星野廉の日記

うつせみのあなたに

「うつる」と「うつす」で影を編む

映る、移る

 木の影が地面に映っている。
 木の影が池に映っている。

 上の二つの文で描写されている影は自然界に見られるものです。この場合の「木の影」は木の姿が映った影、つまり像のことであり、木そのものでも、木の姿形でもありません。

 影が地面と池に映っています。太陽に照らされた物の姿、つまり像が光の現象として、地面と水面に映っているわけです。

 これを「移っている」と考えることもできるでしょう。大昔の人(大ざっぱな言い方で恐縮ですが)は「移っている」と考えていたのではないでしょうか。私の偏見かもしれません。

 こどものころの自分は、「移っている」に近い気持ちで影を見ていたような気がします。


移る、移す

 上の二文を少しだけいじってみます。

 木の影が地面に移っている。
 木の影が水面に移っている。

 影が「映っている」ではなく、影が「移っている」にしました。「移る」というと、物の影や姿ではなく、本体が動くというイメージを普通はいだきますね。つまり移動です。

 影が実体のように、つまり物として地面に、あるいは水面に移っているさまを思いえがいてみてください。

 影が自立しているのです。本体の木とはべつに生きているのです。

 もう少しいじます。

 木が地面に移っている。
 木が水面に移っている。

 上の二文を見ていると、比喩のようにも感じられます。ただ、文字どおりに取って絵として頭に浮かようとすると、ちょっと戸惑います。すんなりとは視覚的なイメージにならないのです。

 そこをうんと踏んばって、物としての実体が、地面に、あるいは水面に移っているさまを思いえがいてみてください。

 なんだかシュールですね。不思議な世界、ファンタジーのような絵が目に浮かびます。夢の光景のようでもあります。夢では何でも肯定されます。ありえないだけに、怪しげで妖しげでもあります。

 とはいうものの、いったん、思いえがいてしまうと、不思議なもので、それもありかなという気分になります。当初の躊躇は消えて、いまでは難なくイメージできます。

 慣れは恐ろしいものです。というか、想像力は大したものだと思います。想像力とは夢の片割れではないでしょうか。人の想像力は過剰で過激なのです。


撮る、撮す、写す

 木の影が地面に映っている。
 木の影が池に映っている。

 上の二つの光景を絵に描いたらどうでしょう。写生です。

 カメラで撮ったらどうでしょう。写真です。または映画とか動画です。

 木の影が地面に移っているのを絵に描く。写す。写生する。
 木の影が池に映っているさまをカメラで撮る。写す。撮影する。

 これは「移っている」ではないでしょうか。影という実体のないものではなく、紙と鉛筆の粉、印画紙、フィルム、画素に形や模様として存在しているわけですから、「移った」という気がします。

 気がするどころか、移った影は人の外にあって物として確認できるのですから、「移った」と言わざるをえません。しかも残るんです。

 すごすぎます。こんなことをしているのは、この星でヒトだけです。人はとんでもないことをしているのです。

「写す」は「移す」であり「残る」。

 何かに似ています。


写り(複製)、移り(拡散)、残る(保存)

 分かりました。あれです。

 後で触れることになると思いますが、文字に似ています。文字は、写り(複製)、移り(拡散)、残ります(保存)。

 こんなものは地球上に文字以外にないのではないでしょうか。人はこの時点でも、せっせと写し、移し、残しています。

「なぞる」から、「写す」、「移す」、「残る」。ここまで出世した文字に感動しないではいられません。それにしても、なんでなのでしょう? なんで、こんなことが起こっているのか、私にはさっぱり分かりません。

 やっぱり「なぞる」は謎です。

 

影絵、幻影、「いる」

 話を木に戻します。

 木の影が壁に映っている。

 これは影絵に近いですね。綺麗です。たしか、こんな景色を見たことがあります。長い塀に木々が映っているさまが目に浮かびます。記憶の中の風景なのでしょうか。どこで見たのかは思いだせません。

 木の影が障子に映っている。

 この光景を見た記憶はありませんが、目に浮かびます。これも綺麗です。目に浮かぶというのは、勝手に「絵」を思いえがいている、つまり作っているのでしょうか。偽の記憶みたいなものです。

 壁や塀に映る木の影も、障子に映っている木の影も、影絵と似ています。同じではありません。影絵は、人が意識して作った影、つまり人工的なものです。

 影絵、つまり人工の影の延長上に、写真や映画や動画があるとも言えそうです。

 人工の影は、「映った」よりも「映した」であり、要するに「写した」であり、さらには「移した」ではないでしょうか。

 物を移動させるという意味ではなく、影をわざと作るという意味の「映す」、つまり「写す」は「移す」に思えてなりません。

「写す」と「移す」は人工であり人為であり、「映る」は自然界の現象だなんて、図式的にまとめたくなります。

 人工の影は何を移すのでしょう? イメージ、意味、物語が考えられます。どれもが人の中にあって確認も検証もできないものである点に注目したいです。

 でも、人はその確認も検証もできないものによって動きます。

 これも確認も検証もできませんが、人工の影は心や魂も移すのではないでしょうか? 

 あなたは、愛する人の写真を踏めますか? 尊敬する人の動画がいたずらに修正や加工されて平気ですか?

 人の想像力は想像を絶します。

 話を戻します。

 影絵は自宅でも簡単に楽しめます。光源と手と指と壁があれば楽しめます。あと、必要なものは想像力でしょうか。

(さきほど述べたように、想像力は夢の片割れです。過剰で過激な想像力があるから、人は人なのです。人からこれを取ったら、何も残りません。)

 手と指を動かして、壁に影を映してみる。いまちょっと居間でやってみましたが、わくわくします。懐かしさでいっぱいになりました。

 まぼろしです。幻影です。影が動いているさまを目の当たりにすると、「移っている」を体感します。そのリアルさは「映っている」どころではないのです。

 さらに言うなら、「移っている」どころか、そこに「ある」のであり、そこに「いる」のです。動いて「いる」のです。


言葉を編む、影を編む

 言葉は事物の影
 言葉は現実の影
 言葉は幻実という影

 言葉は事物の影であり、現実の影だと考えることができます。

 事物も現実も容易にいじれないから、影である言葉を人はいじるわけです。言葉はある程度、簡単にいじれます。現実のままならさに比べれば、はるかに思いどおりになる気がします。

 言うことを聞いてくれそうな影、それが言葉です。もちろん、人工の影です。

 言葉をいじり、作文する。

 作文では、書くというよりも編むのです。編んで模様や形や姿を作るのです。それが影です。

 あくまでも言葉という影なのにもかかわらず、現実や事物の影に思えてきます。人には、とほうもない想像力があるからです。

 表情、身振り、話し言葉、書き言葉のうち、書き言葉である文字こそが人の作った最強の影であり――絵や映画や動画なんて目じゃありません――、人の過剰で過激な想像力と相まって、この文明をここまで築きあげたのです。

 上でも述べましたが、文字は、写り(複製)、移り(拡散)、残ります(保存)。最強の人工の影と言わざるをえません。

 言葉をいじり、作文する。

 文章を書くことは、影を編むのに似ている気がします。

 いま、私は、うつるとうつすという言葉を使って影を編んでいます。いじれない自然界の影(現実)の代わりにいじれる人工的な影(言葉)を編んでいるのです。

 空しくないと言えば嘘になります。影は空っぽなのですから。

 その空っぽを満たすのが想像力です。人の想像力の過剰さと過激さを感じます。


幻灯、幻影、映写

 話を木に戻します。

 窓ガラス越しに見える木を指でなぞる。
 窓ガラス越しに見える木をマーカーでなぞる。

 指でなぞるくらいならいいでしょうが、ガラスにマーカーで線を描いたり、塗りつぶしたら、叱られるでしょうね。そんなお子さんがいても不思議ではありません。

 これが車の窓だったら大変なことになりそうです。

 ガラス越しに見える木を、いろいろな色のある水性のマーカーで描き写したとすれば、それはスライドではないでしょうか。適切な光源と、壁かスクリーンがあれば、立派なスライドであり、立派な幻灯になりそうです。

 想像しただけでぞくぞくしてきました。小学生のころに、学年別の学習雑誌の付録で幻灯セットがあったのを思いだしました。スライドはセットに含まれて用意されていました。

 説明の絵を読むのが待ちきれず、息をはずませながら、紙製の幻灯機を震える手と指で組み立てた記憶があります。たしか、懐中電灯を光源にするものでした。

 昼間なのでカーテンを閉めて、白い壁をスクリーンにして幻灯を見たのです。なにか悪いことをするような、後ろめたい気持ちが湧いて、よけいにぞくぞくはらはらしたような気がします。


移っている

 あのときのあれが、どんなスライドだったのかは忘れました。

 色つきのかさかさぺらぺらした透明のセルロイドかプラスチックのようなものでした。その紙みたいなものが、壁にうつりました。思いだそうとしているのですが、スライドの絵はぜんぜん覚えていません。

 気が遠くなりそうなぞくぞくした思いだけが、いまここによみがえっています。息が苦しいくらいです。

 あれは「映っている」ではなく「移っている」だったといまになって思います。それが、いまここに「移っている」気もします。

 ただ、いまここに移っているものが何かのはさっぱり分かりません。移っているという思いだけがあるのです。

 この思いは心地よいです。官能的ですらあります。しばらく浸っていたい気分です。

 これを言葉で影と呼ぶ気にはなれません。いたずらに手なずけたくないのです。名づけずに、そっとしておきたいのです。意味もストーリーも要りません。