星野廉の日記

うつせみのあなたに

人の作るものは整然として美しい

すぐに消える言葉、すぐには消えない言葉

 視覚言語である表情と身振りと、話し言葉としての音声は、放たれた瞬間に、つまり発せられたとたんに消えます。現れる、消える、現れる、消える。これがずっと続くわけです。これが「見る」であり「聞く」なのです。

 よく考えると不思議なことが起こっています。

 時間に拘束された表現だと言えるでしょう。送り手も受け手も時間に拘束されます。時間という枠の中で表現されるという言い方もできそうです。始まりと終りが枠です。

 書き言葉つまり文字は書かれてもすぐには消えません。残り保存することさえ可能です。時間には制限されず(後でまとめて、はしょって読めるからです)、むしろ空間という枠の中で表現されます。紙面や画面という枠に収めなければなりません。

 改めて考えると、これまた不思議なことが起こっています。

 紙切れや巻物やノートには枠があります。あらゆる印刷物にも枠があります。そこに収めるという意味です。

 なんでなのでしょう?

 不思議です。言葉を観察していると、じつに不思議なことが起こっているのに気づきます。考えれば考えるほど不思議であり、不気味にも感じられます。不気味というのは、私のことです。


保存するために枠に収める

 音声であれば録音、表情や身振りであれば録画という手段で残し保存はできます。

 げんに代表的な表情と身振りを用いる言語である手話は、フィルムやビデオで保存されています。たとえば、米国にある聴覚障害者のための大学である、ギャローデット大学の図書館には、アメリカ手話を録画した膨大な資料が保存されているそうです。

 録音と録画は、枠に収めることです。音声であれば、始まりと終りという枠のある発話を、アナログのテープであれ、デジタル化された音声であれ、始まりと終りのある枠に収めて録音します。

 表情や身振りであれば、始まりと終りという枠のある「発話(動き)」を、フィルムであれ、デジタル化された映像であれ、始まりと終りだけでなく、画面であるフレームというのある枠に収めて録画します。

 表情、身振り、音声、文字のうちで、文字が容易に消えず、容易に保存できることは驚くべきことに思えます。考えれば考えるほど不思議でもあります。

 また、表情、身振り、音声、そして文字を残し保存するためには、枠が必要であり、その枠に収めなければ保存できないことは興味深いです。これも考えれば考えるほど不思議です。


人の作る整然とした美しいもの

 外に出て、海、山、川、草、木に目をやると意外と長方形や四角がないのに気づきます。長方形が見えるなあと思うと、たいてい人がつくったものなのです。そして、そうしたものには角があるのです。当たり前ですね。

 真っ暗な山中の道路で人家を見ると四角い形をした光を目にしてほっとすることがあります。窓が四角いのです。その窓が人の目に見えて、その目を中心にして人の顔が浮かびあがってくるような気持ちになることもあります。そこには表情があります。

 四角や長方形は人の印であり、そこに人がいる、いた、いるだろうという印なのです。一方、人体はどうかというと、あまり四角い部分が目につきません。長方形も感じません。角(かく・かど)も直線もないのです。曲線、いびつな形、丸みを帯びた角が目につきます。

 人は自分に似たものや自分の中にあるものに似たものを無意識につくっているのではないか。つくっているうちに自分のつくったものに無意識に自分を似せ、それに似てくる。そう考えることがあるのですが、長方形や四角については、どうやらそうでもなさそうに思えてきました。

 眠れない夜に考えるのにふさわしい、荒唐無稽な話だと思います。

 そういえば、空を見ても長方形は見当たりません。楕円形っぽい長方形にも見える視界の枠が感じられるだけ。お日さまも雲たちにも、お月さまも星たちにも、角というものがない。直線もない。空に見える直線は電線と飛行機の跡の白い線くらいです。

 そもそも四角や長方形や五角形や六角形は、自然界ではあまり目にしません。直線自体がまれなのです。そうしたものを自然から採取して見るとすれば、顕微鏡や電子顕微鏡という道具をもちいるしかない気がします。結晶には多面体が多いですね。つまり肉眼をふくめた五感では出会えない形ではないでしょうか。

 要するに不自然なのです。人の五感で感知できる限りでの自然に反しているともいえそうです。反自然、不自然。ありえない、抽象、観念。そういうものには整然とした美しさがあるのでしょう。端正なのです。

 もちろん、音楽をふくめての話です。

 楽曲にはたいてい始まりと終りという枠があり、聞くためには時間に拘束されます。楽曲を手に入れるためには、たいていは長方形の枠のある機械や端末がないと難しそうです。

(めちゃくちゃ言ってごめんなさい。)

 楽曲が四角いという話は聞いたことがありませんが、川のせせらぎや野鳥のさえずりに比べると整然としています。楽曲には計算され体系化された美を感じます。

(必死でこじつけています。)

 音なのに楽譜みたいに絵っぽいのです。人の作ったものである音楽は、絵のように美しい。音も旋律も整然として美しいのです。

(ようやく「整然とした美しさ」にたどり着きました。)

 CDやレコードは丸いですけど――(よけいなことを話しはじめました)――、CDやレコードを収める容器、つまり枠はたいてい正方形か長方形です。要するに不自然なのです。CDも、その中身の音楽もです。

(悪いけど、そろそろ……。)

 パッケージは自然にはない形をしているし、中身は自然にはない音をしているし、整然とした美しさがあります。

(駄目押しをしないと駄目な性格なのです。悪い癖です。)

※この章は、拙文「【夜話】直線で切りとり分ける」から引用し若干の加筆をしたものです。

 

人の作るものには枠と境がある

 人の作るものを影として考えてみましょう。人は森羅万象に影を見ているからです。そのものとして見ることはできません。必ず知覚器官や言葉というフィルターを通して見ます。

 映画を見ているようなものです。人にとって世界とは影からなり影が乱れ舞う映画なのです。

 人の見ている映画に映る影は、自然界にある影とは違い、枠があります。この枠を意味とか物語とか論理とかイメージの比喩だと考えていただいていっこうにかまいません。

 人の作るものとは、言葉であり、物であり、事です。そのどれにも枠がありますが、枠とは境でもあります。

 枠も境も、切り取るからできるものです。「切り取る」には「切り捨てる」がともないます。

 そもそも切り取るのは、すっきりとしてきれいに見せるためです。持ち運んだり、簡単にさくさく処理するためには、すっきりとして無駄のない形をしていなければなりません。軽いことは絶対条件です。

 軽くてすっきりしているのは、枠と境がある証拠だとも言えます。要するに不自然なのです。

 自然界には枠と境はないにもかかわらず、人は自然界に枠と境を作ることで、言葉の世界と現実の世界を一致させてきました。自然界に枠と境を作ることは、世界の言葉化でもあるのです。

 自然も世界も、人の都合のいいように変えられてきたと言えますが、人はこの自然と世界の中にいるのであり、その逆ではありません。人も言葉化されてきたのです。

 人は言葉を崇め、言葉にひれ伏しています。言葉の上での辻褄合わせと筋を通すことに血道を上げています。しかも、そのことに気づいていなかったり、気づいたとしても事の大きさにひるみ、すぐに忘れます。

 それが人の面子(体裁)であり、同時に尊厳(プライド)であるとすれば、悲しいレトリックです。

 自然には枠も境もありませんが、人が「ある」と想定しているのは言葉を持ったから、そしてたぶん文字を持ったからでしょう。

 話し言葉や表情や身振りと異なり、文字が残るだけにとどまらず、いまや無限の複製と拡散が可能になっていることは、人が作るものが残るだけでなく、大量生産され、自然に帰らないことと軌を一にしていると思われます。

 人は無意識に世界と自然界を文字化しているのかもしれません。もちろん、人自身も文字化してます。これも、たとえ気づいたとしても、すぐに忘れます。きっとこれは人の知恵、人知なのだと思います。

 枠と境をなぞる、文字はなぞるものです。なぜ人はなぞるのでしょう。なぞです。

 自然にはなぞるものも、なぞるべきものもありません。自然には謎はないのです。なぞは人がいだき、なぞるものだとしか考えられません。

 人は孤独なのです。自然界で孤立しています。

 

人が作るものには意味と筋書きがある 

 作られた影には筋書きやストーリーもありそうです。筋書きとは作られたものです。物語であり、フィクションのことです。

(拙文「投げた影に影を重ねて見る」より引用)

 人の作るものは残りますが、自然に帰りにくいという特徴があります。人はそれに気づき、気になり始めたようですが、手遅れにならないことを祈るしかありません。

 人の作ったものは、人がこの星からいなくなっても残るでしょう。自然に帰りにくいからです。生身の人は消えて自然界に帰るのに、人の作ったものが残りつづけるとすれば、皮肉です。

 文字も残るでしょう。読む者がいないのに、です。


逸脱

 ヒト以外の生き物たちは、ひたすら子孫を殖やし残して存続してきたようです。それだけが目的で生きているかのようです。

 ヒトも殖やしますが、増やしもします。殖やすと増やすは違います。後者は逸脱です。

 それに加えて、人は物を作り、増やし、捨てるという形でそのまま残すか、保存するという形で残してきました。物を残すのも逸脱です。

 人が作った物が容易に自然に帰らないのは、人の作った物に枠と境があるからかもしれません。

 これは逸脱です。

 意味と筋書き、枠と境は、自然からの逸脱です。人の作る物には、意味と筋書きと枠と境があります。これも逸脱です。それを残すとなれば、さらなる逸脱です。自然に帰らないものを残すとなれば――、もう何も言いたくありません。

(誰に残すのかだけが気になります。もちろん、あの後にです。残してもらっても困るものってありますよね。遺される者たち――絶対他者たち――のことも考えなければなりません。思い遣り。最後の擬人でのご奉公です。立つ鳥跡を濁さず。)

 逸脱とは過剰のことです。不要であり、やり過ぎだという意味です。


言葉は外にあるときにしか確認できない

 誰もが生まれたときに、既にあるもの。人の外にあって、人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で、つねに人にとって「外」であるもの。

 何のことでしょう?

 表情、身振り、話し言葉(音声)、書き言葉(文字)、影(人が作った事や物)――のことです。広い意味での言葉のことです。

 言葉は、どれもが、外にいるときにしか確認できないという特徴を備えています。確認するのは人です。しかも、中にいる人、「中の人」なのです。 中の人は生身の人ではありません。

 中の人が、外にある言葉を見ている。これが最大のジレンマかもしれません。このジレンマのために、後戻りできないからです。

(人は、言葉を持ったために分裂した、文字を持ったことで分裂がさらに加速している。そうも言えます。しかも、後戻りできないほど、加速化している気がします。)

 生身の人は、死にます。死ねば自然に帰ります。

 言葉を使っているのは中の人です。文字を使っているのも中の人です。物や事を作っているのも中の人です。

 外の人は、ヒト以外の生き物たちと同様に、子孫を殖やし残して存続してきました。いまもそうしています。

 これからもそうできるのかは、中の人しだいという気がします。


言葉に気づく

 言葉は謎です。謎だらけで訳が分かりません。これまで私は言葉について記事を書いてきましたが、それは言葉がどういうものか分からないからです。

 私は分からないことについてしか記事を書くことはないのですが、分からないままに記事を書きます。それでいて記事を書きおえたときには、依然として分からないままであることに気づくのがほとんどです。

 それでまた次の記事を書くことになります。

 私は分からないときには、分かろうとしたり知ろうとしたり悟ろうとはしません。気づこうと努めます。

 気づくは、知るとか悟るとか分かるとは違う気がします。私には、気づくのほうがずっと大切に思えます。

 目に見えないものを求めて目を宙や彼方に向けるのではなく、目の前にあって気づかないものに目を向けたいのです。

 言葉はいまここにあります。いつもいてくれます。おそらく死に際の間近までいてくれる気がします。言葉は、物心のつきはじめたころから、いっしょにいてくれる友なのです。

 誰々が言葉について何と言ったか。何々という本や作品や文章に、言葉について何と書かれているか。そういうことには、私は興味がありません。

 自分のまわりにある言葉を観察する、自分のまわりにいる人がどう言葉と向きあっているかを観察する。このほうが私にははるかに大切です。

 言葉を知ろうとする、言葉を分かろうとするのではなく、いまここにある言葉のありように気づきたいのです。

 具体的には、どうしたらいいのでしょうか。

 繰りかえして恐縮ですが、自分が言葉にどう向きあっているのかをひたすら観察し、自分のまわりにいる人たちが言葉にどう向きあっているのかをひたすら観察する。

 観察すると、不思議なことが起こっているのに気づきます。当り前だと思っていたことが、不思議だと気づきます。

 誰もが生まれたときに、既にあるもの。人の外にあって、人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で、つねに人にとって「外」であるもの。

 言葉は外にあるときにしか確認できません。外にある言葉を見る。

 見ると言うより、言葉に気づく。

 これほど難しいことはない気がします。難しいのは外にあるからだと諦めるわけにはいきません。

 目に見えないものは目の前にある。宙や彼方にではなく、目の前にある。私はそう思います。