってイメージする、つまり視覚的な絵として想像するのが難しい気がします。観念的であり抽象的なのです。

 その身振りや動作をしろと言われても、戸惑います。比喩、暗喩ととらえて、具体的な動作に置き換えないと無理に思えます。

 写真、とりわけ肖像や遺影には魂がうつっていそうですね。愛する人、近親者はもちろん、知らない人であっても、その姿が写っていたり映っていると、魂が移っているように思えてなりません。

 おろそかにはできないのです。

 遺品整理は大変な作業でしょうね。いろいろな物に魂がうつっていると考えると、私にはできそうもありません。自分の生前整理どころか、唯一の肉親だった母の遺品整理もほとんど手をつけていません。

 そのくせ、自分は神仏のたぐいは信じていないと信じているのです。魂と神仏という言葉は私の中では結びつかないのですけど、人それぞれですよね。


心が移る、気持ちが移る

 魂から話が移り、ほっとします。

 心や気持ちは、魂と重なる部分がありますが、魂は重い言葉だと痛感しました。

 心が彼女に移った。彼の心移りが許せない。心変わりをした。
 その計画のほうに気持ちが移りつつある。気持ちが傾く。

 ある人から別の人へと、誰かの気持ちが移るよりも、心が移るほうがずっと深刻な気がします。

 気の持ちようや心の持ちようと心では大違いですよね。心は本尊みたいなものです。その本尊が移ってしまうなんて、想像しただけで悲しいし、心を移した相手が憎くなりそうです。

 こうやって、言葉を転がすことで、言葉の世界から思いの世界へ、さらには現実の世界を想像することができます。一時的な疑似体験みたいなものでしょうか。

 これも、心や気持ちが移ることなのでしょうね。

「似ている・似る・似せる」「なる」「かわる」

「似ている・似る・似せる」「まねる・まなぶ」「なる・なりかわる・なりきる・なりすます」「かわる・ばける・てんじる」

 私にとっては失神しそうなほど強烈なわくわくぞくそく感をいだかせる言葉たちです。

 こうした身振りや動作や仕草がぜんぶ入っている作品があります。

 パトリシア・ハイスミス作の小説『太陽がいっぱい』と、その映画化された作品である『太陽がいっぱい』です。

 まだこの一連の言葉の連鎖とテーマについては語ることがたくさんありそうですが、いまの体調では無理なようです。

 考えただけで息切れがしてきました。


ある、いる、いく、なる

 記事の冒頭で引用した言葉の羅列をもう一度眺めてみましょう。

 うつる。なぞる。つたわる。似る。似せる。なりきる。なりすます。なる。なりかわる。訛る。まねる。染まる。染みる。溶ける。合う。変わる。化ける。転じる。

 こうした動きや姿やありようは、あらゆる生命に見られる気がします。生命、生き物はそうした過程を経ることで「生」をいとなみ、まっとうするのではないでしょうか。

 無生物でもそうしたありようが見られる気がします。たとえば、雲の形、水(液体、気体、固体)、岩・石・砂、光と影のありようが、そうです。長い目で見れば、あるいはごく短いスパンで見れば、生物か無生物かにかかわらず、万物流転という感じがします。

 もちろん、人が勝手に見たありようにちがいありません。人の思いや知覚とは別個に「ある」のでしょう。

 人が「ある・いる・おる」から「いく・生く・活く・行く・ゆく・往く・逝く」や「なる・生る・成る・為る・慣る・馴る・熟る・鳴る・萎る・褻る」へと「うつる」。

 いま書いた文はたわむれですが、私には「言えている」ように感じられてなりません。あくまでも個人的なイメージです。

 個人的なイメージは、他人には荒唐無稽に見えるものです。

「アホか」「馬鹿らしい」で済ますことができます。それでいいのでしょう。他人のことがすらすら分かるほうが荒唐無稽なのですから。

 言葉にそなわった音と形。これは人の外にあるものです。一瞬で消えていく音声、あるいはしばらくは残る文字の形としてあらわれるという意味です。人の外にありますから、音や形として確認できます。具象とか具体とか物と言えるでしょう。

 その音と形が、人に意味やイメージをいだかせます。これは人、しかも各人の中にあるものです。中にあるのですから、確認できません。観念とか抽象と言えるでしょう。

 外にある言葉の音と形は、誰もが生まれたときにすでに外にあったものです。それを真似て学ぶことができるのは、自分の外にあるからです。その外にある音と形を、耳や目や指や手で知覚し、なぞることによって、真似て学ぶわけです。

 繰りかえし繰りかえしなぞり、真似ます。学習ですね。これは一生続きます。

 言葉の音と形は、人の外にあって、人の中に入ってきます(なぞる・まねる)。そして出ていきます(はっする・はなす・なぞる・かく)。

 人の中でどうなっているのかは確認できません。想像するしかないのです。手がかりは中から出てきたものでしょう。とはいえ、出てきたものもまた、音と形なのです。それしか確認できないのです。

 どういうことなのでしょう。なんでなのでしょう。

 不思議ですね。謎です。さっぱり分かりません。知ることもできない気がします。

 言葉ほど不思議なものはありません。なぜ、これほど言葉の不思議さにこだわるのかと言いますと、言葉は意味をになっているからです。人は意味に振りまわされているからです。

 意味には二つあります。一つは、辞書に載っている言葉の語義です。もう一つは、「人生の意味って何?」みたいな使い方をするときの意味です。

 この二つを意味という言葉にになわせることには無理がある気がします。それぞれ別の言葉をあてるべきだと思います。だいいち、ややこしいじゃありませんか。

「人生の意味って何?」「人生の意味? 辞書を見れば」

「無意味」の意味が辞書に載っているのは不条理でナンセンスです。「意味」の意味が辞書に載っているのはシュールなギャグです。

 なにしろ、人はまず「〇△X」という言葉を作って、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物だから、こうなるのです。

 これがずっと続いて今日にいたるのです。なぜか。これからも続くでしょう。なぜか。

 ヒトは孤独な生き物です。言葉と意味は地球上でヒトだけに通じるギャグです。ヒトのひとり相撲なのです。ヒト同士でもよく通じません。一人ひとりのひとり相撲だからです。世界情勢を見ると悲しいほど明らかです。自分のまわりを見ると嫌になるほど明らかなはずです。

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、次に参りましょう。

 

形でも模様でもなく、顔

 ある、いる、いく、なる。

 この言葉を並べて、口で転がし、文字としてなぞり、それをたぶん頭か子心か気持ちか魂の領域で、並べ、転がし、なぞるのでしょうか。

 外と中。その両方を行ったり来たりしているかに見える言葉。声はたちまち消えます。文字だけが居続けます。消さない限りは残るのです。

 文字は、うつしている、うつっている気がします。

 何を、何が、何に、と関係なく、うつしている、うつっている。

 文字は、答えてくれそうもありません。

 外にあり外である文字は、なぞるしかなさそうです。目でも指でも体でもいいです。動かす中で触れるしかなさそうです。

 こちらから働きかけない限り、文字はただの模様としてあるだけなのです。文字が文字であるためには、文字が文字になるためには、こちらが文字になる必要があるのかもしれません。

 なぞって、真似て、なるのです。赤ちゃんのように。赤ちゃんだったころのように。赤ちゃんのころほど「なる」である時期は、人にはないと思います。だんだん「いる」「ある」になって「いく」のです。さいごはもちろん「いく」です。

 文字はたぶん顔なのです。形でも模様でもなく顔です。

 とりとめのない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。