星野廉の日記

うつせみのあなたに

文字化する人

文字を持ったことで、人は文字化したのではないか

 ヒトが話し言葉をなぜか持ってしまった。つぎに書き言葉である文字をなぜか持ってしまった――。

 こんな話がありますが、文字を持ったことで人は文字化しているのではないかと、最近よく思います。

 今回は、そうした思いについて書いてみます。そのためには、人と文字を観察する必要があります。

 文字と人を観察した結果を以下に並べてみましょう。

 人は文字に似ている。文字は人に似ている。人は文字になりたがる。人は文字になっている。人は世界を文字として見ている。人はありとあらゆるものに文字を見ている。文字は擬人かもしれない。文字は顔だろう。数字は文字であり、その意味は大きい。

 以上は、どれも私の個人的な印象です。

文字は映像に似ている

 次に、上に並べた文を見ていて、思いついたことや、以前に書いて思いだしたことを並べます。

 文字は線からなる。文字はなぞるもの。文字はなぞり書くものから入力するものになってきている。文字は人の外にあって、人の中に出入りしながら、外であり続ける。

 以上は、私のオブセッションです。

 文字は映像に似ている気がします。というか、両方とも視覚の対象ですから、似ていて当然なのでしょう。

 映画を短く編集した動画が違法に制作されているそうです。私も見たことがあります。

 見ていて連想したのは「読む」です。本であれ、新聞・雑誌であれ、ネット上の文書であれ、人は速読します。読むのではなく見ている感じです。

 それだけ読む物が多くなっているのですから当然です。

 個人が自由にできる時間は限られています。どれだけでもたくさんの情報に接するためには、触れる時間を短縮する必要があります。

 話し言葉が話されている間、人はその話し手に時間を拘束されます。話し終わるまで待っていなければならないという意味です。

 もどかしいですね。ままならさにいらいらすることもあるでしょう。録音した音声であれば、早送りできるでしょうが、現実的な解決策ではありません。

文字を読むのではなく見る

 一方、書き言葉である文字であれば、はしょることができます。見るだけでも大丈夫です。

 聴覚が時間に拘束されるのに対し、視覚は時間にわずらわされることなく、対象を「はしょる」、つまり短縮して省くことができる点が優れています。

 この軽快さ快適さを覚えるとはまるでしょうね。つぎからつぎへと対象を変えることができるのです。取っ替え引っ替えできます。

 ますます文字からなる文章は読まれなくなり、見る対象になってくるのは当然であり人情だという気がします。

 とくにパソコンやスマホの液晶画面に表示されている文章は、ますます読むのではなく見る対象になる気がしてなりません。

 印刷物にくらべて、端末の画面上の文章は、いかにも軽いのです。存在感が薄いのです。

 ブログで書いていらっしゃる方々が、自分の記事をまとめて書籍化したいと思うときに、電子本ではなく、紙の本を望む場合には、「見られる」のではなく「読まれたい」という気持ちがどこかにあるのかもしれませんね。

 人は何かにはまるとエスカレートする傾向があります。依存とか嗜癖とか脳内物質の分泌という言葉で説明できそうです。

 文字を読むのではなく見るようになる。私はこれを人の文字化と呼びたくなります。人が文字に似てくるからです。

 文字は見るものです。現実問題として、見られている文字のほうが、読まれている文字よりも、はるかに多いのではないでしょうか。

 さらに言うなら、読まれも見られもしない文字のほうが、もっともっと多いかもしれません。いわば捨てられる文字です。

 いま上で述べた「文字」ですが、じつはぜんぶ人のことなのです。今回は、そういうお話をしています。

人は文字を読むのが好きではない

 ここだけの話ですが、そもそも人は文字を読むのが好きではないのです。

 話し言葉を持ってしまったというアクシデント(偶然)は、人類にとってそこそこありえる展開でしたが、文字を持ってしまったというのはありえないアクシデント(事故)だったのです。

 言葉(話し言葉と書き言葉の他に、表情と身振りといった視覚言語を含みます)は、誰もが生まれたときに、既に外にあって、外から人の中に入り、それが表現の手段という形で外に現れ出ます。真似て覚える必要があります。

 抽象と具象を兼ねそなえているから、こんな不自然で不可思議なことが起きるわけですが、文字には、話し言葉や表情や身振りにはない特徴があります。

 文字は残るのです。保存できます。一方の音声、表情、身振りは一瞬で消えます。

 音声と表情と身振りを、録音し録画をして再生するという手はありますが、再生したところで、再生する時間がかかって効率的ではないのです。複製と拡散も面倒です。

 残り、保存ができて、複製が無限にできて、瞬時に拡散できる。しかも、読むのではなく見るだけでも大丈夫。

 こんなものが、文字の他にありますか?

 人は楽をしたい生き物です。

 本来なら、文字は読みたくないのです。文字を見たい、ぱっと見るだけで済ませたい。これが人の本音です。

 表情と身振りは、習得するのにそれほど苦労しないでしょう。

 ところが文字の習得と学習にはとほうもない時間と苦労が必要なことは、みなさんご承知のとおりです。しかも、学習は一生続きます。

 うんざりしませんか? 疲れませんか?

 文字の読み書きを学習するために、人がこれだけ苦労し、これだけ大々的な制度とメソッドを築きあげたのは尋常ではありません。

 この星にとっての非常事態だったと言っても言いすぎではないでしょう。

 ぶったまげて腰を抜かしても罰が当たらないほどの大珍事なのです。

 とはいえ、いったんできてしまったものは仕方ありません。ここまで来たのですから、後戻りもできません。

 半分冗談はさておき、(文字からなる)文章を見ることと、(文字からなる)文章を読むことのさかいに線引きをすることは難しい気がします。

 両者の違いは掛ける時間でしょうか。理解度でしょうか。集中力でしょうか。気合いでしょうか。既に知っているか初めて目にするかでしょうか。気分でしょうか。好き嫌いもある気がします。体調も大いに関係ある気もします。

 要するに、曖昧なのです。検証不能なことは確かでしょう。

 できることなら、文字は読まずに見るだけで済ませたい、学習も勉強もしないで済ませたい――これは本音だと思います。

 自分を基準にして人類を語って、申し訳ありません。人それぞれですよね。

文字が書かれなくなってきている

 文字と、文字からなる文章は、ますます読まれなくなってきています。見る対象に近くなっていると言えそうです。

 それだけではありません。

 文字と文章は、手と指を使ってペンなどで紙に書くものから、手と指を使って入力するものになってきました。その傾向はますますエスカレートしてきています。

 人が文字に合わせるようになってきている。しかも、手と指を使ってペンなどで紙に書いた文字ではなく、機械に入力された文字(液晶上の画素の集まり)に合わせるようになっているのです。

 文字を書くのではなく入力している人が、文字を読むのではなく見るようになるのは、分かりやすい展開だと思います。

 どれだけでも、楽したい、早く済ませたいという意味です。

 文字は書かれなくなる(つまり入力されるようになる)、文字は読まれなくなる(つまり見られるようになる)。

 これは、人が文字に合わせるようになる、ひいては人が文字になる、と同期(シンクロ)しているのではないでしょうか。

 後に触れますが、文字は軽くてさくさくして、効率がいいのです。その文字に人は憧れてなろうとしていますが、じつはもう人は文字になっているのです。(このまま読みつづけてください)

複製が容易な文字

 文字の最大の特徴は、複製が容易だということです。写本、写経は大変だったでしょうが、印刷術が発明されて、魔法みたいに飛躍的に複製がさらに容易になりました。

 複写機が現れると、一般人でも簡単に複製ができるようになりました。しかも複製できる数が飛躍的に増加しました。

 そして、パソコン、インターネット、スマホが、さらに複製を容易にし、容易どころか、ネット上であれば入力して即座にそれが無数の端末で複製される、つまり拡散されるという状況が生まれました。

 入力=複製=拡散。この三つが同時に起こるわけです。こうした状況で入力され、複製され、拡散された文字からなる文章を読むことが可能でしょうか。読むが見るに限りなく近づけば、可能と言えるでしょう。

 人はそうした文字の状況に自分を合わせるようになります。合わせざるをえないのです。それが日常生活になっているのですから。

 これを人の文字化(文字に擬態するでもいいです)と言わずに何と言えばいいのでしょう?

 ちょっと無理のある言葉じゃないの? 大げさじゃないの? 論理の飛躍というものでしょう?

 そんな声が聞こえてきましたので、べつの意味での人の文字化についてお話しします。

文字化する人

 人は文字化しています。まわりをよくご覧になってください。よく考えてみてください。

 あなたはフランツ・カフカに会ったことがありますか? 見たことがありますか? マリリン・モンローでもいいです。アンディー・ウォーホルでもいいです。平野歩夢さんでもいいです。バイデン大統領でもいいです。

 ぜんぶ、文字で知っているのではありませんか? つぎに映像(正確にいうと映像の記憶です)で知っているが続きます。まず、文字なのです。

 あなたの知っている人の大半が、文字なのです。つぎに映像です。

 文字も映像も、見るものです。視覚に訴えているイメージ(像)だという点では同じです。

 映像としてイメージできなくても、文字として知っている人、場所、事物がいかに多いことか。

 人間関係は文字と映像でなりたっているのです。

 きょくたんな言い方をすると、「世界(人にとって世界とは人間関係に他なりません)という関係性」を構成している要素は文字と映像とだいうことになります。

 これは、驚くべきことではないでしょうか。本気でびっくりして、腰を抜かしてもいいほどの事実です。

 なぜなら――何度も繰りかえして申し訳ありませんが――人が文字化しているということなんですから。

 あなたが文字だという話なのです。

 あなただけではありません。

 知人であるか、家族であるか、会ったこともない無名人であるか、会ったことも見たこともない有名人であるか、会ったことも見たこともない歴史上の人物であるか、まったく関係なく、みんな文字になっているという話です。

 ぶったまげて腰を抜かしても罰は当たらない気がします。

文字化した人は見るだけの存在になる

 あなたは固有名詞、とくに「人名を読む」ことがありますか? 読むとすれば、どれくらいの時間を掛けますか? 

 人名を「見ているだけ」ではないでしょうか。

 二度目、三度目と、何度も見たことがある固有名詞、とくに「人名を読む」ことがあるでしょうか?

 見るどころではないくらいに「瞬時に処理している」のではないでしょうか。

 人名は人命なのにです。

 それが抽象です。

 あなたを責めているわけではありません。誰もが抽象と無縁でいるわけにはいかないと言いたいのです。

 言葉、とりわけ文字の抽象性はきわめて高いと言いたいのです。

 抽象とは残酷なものです。その基本に「切り捨てる」があるからだと言えます。

 余分なものを切り捨てたから、スリムですっきりしているし、軽くてさくさく読めるどころか、見るだけで済ますことが可能になるのです。

 それが抽象なのです。

数字も文字

 さらに恐ろしい衝撃の事実があります。

 数字です。

 数字も文字です。

 よろしいでしょうか。あなたは、既に何かの番号、つまり数字という文字として処理されています。

 学級、学校、同窓会、自治会、自治体、政府。そうした組織において、あなたという人間を生身で扱うわけにはいきません。

 生の人間は重すぎるからです。容量が半端じゃなく大きすぎるのです。

 人を名前という文字、データという文字、番号という数字――ぜんぶ文字です――にすれば、超軽量化されます。さくさく処理できます。

 パソコンでも、大型コンピューターでも、インターネットでも、複製=伝達=拡散=流通が即時に可能になります。

処理される、処分されるということの意味

 数字として処理される。

 たとえば、死者〇〇名、重傷者△△名――という意味です。患者数、検査陽性者数、新規感染者数、給付金対象者数……もありますね。

 数字として処分される。

 処分は不祥事を起こして処分されるだけではありません。婉曲的に使われる言葉でもあります。

 たとえば、殺傷処分がそうです。似た言葉に駆除もあります。排除するや非難させるも、そうでしょう。要するに「消す」のです。

 非常事態下や災害時や有事(この言葉自体が婉曲語です)のさいに「処分される」が具体的にどういう意味なのかを考えてみてください。

 人は言葉に似ていない。人は言葉に似てくるのだ。

 人は言葉になる。人は文字になる。人は数字になる。文字として数字として処理される。大量に処理することが可能になる。処分も可能。げんにされている。

 人は「自分に似ていないもの」として処理される。だから処分もされるのだろう。そうとしか思えない。

 そっくり、すっきり、かっきり。過不足なし。可もなく不可もなし。すっきりだから超軽量。大量の処理や処分に最適。さくさく、迅速、すみやかに、スピード感をもって。

(拙文「シンクロにシンクロする」より引用)

 大切なことなので、繰りかえします。

 既にあなたは文字なのです。好むと好まざるとにかかわりなく。

 いや私は生身の人間です。切れば血も出る生き物なのですよ。

 たしかにそうです。でも、あなたはげんに文字として扱われています。

 世界の圧倒的多数の人があなたを認識するとすれば、文字と映像でしか認識できないからです。

 数字は恐ろしいです。文字どころではありません。

 あなたは既に何らかの数字としてカウントされています。あなたの知らないところでです。

 それを政府が保管していることは確かです。さもなければ、あなたには戸籍も国籍もないことになります。

 あなたは数字なのです。あなたは文字なのです。

 しかも、あなたは、その数字と文字に合わせて生きざるをえない状況に投げこまれているのです。

いけにえ

 文字と数字は、いわば生身の人間の「影」です。はかなげで、かげろうのようです。

 そりゃあそうです。生身の人ではないからです。文字と数字は影だからです。影の影が薄くて当然なのです。

 一方、文字としての人、つまり文字化した人は、いまや「見る対象」になっています。単なる見る対象となった人ははかなげで、かげろうのようです。

 これは悲しいことです。生身の人が文字化するなんて、悲しすぎます。

 人の文字化が、もはや比喩やレトリックでなくなっていることは恐ろしくもあります。いまや人は文字どおり文字なのです。

 文字と数字は人の代わりに処理されます。処分もされます。あなたの身代わりに処理され処分されるなんて、「いけにえ」じゃありませんか。

 いけにえ、犠牲、生け贄。こう書きます。

 処理し、処分する人にとっては、ただの文字と数字です。さくさく作業を進められます。

 文字と数字があなたの代わりに処理され処分にされているようでいて、じつはあなた自身が処理され処分されていることを忘れてはなりません。これは、私が自分に言い聞かせている言葉でもあります。

 文字と数字が、「生身の人間」を「抽象」と錯覚させる装置であることは確かなようです。

 遠く離れた場所から報道という形で届けられる映像と文字と数字が、単なる影でも生け贄でもなく、犠牲者であること、つまり切れば血の出る人間であることに敏感でありたいと思います。