星野廉の日記

うつせみのあなたに

筋を通すために黙らせる

欠くから、書くへ

 現在は、偽物と似たものと似せたものと似ているものの境目が不明になっている時代だと感じられます。

 本物はありません。現物もありません。ヒトもほかも生き物たちも、知覚機能という代理を使わないと、世界に触れることができません。ヒトとヒト以外の生き物たちにとって、世界はたどり着けない偽物なのです。

 ヒトはプライドが強い生き物ですから、偽物という言葉に抵抗を感じるでしょうから、似たもの、似せたもの、似ているものと言い換えてもかまいません。

 世界と触れあえないヒトにはもうひとつ、世界に触れるために使っている代理、つまり偽物があります。それは言葉です。これはヒト以外の生き物には使えないとされています。

 言葉を話し言葉と書き言葉に分けて考えてみましょう。表情や身振りや仕草といった言葉をとりあえず無視してみます。したがって、残念ながら手話も割愛させていただきます。申し訳ありません。

 話し言葉はたちまち消えます。まさに話すは放すなのです。人を離れた瞬間に消えます。録音することが可能ですが、録音した音声も、再生したとたんに消えます。

 話し言葉でせっかく何かを決めても消えるのです。決めても消える。消えるのは決め手を欠くからです。そこで書くのです。

 欠くから書くへ。

 何かが足りないから補ったというわけです。大したものです。大昔は、書くが掻くだったという説があります。木や石や土を引っ掻いて印を付ける。

 決めるが消える。

 決めても消える。決め手を欠くから引っ掻いて書く――。ただし諸説あり。

 冗談はさておき、書き言葉というのは大したものです。なにしろ残るのですから。

 決めたことも残らなければ意味がありません。話し言葉だとたちまち消えます。口約束なんてするものじゃないのです。書けば残ります。

 約束、契約、誓い、宣言。こうしたことはすべて決めることです。取り決める、さだめる、ちぎる。

 具体的には、握手、挙手、手締めをともないますが、手を使うことに注目しましょう。文字は、ふつう、手で書きます。これが決め手です。

本物の偽物、偽物の本物

 冗談はさておき、書き言葉である文字も、話し言葉である音声も、現物でも本物でもなく、偽物、言葉が悪ければ似せたもの、似ているもの、似たものです。

 これしか本物に似たものがないと言えますが、これこそが似たものだと言えば、元気も出るでしょう。これぞ、似たもの。本物に似たものはこれしかない。

 どうですか。元気が出ましたか? 言葉が素晴らしいものだと実感できましたでしょうか? 

 ほかにないの? 仕方ないなあ。そんなふうに思う方もいらっしゃるにちがいありません。

 では、代わりに、代理でどうでしょう? 似たようなものですが、こっちのほうがいくぶん格好がつくかと思います。偽物としての世界じゃなくて、代理としての世界のほうが、響きも字面もよろしいようです。

 偽物、これしか本物に似た物はない。代理、あくまでも代役でしかない。

 それでも取り替えがきかない偽物・代理があるのです。言葉です。

 言葉は掛け替えのない偽物であり代理だと言えそうです。ほかにこんなものがありますか?

 現在は偽物と、似たもの、似せたもの、似ているものの区別が不明になっている。

 知覚されたものも、言葉も似ているもの、似せたもの、似たもの、つまり代理であるのに加えて、その代理を複製するという形で情報と化した映像と、言葉の複製の複製、つまり文書や録音された音声が、電波やネットをとおして世界中にさらに複製され、同時に拡散している。

 ややこしくてごめんなさい。

 言葉が知識から情報へと出世魚のように名前を変えたから、ややこしくなったのです。

 たとえば、みなさんがテレビやネットのニュースでご覧になっている映像や音声やテキスト(文書)のすべてが現物ではなく、複製の複製であると言えば分かりやすいかと思います。

 映像もテキストも情報なんです。情報は瞬時に複製・拡散できるという特徴を備えています。弱点は、どれが本物の偽物かが分からなくなっていることです。いまや、本物の偽物(本当の偽物)と偽物の本物(フェイクの本物)があるのですけど、見分けがつかないという意味です。

 いまや、本物とは、本物だと決めるか、本物だと信じるしかないとも言えます。じっさい、そうなっているようです。現在の世界の状況を拡散された偽物と代理をとおして見ているとそんな気がします。

 どことは名指しませんが、信じられないようなことが起きています。誰とは言いませんが、信じられないような考え方をしている人たちがたくさんいます。でも、それはあくまでも私が信じられないだけなのです。

なんで言葉にひれ伏すのか

 すべてが言葉なのです。言葉として処理されます。言葉である名前と、言葉からなる短めの文章が残れば、それが歴史に名を残すことになります。

 誰もが生まれたときに、既に言葉たちがありました。自分の外にある言葉たちを、真似て学んで身につけたのです。どうやら死んだあとも、言葉たちが残るらしい。ある意味で言葉たちは永遠だ。不滅だ。その言葉たちに、自分の名前と短文の自分のストーリーを残したい。

 そのためには、言葉をおろそかにはできない。辻褄を合わせておけば、自分の名前と自分の偉業が言葉として残るにちがいない。

 なんで? なんで、最高権力者、つまり代理が偽物(あるいは似たもの)にひれ伏すのでしょう? 

(拙文「どうして嘘をつくのか」より引用)

 なんでなんでしょう?

 言葉は神である。なにしろ、最初に言葉ありきだし。

 こういう短絡はしたくありません。いかにも予定調和的なシナリオです。神や神秘という言葉はブラックボックスのようなもので、そこで話が止まります。思考停止と判断停止をもたらすという意味です。

 黄門様の印籠のようなもので、これが見えぬかと見えを決められると、とたんにものが見えなくなり、へへえーと頭を垂れ、黙るしかなくなるわけです。

「見えぬか」と見えを決められたとたんに何も「見えなくなる」印籠あるいは引用。

 権力と権威は近いと言わざるをえません。引用とは威を借りることなのです。文章だけに限りません。固有名詞こそが最小最短で最強の引用でもあります。

名前と物語を残す

 なんでなんでしょう? なんで、最高権力者、つまり代理が偽物(あるいは似たもの)にひれ伏すのでしょう? 

 言葉、とくに文字が残るからかもしれません。

 詳しく言うと、言葉が人の外にあって、中に入って来ることもあり、中にあろうと外にあろうと、つねに外であるからかもしれません。

 言葉が残るというのは、つねに外にあるという意味です。つねに外であるとは、人のもののようで、ものにできないという意味です。手にしているようで手に負えないのです。

 こんなものってほかにありますか? 

 なにしろ、誰もが生まれたときに、既にあったものです。それを真似て学んだのです。刷り込まれたとか学習したものと言い換えると、その大切さとしつこさが体感できるのではないでしょうか。

 絶対的な権力を持っている代理人も、刷り込みと学習には勝てないのかもしれません。刷り込みや学習も予定調和的な印籠で、思考停止と判断停止をもたらすことに敏感でありたいと思います。

 言葉を無視するわけにはいきません。自分が死んでも残るのなら、ただ名を残すだけでなく、辻褄と合わせて体裁を整えた言葉とセットにして残したいのが人情ではないでしょうか。

 ひれ伏さずにはいられません。崇めないなんてありえない。

 名を残すなんて、最初に言葉ありき並みの短絡になりましたが、とりあえずはそんな気がします。詳しく言うと、自分の名前と自分の物語を残す、です。歴史に、です。歴史も物語であり言葉として語られます。騙られもします。

 フランス語では、日本語の物語と歴史に相当する言葉が同じだったります。だから何?という話ですけど。

 いずれにせよ、言葉として残すしかありません。言葉を重んじるしかありません。言葉に頼るしかありません。

残すために黙らせる

 名を残す、つまり自分の名前と自分の物語を残す前である、生きている間にはひたすら黙らせることに集中します。

 自分にとって都合の悪い言葉を吐く人、自分にとって都合の悪い言葉を書く人、人だけでなく、そうした言葉を複製し拡散する機械も消すのです。

 黙らせるのです。自分の筋を通すために黙らせるのです。

 言葉を消す。人や機械を黙らせる。人なら拘束するか殺めるのです。殺めれば永遠に黙りますから、権力が強大であるほど、こっちを選ぶでしょう。自分の決めた言葉だけが残っていれば、それでいい。

 そのためには言葉を重んじなければなりません。言葉を話し、書きとめ、文字にして、残すのです。残すだけではなく、複製拡散する。

 その身振りが、言葉にひれ伏すように見えたとしても、気にならないのでしょう。そういう自分の姿が本人(あるいは本人たち)には見えていないのかもしれません。

 見えていないから怖いのです。自分の姿が見えていない強大な権力ほど怖いものはなさそうです。おそらく代理である自分が代理であることを忘れたついでに、言葉が代理であることも忘れたのではないでしょうか。

 代理、正確に言うと「代理であること」あるいは代理性は、きっと人を超えた存在です。だから忘れるのです。「代理であること」が空回りし、自転しているのかもしれません。

 非人称的とか匿名的という言葉も頭に浮かびますが、これも神と同じくブラックボックスであり、予定調和的で使いたくはありません。

 それは偽物が空回りし、自転するのにそっくりなのです。人の思惑を離れて、勝手に回り続けるのです。

 たぶん、筋があるのです。筋書きと物語があるような気がします。この筋を論理と呼ぶ人もいそうです。論理は筋を成りたたせる最小の要素なのかもしれません。偽物であり代理である言葉は、この筋と親和性があるのは確かでしょう。

 なお、筋もまた、偽物でしかありえません。「これは本物の筋だ」と自分で決めて、自分で信じるしかないようです。ほかの人に決めてもらって、それを信じるほうがずっと楽ですけど。

「残すために黙らせる」とは、きっと「筋を通すために黙らせる」のです。その筋が特定の「私の」と「私たちの」であるときに、悲劇と惨劇が起こるのではないでしょうか。

 自分(たち)の筋を通すことができるだけの権力(もちろん武力も込みです)を手にしたと信じている人(たち)の恐ろしさはそこにあります。筋を通したり言葉の上だけの辻褄合わせをするほうが、人の命よりもずっと大切な人がいるのです。