「移る・移す」、「写る、映る・写す、映す」
「うつる、移る、写る、映る、遷る」、「うつす、移す、写す、映す、撮す、遷す」。
こうやって眺めてみると、ずいぶんいろんなものが「うつる・うつす」に詰まっているなあと感心します。とくに、「移る・移す」と、「写る、映る・写す、映す」の間に落差を感じます。
(拙文「漢字の綾、和語の綾」より引用)
いまでも、上で書いた「落差」を感じます。
どうしてなのでしょう。不思議なだけでなく、わくわくもするので、考えてみます。
*「移る・移す」:本体、移動
*「写る・写す」:像、写真、転写、模写、複写、複製、コピー
*「映る・映す」:像、影、鏡、映画、映写、反映、反射
本体が動いて移る、つまり移動するか、本体の像が写ったり映るのか。落差を感じるのは、この違いがあるからのような気がします。
そうだとすれば、かなり違いますよね。あるものがそのまま移動するのと、その像や姿形が転写されたり、映しだされるのとは根本的に異なるように思えてなりません。
それを「うつる・うつす」でひっくるめてあるのですから、不思議です。何かの間違いではないかと思うほどで、いろいろ想像してしまいます。
想像するといっても、根拠が薄いというか無いのですから空想とか妄想なのかもしれません。
記憶をたどる
でまかせを言うしかなさそうです。
昔の人は、「移る・移す」も「写る、映る・写す、映す」も似たようなものだとか、同じだと考えていたのかもしれません。
初めて水面に映った自分の姿を見たときの人は、さぞかしびっくりしたでしょうね。初めて鏡みたいなものを覗きこんだときも、です。
こういうときには、自分の記憶をたどるしかありません。よく覚えていないのですが、鏡はこどものころによく見ていました。不思議でした。ぞくぞくもしました。
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見てはいけないものを見ているような変な気分になったこともあります。小学校に入る直前に、母が毛筆で書いてくれた名札を鏡で見たときにはぶったまげで声を上げたことを覚えています。左右が反対になるのをそのとき初めて気づいたのです。
雨の後の水たまりに映った空を見るのが不思議で好きでした。青い空や空で動く雲を、おしっこを漏らしそうな気持ちで眺めていた記憶がよみがえります。
「映る・映す」は、私の中では身体のとくに下半身にくるぞくぞくとかわくわくなのです。なぜなのかは分かりません。あまり追求したくない気もします。
あえて言うなら、自分が二人いるからかもしれません。ちなみに、母子家庭で育った私はひとりっ子でした。友だちは多くありませんでした。
変な話になって、ごめんなさい。
写す、なぞる
「写す」は自分の中では「なぞる」です。
いちばん遠い記憶としての、「写す」は「撮す」ではありません。私の幼いころには写真は撮るものではなく、見るものでした。
その意味では写真と鏡はそんなに違いません。
いや、そうでもないかもしれません。鏡に向かうのは個人的な体験であり、秘密に近いプライベートな体験であるのに対し、写真は誰かつまり他人が撮ったもの、写したものであることが、異なる気がします。
この違いは大きいです。少なくとも私にはとても大きいです。
いまでも写真を撮ることは、ほとんどありません。私には縁遠い行為なのです。
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で、幼いころの私が何をなぞったのかというと、絵であり、文字です。私のいちばん遠い記憶では、「絵は絵を見てなぞった」であり、「文字は文字を見てなぞった」なのです。
真似たということですが、真似るというよりも、なぞるのであり、などるのであり、撫でるのです。何だかこじつけっぽいですね。嘘っぽいですね。
文字をなぞるといっても、たしか小学校高学年で始まった書道とも違う気がします。
書道ではぞくぞくはあまり感じなくなっていました。退屈なだけでした。
そう言えば私には絵心もありません。興味があるのは言葉による描写くらいでしょうか。あと写生文とか。
残念ですが、いまの私は「写る・写す」にはぞくぞくをあまり感じないようです。
ふたり、二人、二人の自分
気になるのは、「映る・映す」です。
いまはどうかと言えば、鏡を見ることはめったにありません。お化粧をする習慣がありませんし、朝シェーバーを使い、顔を洗った後にちょっと覗きこむくらいです。
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あえて言うなら、自分が二人いるからかもしれません。
上でこう書きましが、もう少し追求してみます。
幼いころの記憶を呼びさましてみます。
自分が二人いる。自分一人だけで、もう一人の自分を見ることができる。会うことができる。二人っきりになれる。ぜったいに自分を裏切らないもう一人の自分に会える。
そんな気がします。言葉にすると、嘘っぽいのですが、あえて言葉で言えば、そんな感じだった気がします。
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さらに嘘っぽい話になりそうですが、鏡に映った自分の姿や、鏡を覗きこんで自分の姿に見入る自分を思うとき、「移る・移す」がなんとなく分かったような気分になります。
「移る・移す」と「映る・映す」が近いものに感じられて、両者の落差が消えるのです。
さらに言うと、鏡の中の自分は映っているというよりも移っているのです。反映というよりも移動を感じるのです。
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嘘っぽいですね。言葉の綾、つまり言葉の世界の論理と文法に染まって、言いたい放題になっている自分を感じます。
言葉の綾にとらわれて、言葉の喚起するイメージ(像や絵)がすくい取れなくなっています。
レトリックに走っています。
ひょっとすると「鏡に映る」ではなく「鏡に移る」であることに、ビビって、うろたえているのかもしれません。とても気になることは確かです。よく考えると怖くないですか?
この辺で言葉から、いったん離れたほうがよさそうです。避難します。では、失礼します。