星野廉の日記

うつせみのあなたに

意味が立ちあらわれるとき

赤ちゃん

 赤ちゃんを見ていると意味と無意味について考えずにはいられません。赤ちゃんの表情や仕草や声が信号に感じられるからです。

 信号というのは、前提として意味やメッセージを想定しているわけです。つまり、はらはらどきどきです。

 しかも点滅してあおることもあります。

 この泣き声はおむつを替えてほしいなのか、お乳がほしいなのか、どこかが痒いのか、痛いのか、暑いのか、それとも熱いのか? こんなふうに解読ごっこになります。

 初めてのお子さんだと心配でしょうね、不安でしょうね。解読地獄におちいる場合もありそうです。

 でも、赤ちゃんとお母さん、お父さん、その家族の人たちの様子を見ていると、赤ちゃんの発するあらゆる信号をつねに正しく受けようとしているわけではないのに気づきます。

 受け流しているように見える場合がよくあります。ほほ笑みにほほ笑み返す、ほほ笑みにしかめっ面をしてみせる、ほほ笑みをただ眺めている。泣いても知らん顔。

 それだけでいい。そこにいて笑みを浮かべているだけでいい。そこで泣いているだけでいい。そこにいるだけでいい。

 信号は解読すべきものではなく、ただそこに「いる」という、おおらかでおおまかな印として、そこに「ある」かのように見えます。

 ただ「いる」という信号として、ただ「ある」だけ。

 意味はそこにあるというより、人の中にあるのでしょう。世界が意味だらけなのではなく、人の中が意味だらけなのでしょう。

 人は自分の中でたちさわぐ「意味の立ちあらわれ」を静める術を心得ているようです。

ペット

言葉は、話し言葉つまり音声と書き言葉つまり文字だけではない。表情、仕草、身振り、五感を用いた感覚もまた言葉だ。そう思っています。

 ペットとの間での言葉は何でしょう? ペットとのあいだだから、愛だ。なんて言いそうになりましたが、この駄洒落はなかなか言えている気がします。

 言葉の通じない相手とのあいだにある愛は交流でなければなりません。一方通行であってほしくないわけです。

「ほしくない」のですから、願いです。願いでしかありません。

 自分が猫や犬と接するときに感じるのですが、擬人化は避けられないと思います。

 ヒトとヒト以外の他者(生き物や物)との接し方の基本には擬人化がある気がします。ヒトは擬人という愛し方しかできないのかもしれません。

 愛用のカバンを思わず撫でたり、靴に話しかけている自分がいます。愛おしいのです。

 話し言葉や書き言葉が通じない相手とは、表情、仕草、身振り、五感を用いた感覚を動員して、触れあい、付きあうしかありません。

 話し言葉が通じない相手との関係では、声は話し言葉ではなく、純粋な声や音声として立ちあらわれます。

 犬や猫に話しかけた場合、相手は言葉ではなく音声としてとらえているにちがいありません。

 抑揚、声の質、声の肌理、声の大きさ、声の色、声の長短。

 まだ言葉を習得していない赤ちゃんとの間でも、そうでしょう。

 ある特定の音の並びがある特定の意味やメッセージを持つ場合もあるでしょう。その限りにおいて意味が立ちあらわれている気がします。

 犬に対しての「待て」が「待て」であるかは、犬に聞いてみないと分からない気がします。聞けない以上分からない気がします。

 その点、猫はマイペースです。こちらの信号をわざと逸らしているように見えることがしょっちゅうあります。

 かまってちゃんの犬と超マイペースな猫のどちらも好きです。

 ペットという他者との付き合いもまた、意味と無意味について考えさせてくれます。

 意味とは働きかけなのだと思います。通じないかもしれない相手や対象に働きかけたとき、意味が立ちあらわれる気がします。通じないかもしれない――。その意味で賭けなのです。

言葉をいじる

 世界の意味 意味の世界
 世界の影 影の世界
 言葉の夢 夢の言葉

 私の記事のタイトルでは、上のようなパターンがありますが、もちろん故意にやっています。

 故意に偶然をやっているのです。故意に偶然を招くのです。

 いま書いた文に見られるレトリックもよく使います。撞着語法なのかもしれません。

 レトリックを分類することには興味がないので、知りません。知りたいとも思いません。

 言葉が疑似物である以上、言葉の矛盾と、その言葉が指す事物との矛盾は一致するわけがありませんから、言葉のうえで矛盾があるからと言ってそれを否定したり退ける気にはなれません。

 この点に敏感で意識的だったのがニーチェ(果敢に矛盾を文章化しました)であり、ジル・ドゥルーズ(言葉の矛盾が論理の矛盾であるのかそれとも錯覚であるのかを丹念に探りました)であり、ルイス・キャロル(戯れに矛盾を文章化してみせました)であった気がします。

 こうした問題で大切なのは、翻訳を引用したりまとめをするのではなく、自分自身の問題として母語で文章化することだと私は思います。あくまでも言葉の問題なのですから。

 シンクロにシンクロする。

 これは同語反復(トートロジー)なのでしょうか。知りません。

 同期に同期する。

 こうすると、日本語では同期生にシンクロするという意味にも取れて、おもしろいです。

 なんでこういうことをやっているのかというと、おもしろいからです。意味が立ちあらわれる瞬間に立ちあった気がしてわくわくするのです(意味が立ちさわいでいるのは自分の中なのですけど)。

 世界の意味 意味の世界

 言葉を並べ替えたときに、ふいに見えてくるその姿に息を飲むと言えば言いすぎかもしれませんが、はっとします。これが切っ掛けで記事の展開が決まります。

 自分で書いた文字なのに、自分を離れて「何か」に見える、「何か」を発してくる、「何か」を放ってくる、「何か」を話しかけてくるのです。

 それが、私にとっての「意味が立ちあらわれる」です。「現れる・表れる・顕れる・洗われる・あら、割れる」という感じ。

 意味は印象やイメージと同じで、個人的なものだと思います。多者である他者と通じるかどうかは賭けなのです。

 各人がいだく意味は、多数の他者と重なる部分もあれば、重ならない部分もあり、宙ぶらりんだという意味です。