星野廉の日記

うつせみのあなたに

言葉と向きあう

日本語の言葉のイメージ

「うつる、移る、写る、映る、遷る」、「うつす、移す、写す、映す、撮す、遷す」。

 こうやって眺めてみると、ずいぶんいろんなものが「うつる・うつす」に詰まっているなあと感心します。とくに、「移る・移す」と、「写る、映る・写す、映す」の間に落差を感じます。

(拙文「漢字の綾、和語の綾」より引用)


 こうしたイメージは日本語での話になります。「うつる・うつす」の普遍性を目指しているわけではありません。

「うつる・うつす」の普遍性を目指す――そもそも、これは矛盾です。日本語である「うつる・うつす」を対象とした時点でローカルなものを目指すことになるからです。

「愛とは何なんのか?」「真理とは何ぞや?」「海とは何か?」も同様に、言葉を使う以上、その言語の枠の中での「話」、つまり言葉を使って作った話という意味での「フィクション」になります。お話なのです。

 ある程度の検証が可能な数学や科学や技術という話――私に言わせると、これも言葉を使った物語であり「フィクション」です、言葉は言葉であり事物ではないからに他なりません――とは、話が違うのです。


言葉のイメージ

「うつる、移る、写る、映る、遷る」「うつす、移す、写す、映す、撮す、遷す」という日本語の言葉と向きあうとき、その言葉の音(おん)や文字という、人の外にあってある程度確認と検証可能な部分に注目するのは、わくわくする体験です。

 なぜわくわくするのかと言えば、そうした人の外にある要素が、人の中にイメージを呼びさますからでしょう。

 この場合のイメージとは、辞書に載っている語義(これはすべての人が知識として持っているわけではありません)の一部や、音と文字によって喚起される視覚的なイメージ(映像)の断片や、聴覚的なイメージ(音や声や振動)の断片や、触覚、嗅覚、味覚といった知覚的なイメージのことです。

 こうしたイメージは各人が勝手にいだくものですから、人それぞれでしょう。確認や検証は、言葉による証言や絵に描くという形でしかありえません。つまり心もとないわけです。検証不能と言えるでしょう。もちろん、ハードルを低くすれば検証可能となるでしょうけど。


「わかる」のイメージ

 以前に「わかる」という日本語の言葉を使って、ああでもないこうでもない、ああだこうだをやっていたことがあります。


 そのときには、「わかる」に相当する、あるいは類似の英単語の語義や語源を見たり、日本手話やアメリカ手話における、類似の単語の身振りを調べたりしました。

「わかる」のイメージを探ろうとしていたわけですが、「うつる・うつす」でも同様のことをやれば、楽しいだろうと思います。とはいうものの、いまではそんな元気もありません。だいいち体力がついてきません。

 いずれにせよ、こうした日本語以外の言語の類似表現を見る場合には、間違っても普遍性などという世迷い言の誘惑に乗らない慎重さが大切だと思います。

 抽象という切り捨てをすればするほど、言葉の実相からは離れていくという意味です。絵空事になります。


ローカルな言葉

 言葉はあくまでもローカルな(局所的な)ものなのです。ローカルな言葉を使う以上、普遍はありえません。「世界史」があるローカルな(空間的にも時間的にも)視点に立ったものでしかありえないのと事情は同じです。

※「世界史」とは努力目標なのかもしれません。

 また、普遍や真実を目指すためには、過去の人たちの証言(残っている資料やいわゆる古典だけでは絶対的に足りません)も必要ですから、タイムマシンが発明されるまで待たなければなりません。

 超ローカルな視点である個人レベルでの言葉のイメージとたわむれることが、もっとも現実的な方法だと思います。


普遍性、共通性、一方的な文化的影響の結果

 私にとって普遍性はとても重い言葉です。

 たとえば、二国間あるいは複数の文化圏や地域レベルでの共通性を、普遍性と呼ぶのに躊躇します。

 また日本のある芸術作品が(あるいは欧米のある芸術作品が)欧米において(あるいは日本において)評価された場合も、その共通性や評価の高さを理由に普遍性を語るのにも疑問を覚えます。

 日本が欧米の影響をほとんど一方的に受けてきたという歴史的な背景があるからです。日本は欧米の植民地にはなりませんでしたが、アジア、アフリカ、中東、南北アメリカには、かつて植民地だった国や地域がたくさんありますね。

 そうした地域の文化が欧米と似ている、あるいは共通しているのは、文化的侵略の結果であり(本来の文化は抹殺されたのです、抹殺された言語も数えきれないほど多くあります)、一方的な影響の結果であり、普遍とは言えないと思います。

 以上の理由から、普遍性という言葉を使うさいにはハードルを高くしています。

 ご理解いただければうれしいです。


母語の駄洒落を他言語で説明する

 母語である日本語の駄洒落を、他言語を母語とする人に説明するさいの苦労を想像してみましょう。

 私はかつて学生時代に、米国人とフランス人と中国人に、日本語の数語の単語の意味と語源、漢字の成り立ち(解字みたいなものです)を説明したことがありました。

 ものすごく大変でした。私の力不足もあるのでしょうが、私も相手もぐったりしました。漢字の成り立ちでは、フランス人が大笑いをしました(解字を冗談だと思ったようです)。米国人は笑いをこらえていました。中国人は初耳だと言いました。

 そのとき、私は日本語の駄洒落を説明している気持ちになり、はっとしました。あらゆる言葉の用法とありようは、その言語における「ギャグ」ではないかと思ったのです。だから、通じないのではないか、と。

 ローカルでしかありえない言語のローカルな現象を、やはりローカルな他言語を母語とする人に伝えるのは至難の業です。機会があるようでしたら、ぜひ試してみてください。体感するのがいちばんです。


言語活動、駄洒落、掛け詞、比喩の根底には、こじつけがある

 よく考えれば無理はないのです。

 ねこという発音と猫は似ていますか? 猫という文字と猫は似ていますか? catと猫は似ていますか? 似ても似つかぬもの同士を結びつける行為が言語の根っこにあります。

 似てもいない、事物と音声と文字をつなぐ行為をこじつけと呼ばないで、何と呼べばいいのでしょう?

 必然はないのです。たまたまそうなっているだけです。言語学を持ちだすようなたいそうな話ではありません。単純明快な話なのです。

 だから、別の言語のギャグは説明してもなかなか通じないのです。こじつけが通じたら、そのほうがよほど不思議です。

 奇跡と言っていいでしょう。不思議すぎて超越者の存在を感じてしまいます。

 似ても似つかぬもの同士を結びつけるというのは、駄洒落や掛け詞や比喩の根っこにあるものです。

 凧と蛸と胼胝は似ていますか? 猿と去るは似ていますか? 川と皮は似ていますか? どれも同音なんです。たまたまそうなっているだけです。

「それは「きて」じゃなくて、カイトって読むの。たこのことよ」「どのたこ?」「……」

 ……。

 猿が逃げた。去る者は追わず。

 なんちゃって。

「川にカワウソの皮が流れて行く!」「うそーっ! かわいそう!」

 なんちゃって。

 大変失礼しました。

 いまの萎えるほどくだらない駄洒落を英語に直せますか?


言葉と向きあう

 言葉と向きあう。多くの人にとっては母語と向きあうことが日常的に体験できる言葉との付き合いだと思います。

 その付き合いでは、ローカルな部分、つまり抽象ではなく、具体的に音や文字に接して、そこから呼びさまされるイメージや記憶と徹底的に付き合うことが、いちばん現実的な言葉との触れあいではないか。そんなふうに私は感じています。