星野廉の日記

うつせみのあなたに

それない、ぶれない、あやまらない

 間違う、誤る、たがう、違う、ちがう。
 外れる、はずれる、はずれる、はずす、ずれる、ずる。
 逸れる、それる、そらす、反れる、反らす。
 曲がる、まがる、曲げる、まげる。曲解、誤解。
 しくじる、失敗。
 誤る、あやまる、誤り、あやまり、過ち、あやまち。

 合う、合っている、正しい、正す。修正、訂正、改正。

 本物、偽物・贋物、偽者、模造品。
 真偽、正誤。

 何から逸れないのでしょう? 何から違(たが)わないのでしょう? 何から外れないのでしょう? 何からずれないのでしょう? 

 何に合わせるのでしょう? 何に沿っていればいいのでしょう? 

決まりに沿う

 決まり、決まったもの、決めたものから、逸れない。外れない。違わない。
 決まり、決まったもの、決めたものに、合わせる。沿っている。

 沿うべきもの、合わせるべきものは、動かないものでなければなりません。動くものに合わせたり、沿うのはきわめて難しいからです。

 ふらふらしたもの、不安定なもの、揺らぐもの、ぶれるもの、まちまちなものでは、駄目なのです。

 そりゃあ、そうでしょうね。

 でも、そんなものって自然界にあるでしょうか?

 私が見たところでは、自然界は動くもの、揺らぐもの、移り変わるもの、予測不能なもの、不確定なものに満ち満ちています。万物流転です。

――その動きには規則性があるのよ。じつは決まっているの。不安定に見えるだけで、じつは安定した動きに沿っているのよ。


見えないもの、見えなくて動かないもの

 見えないし、五感で知覚できないけど、動かないものがある。それが世界を、いや宇宙を支配している。普遍的で客観的な真実や真理や法則があるの。

 ほんまかいな、そうかいな。で? 

 とにかく、そうなのよ。信じてちょうだい。悪い目にはあわせないから。信じる者は救われるって言うでしょ?

(見えないし体感できないけど、信じるしかないもの。私はそういうものに嫌悪感を覚えます。私は信じるのではなく自分で考えたいのです。信じている振りはできます。「信じています」と言うこともできます。これまでそうしてきたことは何度もあります。でも、心を売り渡すことはできません。ここでは本音の話をしています。)

 見えないし、体感できなくて、動かないものがあるから、それに合わせましょう。それからそれないようにしましょう。それにそった考え方をするのです――。

 嫌な予感がします。私がこれまで避けてきたもののようです。

 論理とか数学とか公式とか法則とか科学とか、そういうものの匂い(臭いとは書きません)に似ています。

 論理とか数学とか法則とか科学はいいのです。げんに私は物理学が好きで独学で勉強しています(笑われそうですが、言葉を考えるときに自分なりに物理学のモデルを意識する場合があります)。

 そういう領域自体はいいのですが、そういう領域「っぽさ」とか、そういう領域「らしさ」が嫌なのです。

 どういうことかと申しますと、客観的で普遍的だから万能だ、信じないのは変だみたいな、その領域の枠と限界性を考慮しない議論に傾くことです。こうした傾向は、研究者よりも部外者に多い気がします。

 とはいえ、そうした領域は避けてきたのでよく知りません。ただ端で見たことはあります。たとえば、証明とか立証とか、式を立てるとか、証明するとか、そんな言い回しを覚えています。

 ある領域の枠組みと限界性を見るのには、使用されているレトリックを検討するのがもっとも有効だからです。とくに注目すべきなのは、どのような置き換えがおこなわれているか(何が何に置き換えられているか)です。どんな学問でも置き換えという作業があります。そもそも数や言葉を用いての記述や、数式やグラフや図解は置き換えです。

 たとえば、数学でも、ある対象(事象)を処理するために、置き換えが頻繁におこなわれていますが、これが数学のレトリックです。どんな思考も置き換えが基本になります。したがって知覚(おもに視覚)の制約を受けることになります。普遍性や客観性はそうした制約があっての話なのです。

 いま述べたのは、いかにもド文系っぽい発想だという気もします。きっと、そうなのでしょう。


言葉の綾、レトリック

 証明は明らかにするのでしょうか。立証するとは、立てるのでしょうか。式を立てるというくらいですから、立てるのでしょうね。

 そういう言葉の綾とかレトリックは、形であり模様ですから目に見えます。

 私は私らしく、言葉の綾を見ていきます。

 立てるという言い回しにめちゃくちゃ感じるものがあります。分かりやすいのです。

 だいたいが、立てたり、立つのは、見せたいからなのです。

「見て見て」、「すごいっしょ?」、「どや!」、「こんなものですわ」、「もっと立てましょうか?」

 見るほうも、同調します。褒め称えます。

「すごい!」、「お見事」、「たくましいわ」、「厳かですね」、「す、素敵すぎます」、「参りました」

 私に言わせると、不自然なのです。立てて見せて、それに感動するなんて、そんな演出されたギャグに私には付きあえません。

 やらせに同調するとか、マウント行為への忖度は嫌なのです。

 証明みたいに明るくするのも、だいたいは見せたいし、見たいから明るくします。当り前ですよね。暗いほうがいいという人もいますけど……。真っ暗は困りますが、ほの暗いほうが適度に想像力を刺激されて個人的には好きです。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。

 そもそも、ああいうものって陰でこっそりしませんか? 明かりの煌々とついたところでなんて恥ずかしくてできません。赤裸々とか、真っ昼間とか、あからさまとか、私は苦手ですね、はい。

 思うように行動できません。ええ、そうですとも。やっぱり薄暗いところがいいです。そのものずばりとか、包み隠さずぜんぶよりも、ちょとだけ派です。

 話が逸れてきました。逸れるほうが好きなんです。それたり、ずれたり、はずれたり、タイミングをはずしたり、ちょっとふざけてまげたり、あやまちをおかすほうが、よくないですか?


千鳥足でふらふら気ままに

 目に見えなくて、動かなくて、ぶれない筋。それに沿って、逸れないように、従う、導かれる。

 証明によって導かれるなんていう、言い回しというかレトリックがありますが、導かれるんですね。導かれる、リードされる……。嫌ですね。自分で気ままにいきたいです。

 リードする人、リーダーなんて興味はないですね。そもそも代理でしょう? それが何か代理じゃなくなっていませんか? 私たちが選んだ代理がお代理さまみたいに偉くなって、ひな壇を作っているなんていうギャグには付きあえません。

 見えないものに導かれるなんて、考えようによっては、あれですけど、導かれるというのが嫌です。あれよあれよと運ばれるのは楽ちんでいいですよ。

 でも、命令される感じは嫌なんです。

 それに沿わないと、駄目なんでしょう? 動かないのですから、杓子定規ということじゃないですか。窮屈です。私には無理。例外を認めない感じですね。無理です。

 プログラミングみたいに融通がきかないんでしょ? 私はあれが苦手で、できれば無縁で生きていたいです。これまでがそうでしたから、これからもそうでありたいです。この先はそれほど長くはないみたいですが、だからこそ、ふらふら千鳥足でいたいです。


固定化を指向するもの

 分かりますよ。

 プログラミングみたいな融通のきかない、つまりぶらぶらふらふらを認めない、例外を認めない論理とか公式とか法則に従って、動いている機械や仕組みや計器やシステムがあるらしいのですよね。

 こちらが、その機械や仕組みに合わせて杓子定規にしないと正しく作動しないのですよね? それはそれでいいのです。私だってその恩恵にあずかって生きていることは承知しています。

 でも、言葉の世界にまで、そういう窮屈な理屈を持ち込まないでほしいのです。言葉の世界には言葉の世界の論理(比喩です)と文法(比喩です)があるのです。それを理系的な論理とやらに従わせるのは、それこそ非論理的ではないでしょうか。

 別の世界なんです。言葉の世界と数(すう・かず)や公式の世界とは別個のものなんです。

 さらにいうと、現実の世界(そんなものがあるとして)、思いの世界(そんなものがあるとして)、数学や科学の世界(そんなものがあるとして)、言葉の世界(そんなものがあるとして)は、それぞれ別物だと思うのです。それぞれに独自の論理(比喩です)と文法(比喩です)があるのです。

 思うだけですけど。

 もっと飛躍しますね。しかも、論理的な展開はしません(これまでもそうでしたけど)、というかできませんので、この先は直感を頼りに連想で書きます。

 見えなくて動かない決まりというのは、固定化を指向する名詞に似ています。見えて動きまくっているものというのは、動詞に似ています。

 名詞的なものは(名詞じゃありませんよ)自然界になくて――見えなくて、でもいいです――、自然界は動詞的なものに満ち満ちている気がします。

 名詞は、不自然で人工的です。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいのではないでしょうか。観念だからです。ないのです。だから、見えません。あるものないもの、見えるもの見えないもの見境なく「名づけた」結果なのです。その意味で、ひょっとすると名詞は不自然どころか反自然なのかもしれません。
 動詞は、自然の状態であり常態であると思います。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいですが、世界と宇宙は動詞的なものに満ちている気がします。動詞も名づけられたものであることはまちがいありません。でも、名詞と違って動きや様態に注目している点において、動詞の向いている方向は、名詞の抽象性とは異なる気がします。比喩的に言うと動詞は地に足が付いているのです(名詞は出不精で動きたがらない)。

(拙文「空から降ってくる言葉」より引用)


杓子定規なものの不自然さ

 名詞の不自然さは、論理の不自然さと重なって、私には感じられます。論理の不自然さというのは、文字の異物感と重なって私には見えるんです。

 文字の異物感は、人の作るもので自然に帰らないものが圧倒的に四角い形をしている異和感(違和感ではなく)にも似ています。

 とうとつにこの星に現れたもののような感じと言えばいいのでしょうか。地球外的な異物性と言えばいいのでしょうか。不自然であり、反自然にも思えるほどです。

 表情、身振りという視覚言語と、話し言葉(音声)と書き言葉(文字)という四つを私は言葉として考えています。

 表情、身振り、音声は、発せられた瞬間に消えますが、文字だけが残ります。消さない限り居座るのです。これが私には驚きです。不思議でなりません。

 要するに、不思議なだけです。訳が分からないだけなんです。

 間違う、誤る、たがう、違う、ちがう。
 外れる、はずれる、はずれる、はずす、ずれる、ずる。
 逸れる、それる、そらす、反れる、反らす。
 曲がる、まがる、曲げる、まげる。曲解、誤解。
 しくじる、失敗。
 誤る、あやまる、誤り、あやまり、過ち、あやまち。

 こうした言葉のイメージが自然であり、私にはしっくりします。

 その一方で、

 合う、合っている、正しい、正す。修正、訂正、改正

 というのは、嘘くさいです。

 何に合わせるのでしょう? 正しいって窮屈じゃないですか? 杓子定規なものに従いたくはありません。だいいち、不自然じゃないですか。杓子定規なものが自然界にありますか? 体感できますか? 

 そもそも「正しい」って決まっているんですか? 

 誰かが決めたのなら、ノーサンキューです。「決まっている」のでしたら、考えなくてもそうなっているという意味でしょうから、何とも言えません。

 見えなくて、体感できなくて、なすすべがないものに興味はないですね。そんなものがあったとしても、わざわざ言葉にしたいとも思いません。仮にそんなものがあるとして、名づけて、手なずけられるわけがありません。私なら、保留します。放っておくという意味です。

 いまはそれしか言えません。

 それない、ぶれない、あやまらない――。

 似てるわ。

 何かや誰かに似ているはさておき、そんなものは自然界にはありません。不自然です。少なくとも、私は見たことも体感したこともありません。理想として求めたいとも思わないです。

 やっぱり嫌です。嫌いです。

 人それぞれですけど。

 今回の記事は、「なすがまま、されるがまま」という記事の続編に当たります。

 ひょっとすると、人は「それない、ぶれない、あやまらない」もののなすがまま、されるがままを望んでいるのかもしれません。

 ただし、そこまで言ってしまうと身も蓋もなくなるので、もう少し考えてみます。

 レトリックの多いとりとめのない文章にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。こういう理系の領域がらみの、ややこしいテーマのときには、レトリックを駆使するしかありません。

 私は、レトリックこそが、「それない、ぶれない、あやまらないもの」に対抗できる手段ではないかと本気で信じているのです。