星野廉の日記

うつせみのあなたに

赤ちゃんが立つとき

生きていない物が立つとき

 生きていないものが「立つ」というのは、人や生き物にたとえているわけです。

 煙が立つ、陽炎が立つ、風が立つ、蜃気楼が立つ、茶柱が立つ、蚊柱が立つ、江頭が立つ、(人柱が立つ)、火柱が立つ、卵が立つ。

 どれも絵になります。そのもようやさまが目に映るようです。綺麗な絵も身の毛がよだつ光景もあります。

 いずれにせよ、言葉の綾と、うつつの綾とが比較的うまくからまっている感じがします。

 風のように見えないものでも、見える気がしてくるのは、言葉がイメージや想像を喚起するからにちがいありません。

 風が立つなんて、耳に綺麗に響くので、「ま、いっか」という気持ちになるのです。

 風立ちぬ。今は春。春立ちぬ、

 家が建つ。

 この言い回しは漢字を使うと「へえーっ」とか「ふーん」とか「うーむ」「で?」とか「知るか」とか「そだね」という感じでしょうか。

 しゃべっているぶんには「たつ」なので、いちいちこれを頭の中で漢字に置き換えている人はいない気がします。

 でも世の中にはいろいろな人がいますから、いても驚きはしません。

 家はたてるのであって、勝手にたちませんから、「家がたつ」は擬人化ぽい気がします。「家を建てる」は別です。

「立つ・立てる」はほぼ垂直方向への動きです。

「あの人が(は)立つ」とは言っても、「あの人の手が立つ」とは言いません。「手があがる」でしょう。

「指があがる」というと、怪我をした指があがる感じになり、垂直に指をあげることは「指を立てる」と言います。「見て見て、あの人の親指が立っている」とは言いそうですね。

「指が立つ」は擬人化なのでしょうか。どうでもいいことですね。そう言ってしまうと、この記事ぜんぶがどうでもいいことになります。

 そうなると立つ瀬がない。私の顔が立たなくなります。べつに立たなくてもいいのですけど。

赤ちゃんが立つとき

「春が立つ」はレトリック、つまり言葉の綾です。言葉からなる世界の話です。違和感を覚える人が多いだろうし、一つ間違うと荒唐無稽やナンセンスや矛盾になりえます。

「赤ちゃんが立つ」は描写とか写生と言えそうです。これをうつつの綾と呼んでみましょう。現実の世界を言葉にうつしたものです。いちおうといか、ほぼ整然として見えます。違和感を覚える人はきわめて少ないと思われます。

(拙文「ことばの綾、うつつの綾」より引用)

 赤ちゃんが立つ。

 これは言葉による描写(写生文の写生)であると同時に、現実世界では特別の意味を持ちます。つまり、

「たっち」とか「あんよ」のことです。

「お父さんが立つ」とはちょっとニュアンスが違います。変な意味に取らないでください。stand のことです。

 ところで、この文は純粋な写生になりうるのでしょうか。語弊というか垢がつきまとうのです。

 それに対して「赤ちゃんが立つ」は写生だけではなく、おめでたい、祝福すべき出来事だという意味です。いい意味での「垢」がつくのです。

「立つ」はただ垂直の動きを示すだけではないようです。語弊や垢がありますが、使い方によっては語弊や垢を招くという意味です。

 文字どおりに取れない、言葉どおりに取れないということですから、一種の比喩みたいにレトリックになってしまう。言葉の綾になってしまうとも言えます。

「立つ」はヒトにとって特別な動作のようです。

 なにしろ、聞くところによると、おさるさんに近かった大昔のヒトは四つ足歩行をしていたり、木や枝につかまって移動したり休んでいたり、横になっていたらしいのです。

 みなさんはいま、どんな格好をなさっていますか? 座っていたり、横になっていたり、何かに寄っかかっているのではないでしょうか。

 直立不動の方は少ないと想像しています。直立不動は、意外とつらいものです。歩いているほうがまだましです。

 立つには、力が要ります。筋力も要るし、入れた力を維持しなければなりません。

 緊張もします。気が張りつめるわけです。大げさに言うと殺気立っているのです。

 立つという体勢は人にとって不自然なものだと言いたくなります。一時的な姿勢であって、いつまでも立っているなんてありえないのです。弁慶さんじゃあるまいし。いつかは倒れます。横たわります。

 行き倒れ、野垂れ死に、仰臥、往生、大往生。

 瞑目合掌。

 立っていると、あるいは立って歩いているときに覚える緊張感は、大昔のヒトの時代から蓄積された記憶から来ているのかもしれません。

 立った状態で何かをしていると、びくびくする自分の一部を感じます。襲われるかもしれない恐怖と言いましょうか。何にって、敵です。

「立つ」は非常事態なのです。そのときの人の神経は普通じゃないのです。

 いろいろな意味で。

私が立つとき

 年を取ってくると足腰が弱くなるというのは、年を取って体感して初めて分かるものである気がします。頭で分かるものではありません。

 こういうのは、今という時代だから感じるのでしょうか。昔の人はもっと足腰が強かったのではないかというイメージを持っています。

 私はストーリーや謎解きには興味がないので――両方とも人生だけで十分なのです――、どんな小説でも好きな箇所だけを断片的に何度も再読するのですが、先日次のような部分を読んでいてはっとしました。

(前略)いましも、ある老大家が、この会場に遅れて馳はせつけたところだった。
 しかし、馳せつけたという言葉は適当ではない。大家は老いている。(中略)
 大家は七十ぐらいに見えた。人びとは尊敬と阿諛あゆをまじえた笑顔でおじぎをした。
 老大家は、それに会釈えしゃくしながら、よちよちと赤ン坊のように歩いていく。
 場面は、大きな新聞社主催のカクテルパーティで、著名人が集まっている会場です。

 私が驚いたのは、「七十(歳)ぐらい」で「よちよち」とは、いまの感覚だとちょっと早いのではないかと思ったからです。

 心当たりがあるだけに、こういう部分には敏感に反応してしまうのです。たとえば、自分に年の近そうな人が歩いていると必ずその足元や歩き方に目が行きます。

 立っている姿にも密かに注目してしまうのですが、そのときの目は必ず自分と比較しています。

 上で引用したのは、松本清張作『砂の器(上)』(新潮文庫・pp.108-109)なのですが、「この作品は昭和三十六年七月光文社より刊行された。」とあります。

 当時(1961年)から高齢者の「よちよち」があったのですね。しかも七十歳くらいで。高齢者とはいえ、まだ若いですよ。それとも、そのころの七十と今の七十ではだいぶ違うのでしょうか。

 それとも運動不足のまま年を取った文化人である「老大家」を揶揄しての表現だったのでしょうか。

 いずれにせよ、複雑な気持ちになります。

描写なのかレトリックなのか

「立つ」は一筋縄ではいかない気がします。言葉どおりには取れないのです。

「語弊」というか、言葉にまとわりついた垢を感じます。

「「立つ」は「立つ」でしょ」なんて具合に文字どおり取れないニュアンスとかイメージがくっついているようだという意味です。

 詳しく言うと、「〇〇が立つ」の〇〇が生きていない物であって、擬人化っぽいレトリックを感じるだけの話にとどまらないみたいなのです。

「〇〇が立つ」の〇〇が人間である場合には、その人の年齢や立場や性別や、その人の背景のほかに、その行為がおこなわれている状況や場面によって、意味が付け加わるという感じがします。

「生後八か月の孫が立った」、「生後十か月の孫が立った」、「彼が来た。みんな一斉に立った」、「彼女は席を立った」、「お願い、席を立たないで」、「名前を呼ばれて、私は立った」

「先生が教壇に立つ」、「先生が窓際に立つ」、「患者が病室の窓際に立つ」、「崖の上に立つ」、「木の上で立つ」、「バレリーナが舞台中央に立った」、「母が台所に立つ」、「父が台所に立つ」、「こどもが台所に立つ」

 こうした例は必ずしも描写や写生ではないという意味です。かといって、レトリックとくくっていいものか、ケースバイケースなのか、べつに「立つ」だけの問題ではないのか、角を立てるのはやめて寝っ転がっていたほうがいいのか、考えすぎなのか……。

 ことばの綾とうつつの綾のあいだで揺れている気がするのです。言葉の綾はまだしも、うつつの綾なんて自分語を作って揺れていれば世話ないですけど、もう少し考えてみたいです。