星野廉の日記

うつせみのあなたに

まだらであることの、もどかしさと、ままならさについて

スクロール

 もどかしい、ままならない、ままに、まにまに、まにま、まんま、まま、ま、まあら、まばら、まだら、まれ、むら、ぶち、ふ。

 noteで記事を書いていて、もどかしい思いをすることがあります。パソコンの画面を見ながらキーボードを叩いて書いているのですが、ある程度の長さになると、前に書いたところを見たり、全体を見るためにスクロールしなければならなくなります。

 大学ノートに書くときにはページをめくらなければなりません。本を読むときにもめくります。原稿用紙とか閉じた書類も、めくります。読み書きをするときに、めくっていたのが、いつの間にかスクロールするようになりました。

「スクロールする」は「スライドする」ともいうようです。このscrollはもともと「巻く」とか「巻物」だったことが、英和辞典を読むとわかります。よく見るとscrollにはrollという文字が見えますね。

  rollにも「巻物」という意味があり、「転がす、転げる、転がる」という動詞としても使われます。ローラー(roller)もこれから来ています。

 昔の書物は、文字の書かれた石板や紙や竹でできたものを「閉じる」や「重ねる」や「めくる」のほかに、「巻く」(石はできないみたいですけど)という形で扱い保存してきたそうです。

 そう考えるとスクロールは「巻く」にもどったといえそうで、なかなか興味深い話だと思います。


ワープロ専用機

 話を、もどかしいにもどします。

 もどかしいのです。長い文章になるほど、スクロールを頻繁にしないと書けないし読めないのです。テキストエディタの文書もそうです。

 最近記憶力が衰えてきて以前のような長い文章が書けなくなりました。全体が把握できなくなるからです。体調が悪かったり熱っぽいとよけいに視野が狭まります。この視野というのは、文字を把握できる範囲くらいの意味です。いまのところ、眼科的な意味での視野には問題はなさそうです。有り難い。

 ふと思ったというか、既視感を覚えました。自分の書いたものが把握できないもどかしさ――。

 あれです。思いだしました。ワープロ専用機です。

 初期のワープロ専用機は、とてももどかしい機械でした。なにしろ、ほんの数行しか表示されない小さな液晶表示パネルがあっただけで、自分が書いている文章が見えないのです。印刷してみないと全体が確認できないという意味です。

 その表示パネルがしだいに大きくなっていったので、仕方なく買い換えていました。

 もどかしいですよ。この記事の一行しか表示されないディスプレイを想像してみてください。読みにくいですよね。文章が頭に入りません。人が文章を読むときには、その前後を見ながら読んでいるようです。

 まして自分が書くとなったら、たとえ自分が書いた文章でも、全体が見えないと混乱するし、だいいち不安でしょうね。もどかしいし、ままならないでしょうね。


まだら、まばら

 いまの私の記憶が、そんな感じなのです。極端にいうとですけど、自分の記憶とか認識とかがまだらとかまばらに感じられるのです。グラデーションとかモザイクともいえるかもしれません。あ、まだらだけではなく、ぼやけてもいますね。ぼやけるやぼけるについては、またいつか書こうと思います。

 かつて『機械状無意識』(フェリックス・ガタリ著/高岡幸一訳)というすごくかっこいいタイトルの本があり、買って読んだのですが、さっぱりわかりませんでした。でも、そのタイトルにぞっこん惚れてしまいました。根がミーハーなのです。

叢書・ウニベルシタス 機械状無意識—スキゾ分析
失われた時を求めて』の解釈に、抽象機械・アジャンスマンリゾーム・横断性等々独自の〈機械状学〉の諸工具を駆使し〈スキゾ分
www.kinokuniya.co.jp

 いまの私の記憶は「まだら状意識」という感じです。まだら状意識の下に「まだら状無意識」があるのかもしれません。この言葉を見ると、なんだがイメージが湧いてきてわくわくします。

 で、また、ふいに思ったのですけど、このまだらな意識というか現実感のもどかしさは、目隠しをした複数の人に象を触らせるという話に似ている気がします。鼻、胴体、足、尻尾を触った人が、それぞれ異なった印象(この象は像と同じく形という意味らしいのですけど、奇しくも象ですね)を述べるという例の話です。

 で、またまた、思いだしたのですけど、レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』(村上春樹訳)という短編で出てくる、盲人に大聖堂がどんなものかを説明する話とも似ています。大聖堂を見たことがない盲人のもどかしさ、その盲人に大聖堂について伝えようとする「私」のもどかしさ、この作品を読む者の味わうもどかしさ。

村上春樹翻訳ライブラリー 大聖堂
表題作に加え、「ぼくが電話をかけている場所」「ささやかだけれど、役にたつこと」ほか、一級の文学としての深みと品位をそなえた
www.kinokuniya.co.jp

 言葉で書かれた文章というものを読むもどかしさとままならさは、そもそも人の意識(知覚)と無意識(思い)がまだら状でありまばらであるからではないでしょうか。こんなふうに私は短絡しないではいられません。

 さらにいうなら、現実、思い、夢、言葉の使用にまつわるもどかしさとままならさの底には、このまだらな人間存在のありようがあるのではないでしょうか。

 また、障がい、老化、病気、体調、気分、こういったものとまだらも大きくかかわっている気がします。どれも、濃淡が、グラデーション、かたよりがあって、とりとめがなく、ままならないものばかりです。そのあらわれようが、まとまっていたり、整然としていないのです。

 それにしても、まだらがまだらについて思考するなんて、ギャグみたいな話ですね。


ままならさを感じる自分

 誰もが経験する可能性のある障がいや病気(精神疾患を含みます)や老化を想像すると、 

 ままならないですね。ひょっとすると、自分もじゃないでしょうか。自分って、ままならないですよね? 自分の体、自分の気持ち、自分の性格、自分の機嫌。

(拙文「猫も杓子も」より引用)
という感じがイメージできるのではないでしょうか? 自分に備わっている、さまざまな機能が失われたり鈍化していくというイメージです。

 ひょっとすると、年を取ったり、障がいや病気にみまわれていなくても、「自分のままならさ」を感じることが、誰にでもあるのかもしれません。

「自分のままならさ」を感じる自分って何でしょう?

 体がうまくうごかなかったり、病気がなかなか治らなかったり、自分の感情をコントロールできなかったり、気分に左右されたり、自分の性格を変えたいと思ったりする場合、その「ままならさ」を意識する自分って何なのでしょう? 脳ですか? 心ですか? 精神ですか? 魂ですか? 心理ですか? 意識ですか?

 答えは出そうもありません。

「自分のままならさ」を感じる自分って何でしょう? 「自分と何か?」の答えが出ないと同様に、答えは出ない気がします。

 自分とは外だからです。正確にいえば、自分とは内にある外なのではないでしょうか。

 ままならないものを、外にある外と呼ぶ。外にあるから外は、思いどおりにあやつれない、という意味で、ままならない。

 内にあり内であるはずの自分が、ままならない。ままならないと感じる自分も、ままならない。ままならないものを、外にある外と呼ぶのなら、内にあり内であるはずの自分は、実は外ではないか。自分とは、内にある外なのではないか。

 言葉の綾に入りこむしかありません。言葉の「模様・紋様・文様・形・かた・象」をいじったところで、何にもたどり着けない気がします。そもそも、あれは「何か」にたどり着くためではなく、ひたすら、となえ、なぞるためのものではなかったでしょうか。

 かいてしるしたり、それをよんだり、さらには、のこしてためたり、めくったりするようになったあたりから、それていったのではないでしょうか。


ままならないものは遠隔操作するしかない

「思いどおりにできない」のであれば、「思いどおりにできる」と言葉で言えばいい。これが言葉をいじることであり、言葉をあやつることです。うまいへたはありますが、言葉をいじったりあやつったりするのはある程度できます。比較的簡単です。

 とはいえ、「思いどおりにできない」状況は変わりません。こういう状況を「外にある外」と呼びましょう。これはたとえです。家の内(なか)にいて、外のものを思いどおりにできない状況を想像してみてください。

 想像するとは思うことです。

「思いどおりにできない」のであれば、「思いどおりにできる」と思ってみてください。これが思いをいじることであり、思いをあやつることですが、これは難しいです。思いが思いどおりにできないものだからです。夢が思いどおりにならないのと同じです。

 思いどおりにならない、つまりままならないものは、思いどおりになるものに置き換えていじったりあやつるしかありません。置き換えるのです。代わりとか代理をいじったりあやつるのです。

 遠隔操作に似ていませんか? たとえば、画面を見ながら、遠くにあるものをキーボーとかハンドルみたいなもので操作する仕組みのことです。広くおこなわれていますね。人のやっていることは、ほとんどが遠隔操作です。

 車の運転も自力でやっているわけではありません。代理を使っているのです。パソコンやスマホでの文字入力もそうです。ゲームの操作もそうです。テレビという仕組みもそうです。望遠鏡や顕微鏡を使っての作業もそうでしょうね。

 対象が遠くにあっても近くにあっても、大きくても小さくても、代理を使う作業であれば、遠隔操作です。間接操作みたいな感じの遠隔操作といいましょうか。

 数学なんて、遠隔操作だと思います。何しろ抽象的なものを相手にして、それをいじったりあやつったりした気分になっているのですから。それが有効であれば当たりであり、当たらないとハズレです。つまり賭けているのです。

 科学技術とか学問の根底には遠隔操作があります。言葉とか記号とか数字とか代理を使うという意味です。

 遠隔操作は賭けなのです。当たり外れがあるという意味です。そりゃあ、そうでしょうね。代わりを使っているわけですから、うまくいくかいかないかがあるのは当然です。そもそも代わりを使わなくても、人が現実を相手にいじったりあやつる作業をすれば、当たり外れはありそうです。成功と失敗です。

 成功と失敗も程度の問題、つまりグラデーションでしょうね。まだらであり、まばらなのです。いじったりあやつって、そこそこの成果があがればよしとするなんて、よくあります。

 遠隔操作として、上で数学をあげましたが、私は数学が大の苦手です。誰でもやっている遠隔操作として、言葉をいじることがあります。言葉をいじることで現実のシミュレーションをやっていると考えることもできそうです。シミュレーションとは遠隔操作ではないでしょうか。

 ところで、もどかしい遠隔操作(えんかくそうさ)と隔靴掻痒(かっかそうよう)って、語感(意味されるもの)と字面(意味するもの)が似ていませんか? まさにシニフィエシニフィアンの擬態というかシンクロみたいじゃないですか。

 遠隔操作かっかそうよう=隔靴掻痒えんかくそうさという感じ。あら、不思議。言葉の綾フィギュール・figure、恐るべし。

※冗談はさておき、『フィギュール』(ジェラール・ジュネット著)はとても勉強になるいい本です。お薦めします。

『フィギュールⅠ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
紀伊國屋書店で購入 フランスの批評家は自らの批評原理をあらわす言葉を評論集の総題にすることがすくなくない。ヴァレリーの『
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『フィギュールⅡ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
紀伊國屋書店で購入 1969年に刊行されたジュネットの第二評論集である。『フィギュールⅠ』から3年しかたっていないが、方
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代わりのものをいじるしかない

 ここまで書いてきたことを簡単にまとめたいのですが、たとえるのがよさそうです。つまり別の話に置き換えてみます。代わりを使うのです。

 あなたはおりの中にいます。おりの外にはりんごが一個あります。あなたはお腹がペコペコです。りんごが食べたくて仕方ないのですが、おりの外にあって手が届きません。

 どうしますか?

「りんごが食べたい」と叫ぶのも一つの手でしょう。言葉にすることでいくぶん気持ちが収まるかもしれません。収まらないかもしれません。言葉にするのは賭けなのです。

「私はりんごを食べている」というお話とか詩を作るのもいいでしょう。りんごを食べているさまを思いうかべて言葉にするのです。思いうかべるだけよりも、ましかもしれません。空腹が高まるだけかもしれません。言葉にするのは賭けなのです。

 どんなにいじろうとしてもままならない現実を、ある程度いじることができる言葉をいじることでいじった気分になれるとすれば、これが言葉の有り難いところかもしれません。

        *

 言葉にしているうちに眠くなって、そのままおりの中で居眠りをしたとします。おりの外にあるりんごのことが頭にあって、りんごを食べている夢を見るかもしれません。夢ですからリアルです。

 鮮やかな赤いりんごの色が見えて、匂いや手触りや舌触りや味がするかもしれません。さくさくと歯で噛む音が聞こえるかもしれません。お腹がふくれるかもしれません。

 ぜんぜんそんな夢を見ないとか、オオカミに追いかけられた夢を見るかもしれません。どんな夢を見るかも賭けです。

 賭け賭けとさかんに書いていますが、現実とか人生は偶然性が立ちあらわれだと私が考えているからなのです。ごめんなさい。もう少しお付き合いくださればうれしいです。

        *

 言葉も頼りにならない、夢からも覚めたとなれば、空腹とたたかうしかありません。おりの向こうの目の前にりんごがあるのにです。

 お腹がどんどん空いてきます。りんごが食べたい。おりの向こうに行きたい。思いだけがつのります。

 どうしましょう?

 お腹が減るのは仕方ありません。体は思いどおりになりません。体は自分の一部ではありますが、ままならないものです。ままならないのは外の現実だけでなく、内である体もままならないようです。空腹のために体が震えてきました。体はままならないものです。

 気が遠くなりそうです。気が遠くなるのは体でしょうか? 心でしょうか? 意識でしょうか? そんなことを考える余裕なんてありません。生きていることは、ままならないことのようです。

 食べたい気持ちを抑えましょう。食べたいというままならない思いを抑えましょう。

 食べたい。食べたい。食べたい。食べて気持よくなりたい。

 この思いは収まりません。思いはままならないもののようです。

 食べたい、食べたい、食べたい。

 この思いをかかえながら、いつか無くなるのでしょうか。無くなったあとにも、この思いは残るのでしょうか。そうであれば、あの世もままらないという理屈になります。

 食べたい食べたい食べたい。たいたいたい。

 え? 悟りですか? 往生ですか? 天国ですか? それって言葉じゃないでしょうか(お互いに見たことも経験したこともない事象について、言葉だけをたよりにしながら、その実体を前提にしたようなお話をするなんて、お付き合いしかねるという意味です)。言葉が外と内の両面を備えてなんぼであるとするなら、無くなったときには、物を持って行けませんから、たぶん言葉もない気がします。

 思いが残り、その思いは持って行ける、ですか? 思いはままならないもののようですけど、それをどこかへ持っていくのですか? ままならないものにそんなに執着するなんて、それって虫のいい話というか、欲深くはありませんか? それとも、もっと気持よくなりたいのですか? 自分だけで? 欲張るのはやめませんか?

 生意気を言ってごめんなさい。私の悪い癖です。


『魂の日』

 話をもどします。この記事で、いちばん言いたかったのは、ままならないと感じる自分がいるらしいということなのです。

 このところ古井由吉の小説やエッセイばかりを読んでいます。

 古井の文章を読んでいると、ままならないとか、ままならないと感じる自分という言葉やイメージが浮かびます。浮かぶのが頭なのか心なのか脳なのか意識なのかわかりません。

 そもそも自分とか思いとかいったものが不明なのが、古井の書いた文章の世界なのです。その不明とか境とかいったイメージをしきりに感じます。

 人が生きていくとき感じるままならないものはたくさんあります。数えきれないとか無数という言い方をしてもいいでしょう。生きていること自体がままならないと同義だいう気がします。

 ままならないと感じる自分とは何か? 体なのか、心なのか? 

 ままならないと感じさせる対象が無数にあるのなら、感じる自分も無数にあるのではないでしょうか? 無数というよりも常に移りかわっているのかもしれません。

 ままならないと感じさせる対象の数というよりも、ままならないという状況やありようが、人においては常に移りかわっているのかもしれません。このありようというのは、体言的ではなく用言的であるというたとえも可能かと思います。

 移りかわる状況やありように応じて移りかわる、まだらな自分。もしそんな状況やありようがあるのなら、自分という言葉やイメージではすくえないものだという気がします(まだらはすかすかでもあるのです)。自他を超えているとか、自他が不明であるという感じですけど、これも言葉でありイメージであって、遠隔操作をしている以上、どこにもたどり着けないみたいです。

 そういうたどり着けなさを感じるのが、古井由吉の文章なのです。少なくとも私にとってはそうです。

 いまもっともスリリングに思えるのが古井の『魂の日』という作品集です。これは古井の病床記であり闘病記でもあります。では、読書にもどります。

 散漫で、まさにまだらな文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。