星野廉の日記

うつせみのあなたに

純粋な描写

 学生時代の話ですが、純文学をやるんだと意気込んでいる同じ学科の人から、純文学の定義を聞かされたことがありました。

 ずいぶん硬直した考えの持ち主でした。次のように言っていたのです。

・描写に徹する。
・観念的な語を使わない。たとえば、神、愛、心、魂、真理、真実、心理、(哲学的な意味での)存在。
・固有名詞、とくに著名人や名所の名前はできるだけ避ける。
・決まり文句と定型を退ける。
・比喩を使わない。

 たしかこんな観念的なことを熱っぽく語っていました。

 いまこうやって思いだして書いてみると、魅力的なスローガンに見えてきます。そんな文章を書いてみたいという気持ちになるのです。

 それどころか、自分の中で理想とする文章があるとすれば、まさにそうしたものではないかとすら、思えてくるのです。

 透明な文章、零度の文体、純粋な写生文、なんていう言葉とイメージが浮かんできます。

 そういえば、その人について思いだしたことがあります。

「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか? 家族を登場させないで、家族を描いてみないか?

 そういう意味の誘いを受けたこともありました。もちろん、受け流しましたが。

 面白い人であることは確かでした。いまどうしているのでしょう。会ってみたくて仕方ありません。

 以前にいたnoteというサイトではタイムラインに「あなたへのおすすめ」という記事の紹介が出ますが、マッチングアプリみたいでどきどきします。

 あれをたどって記事を見に行くことがよくありました。あと、ぜんぜん知らない人からスキをもらうと見に行くのですが、そのときに心惹かれたのが、上で述べた純粋な写生文なのでした。

 淡々と行動をつづった記事、風景や物を簡潔に描写した記事、製品や仕組みの説明文に惹かれます。

 上記の私が気に入り感動した記事には共通点がありました。スキが少ないことです。

 残念な気持ちと、それいいのだという思いの両方をいだきます。

 レトリックだけでなりたっているような文章を書きたいと思う時があります。

 内容なんて無い様なもので、物と事の有り様がきわだつ。ただ言葉の形と模様と動きだけがきわだつ文章。そんな文章は「ありえない文章」と言うべきでしょう。

(拙文「言葉の綾を織っていく」より引用)

 レトリックだけでなりたっているような文章を書きたいと思う一方で、レトリックをできるだけ排した描写文を書きたい気持ちがあります。根強くあるのです。

 いま書いた文ですが、「根強くあるのです」は不要です。これが私の言うレトリックの一例です。でも、そう書いてしまうのです。削除しません。

 気質なのでしょうか。「気質」のように観念的な言葉で片づけてはならない気もします。自己暗示にかかるからです。

 明治時代以前の日本の伝統的な絵画では、絵画の絵画という描き方があったそうです。

 物を見て描くのではなく、自分の属する流派の先行する作品を見てそれを真似て描くという方法らしいのです。

 西洋の絵画でもこうした描き方があったようですね。詳しいことは知りませんが、興味深い話です。

 文章でも、先行する文章や同時代の既存の文章を読むことで書き方を真似て覚えるということがあります。

 読まないことには詠めない。読まないことには書けないのです。

 絵画の絵画というのは、文学でもあるという意味です。

 私は詩を書けず、詩には詳しくないのですが、noteに来てから読むようになりました。

 詩でいうと、詩の詩みたいな詩があるように感じます。詩というもの感、詩っぽさ、詩らしさが漂う作品のことです。

 概念や観念が先行するという言い方がありますが、イメージが先行している気がするのです。

 やってる感だけといえば、失礼ですが、その感は否定できません。

 詩が書けない、詩を知らない者が外から見た感想ですので、ご勘弁願います。

 詩に限らず、小説でも、エッセイでも、評論、批評などあらゆるジャンルで言えるのではないでしょうか? 

 私なんか、その最たるものです。偉そうなことを言って申し訳ありません。

 私はレトリックだらけのエッセイの他に小説を書くことがあります。

 小説ではレトリックは極力避けるのですが――ここで笑わないでくださいね、本心で言っています――、小説っぽさ、文学っぽさというやっている感に満ちた自分の文章に嫌気がさすことがあります。 

 小説の小説、文学の文学になっているのです。

 小説っぽさ、小説感、詩っぽさ、詩感、文学っぽさ、文学感、哲学っぽさ、哲学感、芸術っぽさ、芸術感。

「ぽさ」と「感」だけに感じられる文章があります。感じるだけですから、印象です。個人的なものですから、検証不能です。

 似たもの、似せたもの、似せもの、にせもの。区別不能

 コピーのコピー、複製の複製、振りの振り、刷りの刷り、引用の引用、陰陽の陰陽、フリフリ、スリスリ。

 複製拡散時代では、本物と偽物のさかいが不明。起源や本物の意味も消失。

 世界同時同期。

(拙文「シンクロにシンクロする」より引用)

 名前と名詞は恐ろしいです。たとえば、哲学という言葉がちりばめらた文章、哲学というタグのついた文章があると、そこに哲学があると感じてしまうのです。

 必ずしもそうであるとは限らないのにです。たとえば、日記というタグの文章に哲学を感じることが私にはよくあります。

 タグやジャンルは、ある意味罪なものです。レッテルの強さにはなかなか勝てません。

 書いているものが文章ではなく、ぽさ、らしさ、的になってしまうのは、レッテルつまり名詞と名前のとてつもない強さがあるからです。

 あなたがいま何かを書いているとします。

 これを書いたら詩らしくない(小説らしくない、文学らしくない)のではないか。

 こういう書き方をしたら、詩的ではない(小説的ではない、文学的ではない)ではないか。

 そんな思いがあるとき、イメージとレッテルに流されているのではないでしょうか。

 ものを見る、考える、言葉を選ぶ、言葉をつづる。そうした地道で具体的な作業から離れているのではないでしょうか。

 イメージやジャンルの名称や顔の見えない誰か(たち)に忖度して、ものが書けるでしょうか?

 以上は私が自分に言い聞かせている言葉です。

 小説っぽさ、小説感、詩っぽさ、詩感、文学っぽさ、文学感、哲学っぽさ、哲学感。

「ぽさ」と「感」はイメージであり印象です。イメージや印象はコピーのコピーなのです。

 そこには本物と偽物のさかいはありません。起源や本物も意味をなしません。これが複製拡散時代なのでしょう。

 よく考えると今始まったことではなく、人が言葉を持ったときにもう始まっていた気がします。

 事物や光景を見て、それをその場で言葉にする。あるいは記憶をたどり定型を退けながら、それを言葉にしていく。

 まさか。それは抽象でしょう。共有物である言葉には既にさまざまな垢がこびりついています。しかも、その垢は見えません。

 それだけでは済みません。他者(多数います)は言葉ではなくその垢を読んでしまいます。それが「読まれる」です。ままならないのです。

 純粋な描写。これは理想でないでしょうか。その意味ではありえない文章だという気がします。

 私の言う純粋な描写とは、小説っぽさ、文学っぽさから遠く離れたものであるかもしれません。夢なのです。