星野廉の日記

うつせみのあなたに

決める、決まる

辻褄を合わせる

 辻褄を合わせるのに懸命になっている人や人たちがいます。身のまわりにいる――テレビやスマホで見る人でもいいですけど――そんな人を思いだすか、想像してみてください。

 辻褄と言いますが、何に合わせているのでしょう。論理でしょうか。因果関係なのでしょうか。辞書で調べると、道理とか筋道とか始めと終りなんて言葉が見えます。

 個人的には、筋がいちばんしっくりきます。

「ああ言った手前、――」、「ああ言った以上は、――」、「ああ言ったのだから、――」。(※「言った」と「書いた」としても同じでしょう。)

 何かに合わせている感じがあります。相手でも、自分でもないのです。強いて言うなら、「何か」です。「誰か」に合わせていないことは確かです。その「何か」は言葉なのでしょうが、それは結果であって、言葉以前ぽい気もします。

 やっぱり筋みたいに思えます。

言葉が出た瞬間

 言葉が口から出た瞬間に、それが自分の思いを離れて、勝手に受け取られる。

「しまった」、「あれ? そう取られたか、ラッキー!」、「どうしょう、撤回するわけにはいかない」、「ま、いっか」、「何だ、反応がまちまちだな」、「そうなんだ、そういうことだったのか」、「そうそう、そう言う意味なの、そう言いたかったのよ」、「いまの言葉って私が言ったの? うっそー」

 これは書いた文字でも同じでしょう。ただし、文字は残ることが、録音されない音声との大きな違いです。

 ぶれる。前言撤回。失言。

 これらは政治家だけでなく、言葉を使う人にとっていちばんの悩みではないでしょうか。私なんかしょちゅうです。記事を書いてから、あらら、しまった、OMG、穴があったら入りたい、どうしましょう……、の連続です。

 言葉は決められない、言葉は勝手に決まるもの、と感じることは日常的に頻繁に経験します。

 通じない、伝わらないなんて、当たり前の話で、それよりも、自分に問題があるらしい、ぶれや前言撤回のほうが、自業自得っぽくて自己嫌悪におちいります。

 でも、待ってください。本当に自業自得なのでしょうか? 言葉って勝手に決まりませんか? 日常的に、そういう瞬間がよくありませんか? 

しどろもどろ

 私は、しどろもどろが好きです。

 自分が何か話しはじめたとします。ぜんぜん何を話すか頭にないままです。私はこういうことがよくあります。

 緊張するからかもしれません。人生ついでに生きているような投げやりな気持ちがあるからだという気もします。言葉をぽんと投げるようにして、あるいはぽつぽつつぶやくようにして、会話をしていく。あるいは一方的にこちらから話すのです。

 相手しだいで方向が決まってきます。決まるのです。決めるんじゃありません。あの「決まる」感が好きなのです。

 ああ、人生捨てたもんじゃないわ。あれよあれよ。すげー。よく言うよ(自分のことです)。

 何かに運ばれている感じがします。言葉にうながされている気もします。駄洒落にもちょっとだけ似ています。言葉が勝手に決まっていく感じ。私は好きです。あの快感に、はまっているかもしれません。

 Mっぽい感じもします。いや、ぽいどころか、かなりM的ですね。早い話が、ドMです。

 そりゃあ、そうです。すべてお任せの、へそ天状態なのですから。何に任せているのかが不明である点がポイントです。賭けなのです。 

決める、決められる、決まる

 自分が決めたと思っているのに、じつは決まったようだと感じることがあります。

 いちばん分かりやすいのは音楽かもしれません。コード進行という言葉で私がイメージしているものにきわめて近い気がするからです。なぜがその方向に進んでしまうのです。聞く側だと、なぜかある旋律に運ばれてしまうのです。

「なぜか」がキーワードです。この「なぜか」は「何となく」にとても近いです。

 文章を書いていて、なぜかある方向に行ってしまう。ある言葉が出てきてそれにうながされて書いてしまう。筋のようなものが見える気がして、その筋に従って書いている気分になる。

 なぜかみんなと同じ仕草をしてしまう。なぜかみんなと同じような言葉を口にしてしまう。その場の空気に染まる感じ。

 なぜか、その人と同じ身振りや表情をしてしまう。なぜか、その人と似たような行動をしてしまう。

 なぜか、自分の中に誰か――それも複数だったり多数だったりする――の言葉や行動パターンや声や表情があって、なぜかそれに合わせてしまう自分がいる。

 自分が引用の織物だったり、パッチワークだったり、ごった煮のように感じることがある。

「お父さまに似ていらっしゃいますね」、「その仕草、お母さんにそっくり」、「あなたのこの文章だけど、似たような文章がここにあるの」、「こどもって、なんで太陽と海はこういうふうに描くわけ?」、「記述は既述だって、どこかのアホが書いていた」、「私の書いた記事の下にある「こちらもおすすめ」ってリストなんだけど、同じようなことを書いている人っているものなのね」、「それって、お笑い芸人の〇〇が十年前にやっていてギャグだよね?」

 自分で決めたつもりなのに、決まっていた。自分で書いたつもりなのに、誰かが書いていた。自分だけのものだと思っていたのに、誰かが(みんなが)「自分だけのものだ」と主張する。

 自分ではAのつもりで言った(書いた)のに、Bだと受け取られた。自分に問題があるのだと思っていたら、〇〇さんがまったく同じことを言ったら(書いたら)、Cだ(Aだ)と受け取られていた。

 言葉は誰もが生まれた時から、自分の外にあって、それを真似て学び、自分の中に入れたから、自分のものだと思っているのに、なかなか思いどおりにならない。

 中にいるのに、外にいる気がしてならない。そりゃそうだ。中にいるけど、いまでも外にもいるわけだし、多数の他人の中にもいるのだから、言葉は自分の思いどおりになるわけがない。

 言葉は外なのです。

 口にしたり、文字にしても、それが伝わるとは限らない。伝わらないほうが多い気がする。

 自分で決めたつもりなのに、誰がが決めている気がする。誰もがそう感じているとすれば、「決める」のではなく、「決められる」のでもなく、むしろ「決まる」ではないか。

 自分があずかり知らないところで、すべてが決まっていた。

 これはまったく悪いとは思えません。何かにお任せした感じが捨てがたいのです。楽と言えば楽なのです。

筋を通す

 すばり「筋を通す」という言い方がありますが、「辻褄を合わせる」よりは流れと動きを感じます。ダイナミック(動的)なのです。偉そうでもあります。

 言葉は「決まる」ものだというのは、筋という言葉とそのイメージで説明するのがいいかもしれません。

 筋とは、流れ、論理、語り、物語、進行(コード進行の進行です)、旋律、節と近い気がします。筋がおおむね決まっていて、それに沿って進んだり、運ばれたりするのです。

 筋は言葉を超越した存在であるだけでなく、人知を超えた一種の法である気もします。

何となく「何となくでない」をしている。

(拙文「何となく」より引用)

 ある言葉を自分が口にしたり、文字にすると、それがある方向を目指して勝手に進んでいくような気がするときがあります。

 その言葉を耳にしたり目にした人がその方向を目指しているようにも感じられますが、そうではなくて言葉が勝手に進んでいく場合の話です。両者の区別は難しいです。区別すべきものでもない気もします。

 言葉という代理、言葉という現物に似たもの(似せたもの、似ているもの、偽物)が、勝手に進む、勝手にある身振りをする、ある表情をする。そんなイメージなのです。

 私は論理的な人間ではないので、筋を通すということはできそうもありません。すごくしんどそうなのです。できれば筋を通すなんてしたくありません。

 辻褄を合わせ、筋を通すために、言葉を選んで話したり書くなんて、考えただけで頭がくらくらしてきました。汗も出てきました。しどろもどろくらいがちょうどいいです。私みたいないい加減な人間には身分相応という感じがします。

 というか、私の記事はだいたいがしどろもどろで書いています。しどろもどろで書きながら、駄洒落が助けてくれると、これはもう至福の時です。駄洒落に手を引かれながら、文字にしていきます。

「おいおい、そっちじゃない、こっちだよ」、「それを言うならこれでしょ?」、「イマイチだなあ、ちょっと考えさせて……」、「これこれ、これだよ」

 こんなふうに導かれて書いていくのです。

現実、思い、言葉

 現実、思い、言葉。この順に重い気がします。重くて思いのままにならないのです。言うことを聞いてくれないとも言えます。

 現実はまず動かせません。念力を使うと動かせるでしょう。

 思いはそこそこいじれます。思いを自由自在にさくさくと動かせる人は夢も自由にできるでしょう。

 言葉はかなりいじれる気がします。でも気がするだけなのです。代理という偽物(似たもの)を使うからです。隔靴掻痒の遠隔操作です。もどかしさは致し方ありません。

 思いのままにする、言うことを聞かせる、これは「決める」です。

「決める」と「決まる」は異なります。「決まる」はこちらの思いのままになることではなく、勝手に決まるのですから、「決める」と「決まる」はほど遠いようです。一字違いだからと言って馬鹿にできません。

 個人、集団。一般人の個人と集団。そこそこの権力を握る個人と集団。最強の権力を握る個人と集団。

「決める」と「決まる」は、それぞれにおいて異なる気がします。

 何を決める、何が決まるのかというと、現実、思い、言葉なのですが、現実と思いはまず、決めることができそうもないので、簡単にいじれる気分にさせてくれる言葉で考えてみましょう。

 個人で考えてみましょう。個人レベルで文章をいじる。言葉をいじる。言葉はいじれても、言葉が言うことを聞いてくれるとは限りません。思いどおりになるわけではありません。でも、いちおういじれるのです。

 たとえば、この駄文はそこそこいじった結果として書けていると言えそうです。でも、思いどおりに書けたわけではないし、どう読まれるかは思いどおりになりません。勝手に読まれるからです。

 しかも読んだ人がいたとして、読むとは何でしょう。見るに近い読むもあるでしょうし、読む気がなくて読んでいるもあるでしょう。書いてないことを読む人もいます。「え? そんなこと私書いたっけ?」

 読まれるとは、勝手に読まれることです。

 こちらはなすすべがありません。なすがまま。茄子がママ。きゅうりがパパ。言われるまま、言うぱぱ。

 いまの駄洒落は、言葉に任せると出てきます。言葉の前でへそ天状態になるのです。思いのままにならない言葉ですが、こんなこともできます。なぜか出てくるという意味です。

 私はこういう書き方をよくします。嗜癖(しへき)しているのでしょう。辟易(へきえき)されます。

たった一人で決める、決まる

 アホが馬鹿をやるのはほどほどにして、シリアスな話に移ります。

 現実、思い、言葉。この順に重い気がします。重くて思いのままにならないのです。言うことを聞いてくれないとも言えます。

 もし現実と言葉を思いどおりにできるなら――。

 こう想像してみてください。言葉は誰でもそこそこいじれますが、それどころか、自分の言葉が決まりになり、誰もが言うことを聞く場合です。

 自分の言葉が即決まりになる、つまり法律になるのです。法律になれば、それに人びとが従います。ということは、現実もほぼ思いどおりになるのです。

 法律に従う、つまり合法ですから、法に則っているのですから、辻褄が合っているし、筋が通ってもいます。

 こういう言葉のうえでの体裁はきわめて大切なようです。これがないと人びとはついてこないかもしれません。あるいはついてくる振りをしないのかもしれません。

 言葉にひれ伏しているかのようにも見えます。見えるだけです。

 ただし思いだけはままなりません(ここでぱぱという言葉を必死に堪えます)。思いだけは思いどおりにならないのです。

 自分の感情を操ることなら、ある程度心理学的な訓練をしてできるようになるかもしれません。超一流のスポーツ選手が雇っている超一流のメンタルコーチによるコーチングもあります。

 また、そういうことが生まれながらにしてできる人も稀ながらいるだろうと思われます。とはいえ、自由に夢を見るとか、夢の中で自由に振る舞える人はいない気がします。その意味で思いはままならないと言えそうです。

 もし現実と言葉を思いどおりにできるなら――。

 自分がそうだと思いこんでいる人がいるとすれば、最高権力者でしょう。軍隊の指揮権も握っているはずです。まわりには「はい、そのとおりでございます」と言う人しかないという状況ですね。

 自分の言葉が即決まりになる。

 ある意味大変でしょう。相当メンタルが強くないとそういう決断は下せない気がします。論理的でもなければならないでしょう。

 巨大な組織や軍隊を動かすには論理が必要です。こういう立場での意思決定はかなり論理的でなければ物事を動かせないし、だいいち部下が困ります。論理的が理性的である必要は必ずしもない気もします。倫理的である必要はないでしょう。

 正気かどうか、これは価値判断ですから、何とも言えません。逆にいえば、何とでも言えるという意味です。じっさい、そうですね。諸説あり。

 正気かどうかは不明ですが、本気であることは確かです。絶対的な権力を握った者の本気は恐ろしいです。

 自分のストーリーつまり筋書き、自分の物語つまり歴史を、言葉にしていく。これが、この最高権力者の辻褄合わせであり、筋を通すという仕事になります。

 自分は歴史を作るのだ。そう信じていないとできない作業でしょう。

 自分の言葉が即決まりになる。自分の言葉が現実になる。自分の物語が歴史になる。

 とんでもない話ではないでしょうか。

 たった一人で「決める」、これが「決まる」になるのです。ひいては「決まり」になるのです。

 人が「決める」はありです。ざらにあります。でも「決まる」は人の領域ではない。そして、おそらく筋もまた、人の領域ではない。筋違いなのです。

 そうあってはならない。いまはそれしか言葉が浮かびません。