星野廉の日記

うつせみのあなたに

世界にシンクロする

動作と表情と言葉にシンクロする

 寝る・横たわる、座る・座りこむ。

 ところで、これまでにたくさんの人によって繰りかえされてきた抗議の動作と行動は、届いたのでしょうか、通じたのでしょうか。

 そもそも動作や身振りや表情は、届くのでしょうか、通じるのでしょうか?

(拙文「意思表示としての動作」より引用)


 私たちは、知らず知らずのうちに、同じような動作や身振りや仕草や表情をしている気がします。

 しかも世界中で太古から繰りかえされてきた、動作や身振りや表情なのです。

 音声や動作や身振りや表情はヒトだけのものではありません。

 あくびを考えてみてください。ワンコだってニャンコだってハムスターだってあくびをします。サルやゴリラだと、しかめっ面もします。

 四つ足で立つ、四つ足で歩く、二つ足で立つ、二つ足で歩く、寄っかかる、座る、腰かける、走る、投げる、跳ぶ、泳ぐ、這い回る、体を掻く。

 ヒトに特権的な動作に見える「立つ」に注目すると、鳥が二足歩行できることに気づきます。

 言葉が通じる相手であれば、言葉と言葉以外の言葉――身振り、仕草、表情(目、眉、口、鼻、顎や顔の筋肉の動き)、音声(叫ぶ、泣く、うめくなど)――、言葉が通じない相手であれば、言葉以外の言葉。

さわる・さわられる、ふれる・ふれられる、おす・おされる、なでる・なでられる、さする・さすられる(こする・こすられる)、あてる・あてられる、つねる・つねられる、ひっかく・ひっかかれる、たたく・たたかれる、だく・だかれる。

(中略)

 いやし、安らぎ、怒り、悲しみ、よろこび、楽しさ、いらいら、もどかしさ、ままならさ、苦しみ、しあわせ、安心感、ただいっしょにいるという充実感。言葉にならない感情。

 半年だけいっしょに暮らした犬のことを思い出します。言葉ではない言葉のやり取りがたくさんたくさんありました。こちらが話し言葉で話しかけても、それが相手に言葉として伝わっている保証はありません。

 それでもこっちは伝わっていると勝手に思うこともありました。後付けで考えると、言葉以外の言葉も、外にあって、外から来るものなのですね。自分の中に入るのかもしれませんが、それは必ずしも思いどおりにならないという意味では、外なんです。

(拙文「言葉ではない言葉」より引用) 

 生き物の最大の目的とされている生殖を考えてみましょう。子孫を残し殖やすために、鳴き、叫び、見つめ、耳を傾け、嗅ぎ、触れあい、動き、探し、獲り、食べ、飲み、戦い、競い……。

 ヒトを含む生き物たちは互いに同期しているのではないでしょうか。

 私は詳しくないので立ち入れませんが、全生物が地理学的レベル、生物学的レベル、遺伝子的レベルで、シンクロし合っているような気がします。

 生き物はこの星レベルで互いに同期している。地球レベルで互いにシンクロしている。そう言ってもいいのではないでしょうか。

 

真似ないで真似ている

 ヒトの目に見えるレベルで言えば、生き物たちは動作や身振りや姿勢や表情にシンクロしているのです。

 まるでお互いに見て真似し合っているように見えますが、まさかそれはないでしょう。ありえません。

 同族の同集団内なら、親やまわりを真似て学習するというのはありえますが、異族の異集団同士でそっくりなことをしているのは説明がつきそうにありません。

 こういうことには、諸説ありという感じで、いろいろな分野の人がいろいろ言っているにちがいありませんが、私は私なりに考えてみたいです。

 真似ないで真似ているとしか言えないのです。

 このシンクロというか、模倣の反復というか、「似ている」の「増える」と「広がる」と「うつる」を動かしている、あるいは促し導いている「何か」を想定したくなります。

 

言葉の具象と抽象、表情と身振りの具象と抽象

 話をヒトに限定します。

 私たちは、お互いの動作や身振りや姿勢や表情にシンクロしているのです。覚えている場合もあるでしょうが、誰を真似たかはたいてい記憶になく不明でしょう。

 その点では言葉に似ています。言葉の習得に似ています。言語や方言を限定すれば、言葉はそっくりなものです。文字であれば同一と言えます。

 言葉は、誰もが生まれたときに、既に外にあって、外から人の中に入り、それが表現の手段という形で外に現れ出ます。必ずしも思いどおりにならないという意味ではつねに外なのです。

 言葉が、思いどおりにならない外であるというのは、どっちつかずのニュートラルなものだからではないでしょうか。ひょっとすると、言葉は自立しているのです。

 この点でも、身振りや表情は、言葉にそっくりです。

 そっくりなものをみんなで共有しているのですが、その意味やメッセージやイメージは、その時その時で変わり移ろいます。

 うつろうとはどっちつかずという意味ですから、必ずしも思いどおりにならないのです。ぜんぜん当てになりません。頼りにもしにくいです。

 人によっても、場所によっても、場合によっても、その時の気分によっても変わるし異なるでしょう。変異し変移し偏移し変位するのです。

 どっちつかず、どっちにも転ぶ。こうした性質はニュートラルであり非人称的であるとも言えるでしょう。

 人から離れているのです。人の外にあるのです。

 それでいて言葉も表情も身振りも、具象と抽象の両面を備えています。

 文字で考えてみましょう。

 文字はある意味で抽象ですから形だけでは存在できず、インクや墨や掻いた跡や画素の集まりという物質をともなうことによって、はじめて目に見えるのです。

 電子的な複製の処理については知りませんが、文字として見る場合には、物質でもなければならないと言えます。文字には抽象と物質の両面があるということですね。これが書き言葉つまり文字の二面性です。

 話し言葉つまり音声も、声帯の振動、空気の振動、鼓膜の振動という形で伝わるわけですから、声帯、空気、鼓膜という物質と、振動や波という抽象の両面があると言えそうです。これが話し言葉つまり音声の二面性です。

 表情と身振りは広義の視覚言語です。様子つまり形を目で見て認識します。

 顔を含む身体という具象があり、その動きとしての形つまり抽象が視覚的に認識されるわけです。

 言葉においても、表情と身振りにおいても、意味とメッセージは、具象と抽象の織りなすからみ合いとして、人に立ちあらわれるのではないでしょうか。

 

抽象、具象、生命

 言葉と表情と身振りがヒトを含む生き物を離れていながらも、つまり生き物の外にありながら、人の中に入ったり出たりする。そして、人の思いどおりにならないニュートラルなものとしてある。

 たぶん、それは具象と抽象の二面を備えた言葉と表情と身振りの抽象のなせるわざだという気がします。

 だからシンクロの対象にもなるのであり、シンクロそのものでもあるのではないでしょうか。

 情報としての複製拡散と、生殖としての複製拡散も、その抽象の側面があって可能なのではないでしょうか。

 ヒトと生き物たちという、具象としての生命体が消えたとき、抽象もまた消えるのだろう。

 言い換えると、抽象は具象を場として、形をあらわすのではないか。ただし、その具象という場は物であってはならず、生命でなければならない。

 これは、生命という具象を遺伝子レベルでの情報という抽象に置き換えてみると分かりやすいかもしれません。

 いまはそんなふうに考えています。

 

二つの横たわるのあいだで

 ヒトは生まれ落ちて横たわり、やがて立ち、歩き、座り、再び横たわって亡くなる。

 最初の横たわると最後の横たわるという動作のあいだに、さまざまな動作や表情があるはずです。無数の言葉があるはずです。

 世界中で人びとが、それらの動作と表情と言葉にシンクロする。シンクロが時空をまたいで繰りかえされる。これが歴史です。

 人はそれらを真似たり、無意識にしたり、それらに何かの意味やメッセージを込めてしたりするのでしょう。

 誰かの動作や表情を見て、何かを受け取ったり、その意味を考えたり、迷ったり、受け損ねたり、見過ごしたり、無視したりするのでしょう。

 

届いていますか、通じていますか?


 あなたの望み、願い、祈りは、届いているでしょうか? 通じていますか?

 というか、誰に届くのでしょう? 何に届いて通じることがあるのでしょう?

 あなたの言葉、表情、身振りや手振りは、届いているのでしょうか? 通じていますか?

 あなたは、誰かの送ってくれているものを受け取っていますか? 受けとり損ねたり、そもそも見ていなかったり、無視したり、気づかなかったりしませんか?

 あなたのしているその仕草はどういう意味なのでしょう。何となくですか? 考えたこともない、ですか? 「意味って何?」ですか?

 

道具ではない、しもべや奴隷ではない

 それはそっくりです。みんながそっくりなことをしています。そっくりなものを口にしたり文字にしています。

 それは誰もが生まれたときに、既に外にあって、外から人の中に入り、それが表現の手段という形で外に現れ出ます。必ずしも思いどおりにならないという意味ではつねに外なのです。

 それが、思いどおりにならない外であるというのは、どっちつかずのニュートラルなものだからではないでしょうか。ひょっとすると、それは自立しているのです。

 人の道具でも、しもべでも、ましてや奴隷でもない自立した存在なのではないでしょうか。

 そっくりなものをみんなで共有しているのですが、その意味やメッセージやイメージは、その時その時で変わり移ろいます。

 うつろうとはどっちつかずという意味ですから、必ずしも思いどおりにならないのです。ぜんぜん当てになりません。頼りにもしにくいのです。

 道具でも奴隷でもないからです。

 

道具ではなく友だち

 そっくりなのです。でも、それが間近にあったり、自分の中にあるときには、そっくりには見えません。そっくりにも思えません。

 見えたり見えなかったりする、そっくり。

 自分の中にあったり、外にあったりする、そっくり。

 そっくりは、いまもあなたの中にあるのです。たぶん、いるのです。これからもいるでしょう。

 あなたのいちばん古い友だちです。私たちみんなの古くからの友だちです。

 仲良くしましょう。さいごまでいてくれますよ。あなたのさいごまで、私たちのさいごまで。

 最後に大好きな歌を紹介します。

 歌詞を知ったとき、そんな虫のいい話があるのかとか、そんなに軽々しく請け合っていいものかとか、そんな素晴らしい友だちがいるだろうかと思ったのを覚えています。

 いま改めて聞くと、これは話し言葉や書き言葉、そして身振りや表情という言葉のことではないかと思えてなりません。

 

 さいごの光景を想像します。

 言葉、表情、身振りのある光景です。

 その光景の中で、いまが消えていき、かなたがその領域を広げていく。同時に、かなたが消えていき、いまがその領域を広げていく。そこには物語も条理もないでしょう。

 いまとかなたは言葉なのです。

 人にとってもっともはかない意味とメッセージは、まっ先に消えてなくなる気がします。

 話し言葉と書き言葉が失われ、音の記憶と、音としての声の記憶と、表情の記憶と、身振りの記憶の織りなす光景です。

 ニュートラルな、つまりどっちつかずの音と形だけが、しつように、おそらく断片的に断続的に浮かんでいる。

 あえて言うなら、それはおそらく顔ではないでしょうか。