見えない言葉
表情や身振りという視覚言語、話し言葉、書き言葉。このうちで、見えないものは、話し言葉、つまり音声です。
不思議です。
上で挙げたどの言葉も、誰もが生まれたときに既にあって、私たちはそれを見様見真似で覚えていきます。真似て学ぶわけです。
音声だけが見えないのですね。ふだんは気づかないし、考えもしませんが、やっぱり不思議です。
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覚える順番からすると、表情、身振り、音声、文字という感じがします。順番なんて言いましたが、それぞれを真似て学ぶ過程は、一生続いていると思います。
どの言葉も「はい、これは卒業しました。おめでとうございます」というものではありません。だいいち、人は忘れる生き物です。覚えても忘れます。これが続くのです。
覚えていられる容量は決まっているようです。そのため、学び直しが、しょっちゅうあります。
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「ねこ」と発音したり、「ねこ」と言われて耳で聞く。「猫、ねこ、ネコ、neko」という文字を見る、あるいは読む。
音声は見えませんが、見える文字と比べて、大きな違いはあるとは思えません。
少しは違う気がしますが、頭の中に浮かぶイメージ、つまり印象は似たようなものです。
これも不思議です。
イメージ、印象、記憶、像、響き、感触
いまイメージとか印象と言いましたが、これは記憶でもあるし像(映像)でもあるし音の響きとか感触でもあります。
猫とか犬と聞いたり、その文字を見たりすると、思い出が浮かびます。その思い出は、映像つまり視覚的なイメージでもあるし、鳴き声やうなり声つまり聴覚的なイメージというか響きだったりするし、撫でたり引っかかれたときの触覚の記憶だったりするのです。
少なくとも私はそうです。
私は、においと味を思いだせと言われて思いだすことはできませんが、あるにおいを嗅いだとき、ある味を感じたときに、あれと同じだと思いだすことはあります。
記憶には二通りあるということでしょうか。興味深いです。というか不思議でなりません。
においや味を自由に思いだすことができる人がいても驚きません。不思議はどんなにあっても不思議ではないという意味です。
変換、交感、照応、共感覚
言葉によるイメージの喚起力にはすごいものがあります。
上で述べたように、猫という発音をして、あるいは発音を耳にして、猫を撫でたときの感触が思いだされるときがありますが、それをいま改めて考えると不思議です。
音声が触覚に変換されたような気がするからでしょうが、こういうことは猫という文字を見ていても起きます。猫の表情を真似てみても、猫の仕草を真似てみても起こります。
猫や犬といっしょにいるときに、その表情や仕草や鳴き声を真似て、コミュニケーションを試みることがありませんか? 私はそういうのが大好きです。
犬や猫を相手にしているときには、書き言葉は完全に忘れます。その存在すら頭にはありません。話し言葉は別です。相手に話しかけている自分がいますが、通じているかどうかは分かりません。むしろ通じていないほうが多い気がします。
犬や猫の表情や仕草や鳴き声を真似るのは意外と難しいものです。真似たところで、これもまた通じていると思えないほうが多いです。ひとり相撲をしていると感じます。でも、めげずに頑張ります。愛おしいからです。
猫や犬にとっての「似ている」と、ヒトの「似ている」は違う気がします。大きく異なるようです。つながっていないのです。
ヒトである自分が「似ている」という言葉で、無理につなげようとしているだけ。そんな思いに駆られます。言葉は、ヒト以外の生き物にはまず通じません。言葉の喚起するイメージでの共通点すら感じられないのです。
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話はずれますが、視覚、聴覚、表情や身振りという身体の動き、触覚、嗅覚、場合によっては味覚は、「似ている」という感覚でつながり、それがイメージの記憶という形で溶けあっているように思えます。
もちろん、人においての話です。話は変わりました。
フランスの詩人シャルル・ボードレールの詩に「交感」とか「万物照応」と訳されているものがあります。原題は Correspondances なんですけど、簡単に言うと「五感が響き合う」ような感覚について歌っているみたいです。
「五感が響き合う」ような感覚……。
変換、交感、照応、共感覚といった言葉で、「似ている」とか「そっくり」という不思議な感じを分け、名づけ、手なずけようとすることがむなしく思えます。不思議さの前には、どんな小賢しげな言葉も無力だからです。
言葉で説明した気になったところで、ちょろいどころか、感覚という身体の「思い」はすくい取れない気がします。言葉はあくまでも言葉なのです。