星野廉の日記

うつせみのあなたに

私たちは同じではなく似ている

そっくりなところがそっくり

 スマホを使っている人はスマホに似てくる。
 人は自分の作るものに似てくる。人は自分が使っているものに似てくる。そっくりに似てくる。シンクロにシンクロする。同期に同期する。

(拙文「シンクロにシンクロする」より引用) 

 人の顔や姿がスマホに似てくるという意味ではありません。ただのレトリックです。

 大量生産されてどれも似ていたり同じに見えるスマホ。お店や工場でずらりと並んでいたスマホ。どれもそっくり。

 そのスマホを覗きこむ、目を細めたり、目を見開いたり、ときには笑みを浮かべる、顔をしかめることもある、やや口を開けている人もいる。

 指で画面をなぞる、スライドするのがもどかしいのか眉を寄せたり、舌打ちする人もいる。

 やや前屈みに歩きながらスマホの画面に見入る、ときどき歩を緩めたり、立ち止る。

 みんな、似たような仕草をしている。その仕草を繰りかえしている。真似し合っているように。そっくりなのです。

 そっくりなところがそっくりなのです。そっくりな点がそっくりにそっくりなのです。これもレトリックですけど。

 スマホという大量生産された製品のシンクロ振りに、それを使う人の身振りのシンクロが重なるという意味です。つまり、シンクロにシンクロする。

 スマホを使っている人はスマホに似てくるというのは、それくらいの意味です。

 スマホに限りません。車がそうです。自転車もそうです。三輪車もそうかもしれません。

 ボールペン、消しゴム、ノート、お箸、絆創膏、腕時計、下着、靴下、眼鏡、シャワー、便器、ベッド、乳母車、棺。どれも大量生産されたそっくりさんたちですが、それを使うとき、人はそれぞれそっくりな仕草や表情をします。

 ひとりひとりの顔も個性も違いますが、やることがそっくりなのです。

 ある意味で、製品に合わせているのでしょう。人に便利なように、人の都合に合わせて、そして何よりも人の体や体の一部やその動きに合わせて、商品は作られているからでしょう。

 人の体だけでなく、人の内にも合わせて作られているような気がします。内というのは、脳だったり、意識だったり、行動のパターンとか型だったり、ひょっとすると記憶もそうかもしれません。

 人が作ったものや、人が使っているものは、人に似ている気がするのです。

愛着と興味がないものには残酷になれる

 私たちにはニワトリがそっくりに見えます。これは特別な思い入れや愛着がないからでしょう。思い入れや愛着がないものはそっくりに見えます。

 ニワトリから見たら、ヒトはそっくりではないでしょうか。顔や姿ばかりでなく、仕草と表情、やることなすこと、そっくりではないでしょうか。

 興味がないからです。

 愛着や興味がないものには冷淡になれます。残酷にもなれるでしょう。もちろん、愛着と興味をいだけば、ペットにも家族にもなるでしょう。

※この部分は、ある特定の職業を批判するつもりで書いたわけではありません。どうかご理解を願います。

疑似物、疑似世界、疑似体験

 私たちは世界や森羅万象と直接的に触れあい、対することができません。知覚や言葉という代理、そして似たものを通して触れるわけです。

 私には言葉、とくに文字と世界が似ているとは思えないのですが、似たものとして私たちは使っています。不思議です。

 言葉という疑似物を用いた疑似世界とか疑似体験という言い方が適切かもしれません。「言葉という偽物を用いた隔靴掻痒の遠隔操作」という言い回しよりは的確でしょう。

 げんに私は言葉という疑似物をやり取りして人と交流し、言葉からなる文章を読んで疑似体験を楽しんでいます。これは学習の成果であり、想像力のおかげだと理解しています。

 生まれたときから既に自分の外にあった言葉を真似て学びながら、同時に想像力を養った結果という意味です。

 あっさりと書きましたが不思議でなりません。

 私たちひとりひとりはそれぞれの疑似世界を持ち、疑似体験をしている。こう考えてみます。疑似(擬似)の「疑(擬)」が余分ですから、「似」にこだわりましょう。

 私たちひとりひとりがそれぞれの「似た世界」と「似た体験」をしている。同じではない。同一はありえないでしょう。似ているのです。似ているから通じ合えます。たぶん、ですけど。

似たものとしての世界

 私たちは「似たものとしての世界」に生きている「似た者同士」ではないでしょうか。

 あなたのいだく「似たもの」と私のいだく「似たもの」と、人の集まりである社会や集団がいだく(決めたということです)「似たもの」は似ているけど、異なるはずです。ズレがあるのです。

 それが個性ではないでしょうか。それがユニークさであり、掛け替えのなさではないでしょうか。

 話し言葉、書き言葉つまり文字、物語、フィクション、行動様式、表情、身振り、仕草、旋律、コード――。

 こうしたものは各人、家族、集団、共同体、社会、国家、地域、文化によって異なりますが、似ています。だから伝達や伝承や翻訳や言い換えや解釈ができるのでしょう。

 伝達や伝承や翻訳や言い換えや解釈は「うつす・うつる」です。移す、写す、映す、撮す、遷す。「うつす」には必ず何らかの誤差、ノイズ、エラー、変異がともなうそうです。

 複製やコピーは同一を再生したり再現することではないようです。似せて作られるものは、当然のことながら、似ているもの、つまり「近似」なのです。

 だから「疑似(擬似)」ともいうのでしょうか。百パーセントとか完全という言い方を避けているわけですね。

個性とユニークさ

 そっくりに見えても、似たように見えても、似たり寄ったりであっても、そこには「異なる」個性があるのだと私は理解しています。

 逆に「同じ」は不気味です。

「似ている」は印象ですから検証はできません。「同じ」や「同一」はヒトの知覚では確認できず、精度の高い機器や機械を用いてなら検証できるでしょう。

 日常生活では「同じ」「同一」はありえないし、出会えないわけです。抽象であるとも言えます。その嘘くささが不気味さに通じるのかもしれません。個人的な思いです。

 そっくりがそっくりしている、シンクロがシンクロしている、同期が同期している世界。百年前、いや五十年前の人なら、目まいを覚えるのではないでしょうか。

 そんな目まいを覚える世界に徐々に入っていった私たち、そして生まれたときには既にそうであった世代の人たちは、もはや目まいを感じなくなっています。

 逆に、太古の人たちがこの世界を見たらなんて想像すると、こちらが目まいに誘われますが、そうした想像力を大切にしたいと思っています。

 当り前に見えるものは当り前ではないし、必然でも自然でもないという意味です。

 とはいえ、私はこの「似たものとしての世界」つまり疑似世界に生まれ、生きていて十分に幸せです。満足もしています。

似ているから愛着をいだける

 疑似物である言葉を持ち、さらには文字を持ってしまった人類は、擬似世界に生き、疑似体験を重ねてきたのでしょう。

 直接的に世界に触れているわけではない。これは確かでしょう。

 仮想現実だなんて、何を今更という気もしますが、「似ている」と「そっくり」の精度と有効性は急速に高まりつつあるようです。

(私に言わせると、知覚機能と言語活動を介してとらえているこの現実こそが、既に「似たもの」つまり疑似物であり仮想物からなりたっているきわめて精巧でよくできた仮想現実なのです。)

 それでも私たちひとりひとりのいだいている「似たもの」が異なるという事実は変わらない気がします。

 つまり、「似ている」からこそ違いが生じ、個性があると言えます。「似ている」が個性を生むのです。

 一方で、「同じ」は個性を消します。無視するだけでなく消すのです。

 似ているものに、私たちは愛着を覚え、愛着をいだくことができます。

 擬人化というのは、森羅万象に自分たち人間を見てしまうことです。

 世界や森羅万象は私たちにとって直接触れあうことができない「何か」であるわけですが、名前を付け、自分たちと似た部分を見ることで親しいものに見えてきます。

 自分たちと似ていると思いこみ、手なずけ飼いならしているのかもしれません。世界や森羅万象なんてチョロいとも思っているにちがいありません。さもなければ、科学技術はこんなに発展していないでしょう。

 擬人化をともなう想像によって、ただの物や景色や形が、人形や顔や絵に変わります。空の雲を思いうかべると分かりやすいと思います。

 そうした想像力の結果が、映画であったり映像であったり、芸術であったり、おそらく音楽であったりするのでしょう。想像は創造であるという、例の駄洒落です。

 生き物も人に似ていると感じることで愛着や愛の対象になります。物もそうです。自然にある物たち、そして人が作った物たち。

 こう考えると、「似ている」が素晴らしい感覚に思えてきます。

 一方で、「同じ」はどうでしょう。

「私たちは同じなんだ」「同じ人間なんだ」「地球に住む同じ生き物なのだ」「同じ〇〇国民だから」「同じ〇年〇組なのですから」「同じ家族(会社、町内、病気、趣味、ファン、宗教、性、世代、出身地)なんだからさ」……

 ちょっと待ってください。

「同じ」も素晴らしく聞こえ、美しくさえ響きますが、どこか嘘くさいのはやはり日常生活や体感から懸け離れている抽象だからではないでしょうか。妙にほのぼのとして美辞麗句っぽいのです。

 さらに、「同じだから」という上の言葉に続けて言われがちなフレーズを想像してみてください。何らかの思惑や魂胆のあるフレーズが頭に浮かびませんか? 

「私たちは同じ〇〇なんだから、△△するべきだ(△△して当然でしょう)」――こういう流れになります。

 こうしたスローガンやプロパガンダが危険でもあるのは、歴史が教えてくれます。

 私たちは同じではなく似ているのです。ひとりひとりが似ていながら違っているのです。

「同じ」という言葉が、特定の考えを説得するさいの方便や切り札として使われる場合がいかに多いことか。

 そう簡単に「同じ」だと括っていいものでしょうか。

 魂胆があるからです。言葉の錯覚を利用した心理操作かもしれません。レトリックのことです。

 これは個人的な思いなのですが、同じ姿や顔をしたものがずらりと並んでいると生きているという感じがしません。平気で壊せる気がします。

 生きていると感じないのは、それらに人を感じないからかもしれません。

 私たちは同じではなく似ているから、ひとりひとりが違うのです。

 私たちを文字や数字に置き換えれば、同じどころか同一になるでしょう。

 私たちは文字でも数字でもありません。私はそういう抽象には耐えられません。

 ためらいもなく、人を文字や数字に置き換えて処理する、あるいは処分する人に強い嫌悪感を覚えます。その鈍感さと残酷さにです。そういう人は権力を持ってはならない、いや私たちが権力を委ねてはならないと思います。

 あくまでも個人的な思いです。これだけ抽象にこだわるのは、性格や気質の問題かもしれません。

初めて見る「似ている」の世界

 ずらりとそっくりに並んだものたちに掛け替えのなさを感じて、愛着を覚えるためには「似ている」が必要だという気がします。

 この「似ている」の根っこには「人に似ている」があるように感じられます。

 私は子を持ったことも、育てた経験もないのですが、近所で仲良くしている家族の赤ちゃんをよく目にします。かわいいし、愛おしささえ覚えます。

 赤ちゃんを見るたびに、私はその目の動きと表情を観察します。残念ながら声は聞こえません。難聴が進行して高い音域が聞こえないのです。

 生まれたての赤ちゃんが目にした世界には「似ている」が立ち現われているのではないでしょうか。それも「人に似ている」です。

 その「似ている」に向かってほほ笑む、あるいは泣く。その「似ている」は必ずしも人でなくてもいい気がします。ガラガラやベビーメリーがそうですね。

 物にでも赤ちゃんはほほ笑みかけ、泣いて見せる。それが赤ちゃんの想像力かもしれません。また、笑みと声が「届き」「達する」とも限りませんから、これは占いであり賭けだとも言えます。

 さらに言うなら、赤ちゃんにとって、物と人のさかいはないのかもしれません。

 物と人のさかいのない赤ちゃんが向きあっているのは、たぶん「顔」なのだと思います(この「顔」とは「意味の萌芽」の比喩と考えていただいてかまいません)。

「顔」こそが、人にとっての最初の言葉であり文字だという気がします。

 これも想像するしかありませんね。

「世界という本物」から永遠に切り離され、そこにたどり着くことができず、「世界という本物に似たもの」に囲まれて生きている以上、人は想像する以外に世界と触れあう手段はなさそうです。

「いま」「ここ」にいて「かなた・あなた」を想う。これで十分ではないでしょうか。

 うつせみの あなたにいだく 夢の顔