無文字という選択
本来なら、人は本なんて読みたくないのです。読む義理もないのです。
よく考えてください。話すものである言葉を、わざわざ文字にして、それを見るのではなく、読むのですよ(じっさいには「見る」ことは至難の業であり、しかも読めていません)。それを理解したなんて言っているのですよ。かなり不自然で、妙ちくりんなことを、人は発明して毎日やっているのです。
よろしいでしょうか。文字はあくまでも後付けなのです。無文字社会もあったといいます。視覚言語は文字だけではありません。表情、手振り、身振りがあります。
人類にとって、無文字でいくという選択肢もあったはずです。文字社会でいく必然などないという意味です。
それがいつかどこかでズレてしまったのです。言語の獲得(もともとの無文字の話です)と同じくらいの生物学的逸脱かもしれません。
決まり
言葉は決めるのではなく、決まるのです。これで決まり。
「決まる」は絶対なのかもしれません。絶対王政の絶対です。絶対は絶大なのです。絶倫かもしれません。
「決まる」は人知を超え、「決める」は人為。
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言葉は決まる。言葉は決まり。言葉で決めれば、決まったことになる。人はあらゆることを言葉として処理する。言葉にならないものは、この世には存在しないという意味。
だから、人は言葉にひれ伏す。
というふうに短絡してみましょう。
シンプルであることが言葉の最大の利点です。真実はシンプルでなければならない。
というふうにも短絡してみましょう。
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言葉の中でも書き言葉、つまり文字はシンプルに見えます。
愛
は愛なのです。
揺るぎない。ぶれない。不動。永遠。不変。普遍。不偏。不返。
愛の両義性どころか、多様性や多層性が見えなくなるとも言えます。
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文字は無限に複製し拡散できます。
どんなに数が増えても、愛は愛なのです。
愛がたったひとつの文字であることに注目しましょう。これは、愛の意味がたったひとつであり、その価値もったひとつであり、それゆえに普遍であるというイメージをいだかせます。
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愛は一字ですが、もう少し長くしましょう。
世界はひとつだ。
こう書くと、世界はひとつに思えてきます。そう思わない人も、この文字列を見た瞬間は「愛はひとつだ」と思います。思わないと読めません。信じないと読めないのです。
思って読んだ後に、「やっぱ、違うわ」と判断するのです。
世界の多元性を思う人もいるという意味です。
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とはいうものの、一度でも思わせ、信じさせたもの勝ちです。
脳は次の「読み、信じる」という処理作業に移らなければならないからです。判断なんてしている暇はないのです。
このようにして、文字を読んで、そう思った、そう信じただけが、残ります。
読むの基本は信じることなのです。
「それだけ」感
文字はシンプルで、「それだけ」感が強いのです。「それだけ」感とは、「感」ですから印象でありイメージです。検証ができません。
「それだけ」っぽい。「それだけ」がぷんぷんにおう。なんとなく「それだけ」という感じがして、「それだけ」という気分になるとも言えます。
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「それだけ」の対極にあるのが、「ああでもないこうでもない」「ああだこうだ」「ああでもありこうでもある」「ああだとも言えるしこうだとも言える」「こうかもしれないし、ああかもしれない」という感じです。
これじゃ困るのです。訳が分からない。とりとめがない。曖昧だ。曖昧模糊としている。両義的どころか、多義的、多層的、多元的。
そんなんじゃ使えないのです。容量が重すぎて動かせません。面倒くさくもあります。
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文字はシンプルに見える。いくらでも複製・拡散可能。
決まったものはシンプルであることに越したことはないのです。持ち運びやすく、さくさくと読めなければなりません。
多なのに一
目で見える「たったひとつ」「たったひとり」が文字です。
「山」とあれば、山というものがあると錯覚する。単一な山を想定してしまう。「人」とあれば、人というものがあると思いこみ、人の多様性を無視して、人一般を思いうかべてしまう。
抽象です。抽象とは、切り捨てることです。一本化の代償とも言えるでしょう。
とくに固有名詞。中でも人名の「たったひとつ」感と「たったひとり」感は強いです。ある特定の人物の多様性を忘れさせ、ある人物が多数、無数の人物や事物と結んだ関係性という絡みを一本の短い線に変えてしまう。
他人とは多人なのです。こう書いてもむなしい。「たったひとり」感は絶大なのです。
多なのに一に見える仕組み、それが文字です。
世界をシンプルに見たい人には、文字は最適の錯覚製造装置なのです。
決まりに逆らう、一に抗う
話は飛びますが、二十世紀の一時期にフランスあたりで文化的な革命に似た運動の機運がありました。
「フランス現代思想」なんて言葉で検索すれば、たくさんの人名や作品名が出てくるはずです。私もそれに熱中したことがありました。
いまになって思いかえすと、あの運動は決まりに逆らうという言葉と、言葉の身振りに満ちたものでした。
「たったひとつ」という決まりに反抗しまくった人たちがたくさん出たという感じ。
読みの多層性、権力の構造の多元性、解釈と意味の多様性、文字と文字列(アルファベットです)の多義性と多層性、歴史の無数性、知に無数の穴ががあること(つまりまだらでまばらですかすかであること)、に注目した人たちがいました。なぜか、みんな比較的短命に終わりました。
一への反抗。多への賞賛。
背後に、一神教がある、ロゴスがある、なんていう予定調和的な言い方をすれば、なるほどと思われる方もいらっしゃるにちがいありません。
※ロラン・バルト(64歳没)、ミシェル・フーコー(57歳没)、ジル・ドゥルーズ(70歳没)、ジャック・デリダ(74歳没)。瞑目合掌。
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簡単に言うと、次のようなイメージです。
訳が分からない。とりとめがない。曖昧だ。曖昧模糊としている。両義的どころか、多義的、多層的、多元的。
心当たりがありませんか? そんな感じでしたよね。
「たったひとつ」を目の敵にして、複数性だの多数性だのを武器にして、反抗しまくったのです。
いまは下火ですね。残党はいるにはいますが、どっちかというと「たったひとつ」的な方法で、「たったひとつへの抵抗」をながめているという倒錯におちいっている感があります。「感」ですから印象です。
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フランス以外の欧州や、アメリカや、はるばると離れた日本でも、似たようなレジスタンス運動が見られました。
日本でも、欧州のローカルな問題をまるで普遍的な自分の問題であるかのように錯覚するという倒錯がはやり、いまもその残滓があるみたいです。詳しいことは知りません。
ちょっとだけイメージを言いますと、フランス語やドイツ語や、はたまたラテン語やギリシャ語の駄洒落や言葉の綾を、まるで自分の問題のようにありがたくいただいて翻訳語あるいはカタカナ語で議論しているのです。
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原文でやればいいことを翻訳でやっている。自分の問題、自分の生まれ育った環境での問題として考えていない。
母語を失念し、ないがしろにした議論だという意味です。いっそ、原語で議論したほうが真摯な態度だと思います。いずれにせよ、普遍信仰です。「たったひとつ」を指向しています。
「たったひとつ」への反抗を対象に「たったひとつ」を目指している倒錯感があります。固有名詞にひれ伏し、作者を信じ、テキストの一義的な解釈を指向しているように見えるという意味です。あくまでも印象です。
抽象と具象を兼ねそなえた言葉
言葉は誰もが生まれた時から、自分の外にあって、それを真似て学び、自分の中に入ります。
これは言葉がこと(言・事)であり物でもあるからです。抽象と具象を兼ねそなえているとも言えるでしょう。
中にいるのに、外にいる気がしてならない。中にいるけど、いまでも外にもいるわけだし、多数の他人の中にもいるのだから、言葉は自分の思いどおりになるわけがない。そんな側面もあります。
他人は多人であり、他者は多者であるからです。
その結果として、言葉は外なのです。外だと言えます。
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外にある言葉を遠隔操作するなら――正確には外にある事物を、やはり外にある言葉という代理を使って遠隔操作するなら――、軽量でさくさく動かせたほうがいいに決まっています。
話し言葉はもたもたしています。時間がかかります。それに対し、書き言葉である文字は軽量でコンパクトでさくさく動かせます。
抽象と具象と兼ねそなえていますから、人の中に入ったり出たりもできます。
こんなものがほかにありますか?
錯覚は最大の武器
抽象化、コンパクト化、見える化、さくさく軽量化。これらを実現したのが文字です。
何を「〇〇化」したのかといえば、世界、宇宙、森羅万象でしょう。一本化、一つに絞る、これが抽象です。多を一だと錯覚し、チョロいもんだと見なすわけです。
さくさく軽量化すれば、無限に複製し拡散することが可能です。げんにそうなっています。ますます拍車がかかるでしょう。
言葉は知識から情報へと出世魚のように名を変えたのです。正確に言えば、言葉というより文字です。
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話し言葉は相変わらず重いです。もたもたしています。話すにしろ、再生するにしろ時間を要します。
「話す」は時間の持続と経過の中にあるからです。しかも瞬時に消えるという最大の特徴(弱点でもいいです)をかかえています。
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現物の代わりに似たものを使う。代理を使う。代理である偽物をいじって、本物を操っている気分になる。
錯覚は人にとって最大の武器だと思います。ここまで来ることができたのは、錯覚のおかげでしょう。
武器ですから、自分に向くこともあることを忘れたくないですね。