星野廉の日記

うつせみのあなたに

うつせみのあなたに

ガラス。硝子。ビードロ。ぎやまん。

 ガラスという言葉で、ビードロという言葉を思い出しました。あれもたしかガラスじゃないか――と辞書で調べてみるとポルトガル語から来ているらしいのです。

 西洋の事物が日本に渡来する順では、ポルトガル語が先でオランダ語が次だと学校で習った記憶があります。キリスト教の布教と経済活動つまり交易が目的だったわけですね。

 ガラスを意味する上の言葉の中では「硝子」が気に入っています。

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 ガラスという意味である「ぎやまん」という言葉は、ダイヤモンドから転じたと辞書に書いてあります。ガラスを切ったり削ったりするのに硬いダイアモンドを使ったことから、ダイアモンドを意味するオランダ語diamant、またはポルトガル語diamãoが訛って、ぎやまんとなったというのです。

 辞書の記述によく見られる「転じた」とか「または」とか「訛る」という言い回しが好きです。要するに、とりかえが生じたわけです。

 最も硬いといわれる透明の石で透明なガラスを切ったり削るなんて、綺麗なイメージですね。天然の石で人造の石を切ると考えると、猟奇的でエロチックな感じもします。そこから「ぎやまん」という綺麗な字面で綺麗な音の言葉が生まれたなんて、これまた綺麗な物語だなあ、なんて感心します。

 ぎやまん。とりかえ。転。訛。

 とりかへばや物語

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 辞書や言葉の由来の事典で「ぎやまん」という言葉の由来を説明する口調は、いかにも歯切れが悪いですね。

 Aという言葉はね、本当はBを意味する言葉なの。Aを作るのにBを使ったから、そうなっちゃったわけ。変でしょ? ごめんね。あはは。

 それだけじゃないの。Aと呼ぶのはCが訛ったか、Dが訛ったか、よくわかんない。でもね、CもDもきょうだいみたいなもんだから、間違えるのが人情じゃないこと? どっちでもいいようなもの。害はないでしょ? 我慢してね。あはは。

 あはは、なんて笑って誤魔化すな、と言いたくなります。ま、笑っているかどうかは別にして、体裁を取りつくろっていることは確かですね。

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 とはいうものの、「転じる」、つまり「すり替わる」と「とりかえ」が起こる。「または」とは、要するに「わかんない」。「訛る」なんて、口のまわらない幼児が「こども」を「ころも」と言うように愛嬌があって可愛らしい。

 人と言葉がともに生きていると感じます。

 人は常に辞書を持って話したり書いているわけではありません。言葉の規則なんて後付け。いま生きている言葉をめでましょう。

 ビードロ ⇒ ぎやまん ⇒ がらす(硝子)・グラス

 出世魚みたいですね。揺らぎ、移り変わっていく言葉。いや、むしろ変わっていくのは言葉と事物の間の対応だと言うべきなのでしょうか。もっと正確に言えば、揺らぎ移りゆくのは人の心のあり方なのかもしれません。

うつせみのあなたに

 この記事のタイトルをご覧ください。「うつせみのあなたに」とあります。これは、十三年ほど前に私がほぼ一年間続けていたブログのタイトルなのです。(※このブログ記事は電子書籍化されていて無料で閲覧とダウンロードができます。)

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 うつせみは、現身(現人)とも空蝉とも表記されます。なぜ、二通り(三通り)の漢字の表記があるのかなのですが、ちょっとややこしいですので結論から書きます。

 いまこの世にいる人間である貴方に
 いまのこの世の彼方に(向こうに)

 蝉の抜け殻のような身である貴方に
 蝉の抜け殻のような状態の彼方に(向こうに)

 このように四通りの解釈が可能なのです。

「うつせみのあなたに」というひらがなだけの言葉を漢字をまじえて表記すると、これだけの意味になりうるということは、ひらがなの表記は多義的とか多層的であると言えそうです。意味が曖昧だとか幾通りにも取れるとも言えますね。

 私は多義的なものや曖昧なものが好きなので、「うつせみのあなたに」という言葉を愛しています。さらに言うと、「うつせみ」の「うつ」に、かつてうつ病と診断され、いまでも抑うつ状態に悩まされている自分、つまり「うつで苦しむ身・鬱を背負う身」を重ねないではいられないのです。

 うつせみ、現身、現人、空蝉。

 鬱背身。

 そんなわけで「うつせみのあなたに」をブログのタイトルにしていたのです。というか、タイトルとして、この言葉をお借りしたと言うべきでしょう。言葉というものは私が生まれた時にもうありました。

 私は言葉を借りているだけです。私のものではありません。言葉はみんなのものです。

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 うつせみを細かく見ていきましょう。ここからの説明はちょっとややこしいので、ざっと目を通していただいてもけっこうです。

「うつせみ」をちょっと大きめの国語辞典で引いてみてください。ネット辞書でもかまいません。

 中には「空蝉」と「現身(現人)」の関係について歴史的な経緯が書かれている辞書もあるでしょう。

「訛って(要するに、口が回らなかった)」「転じて(要するに、間違えた)」「と解釈して(要するに、勘違いした)」「字を当てて(要するに、当て字であり感字)」とか書いてあるかもしれません。

 もうちょっとややこしい話になりますが、坂部恵著『仮面の解釈学』(東京大学出版会)という本をお読みなれば、うつせみについて哲学できます。すごい本だったという記憶があります。何しろちゃんと日本語で哲学しているのですから。

 日本語でちゃんと哲学している(してきた)人は少ない気がします。何語で哲学しようと、あるいはしまいとその人の勝手ですけど。

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 まとめると、ふたつの「うつせみ」――つまり「空蝉」と「現身(現人)」ですが――を取り違えた、早い話が「間違えてしまった」のです。

 いまこの瞬間にも起こりつつある、言葉のずれや変化。私はこれを「国語の乱れ」だとは思いません。言葉は生きているから揺らぐし変わるのです。正確にいえば、人の心のありようと人を取り巻く環境が移ろいゆくのです。

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 ところで、辞書では現身(現人)の語源の説明で「うつせみ」は「うつし(現)おみ(臣)」となっているものがあります。それを見ていて「おおおみ」「大臣」という言葉を連想しました。 

 いつか、おみがおおおみになるのではないか。

 誰かがやらなければならない難しい任務に携わっていらっしゃいますね。関係者各位の間に立ってあれだけ奮闘なさっているわけですから、無きにしも非ずだと思いました。

山のあなたの空遠く

 私が「あなた・彼方・貴方」のうちの「あなた・彼方」に出会ったのは、上田敏訳の「山のあなた」(『海潮音』より)というカール・ブッセ(上田敏はカアル・ブッセと表記しています)の詩を読んだときでした。この詩はネット上の青空文庫でも読めます。

 以下にその詩を引用しますが、ルビは丸括弧内で処理しています。

山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

Über den Bergen weit zu wandern 
Sagen die Leute, wohnt das Glück. 
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 
kam mit verweinten Augen zurück. 
Über den Bergen weti weti drüben, 
Sagen die Leute, wohnt das Glück. 

 残念ながら私はドイツ語にはぜんぜん詳しくありません。原文で脚韻があることはかろうじて認められます。欧米の定型詩で見られる音節の数も合わせてあるのでしょうか。

やまのあなたの そらとおく
さいわいすむと ひとのいう
ああわれひとと とめゆきて
なみださしぐみ かえりきぬ
やまのあなたの そらとおく
さいわいすむと ひとのいう

 このようにひらがなだけで表記すると、日本の定型詩である短歌や俳句の基本リズムである、七・五調で訳されていることが分かります。

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「彼方(かなた」」といえば、私はユイスマンスの『彼方へ』(原題は Là-Bas または Là-bas )を思い出します。この小説は悪魔崇拝がテーマで、例のジル・ド・レの話も出て来ます。田辺貞之助訳の『彼方へ』はまだ二階の書棚にあります。

 細かい文字(註の文字がさらに小さくて読みにくい)の創元推理文庫版です。さっき二階に上がって見てきましたが、もう古くなった文庫本は色が褪せて不気味な雰囲気を漂わせていました。

 ユイスマンス澁澤龍彦訳で『さかしま』(原題は À rebours )を学生時代に読みました。これは二階にはもうありませんでした。処分したのでしょうが、いつのことか覚えていません。

「さかしま」という言葉があることは、かつてこの邦訳を手にして初めて知ったのですが、「さかさま」ではなく「よこしま」(邪悪)を連想させる「さかしま」を選んだ澁澤の語感に感心したのを(勝手な連想であり誤解なのだと思いますけど)覚えています。

『彼方へ』( Là-Bas )にしろ、『さかしま』( À rebours )にしろ、晩年に読み返すような内容の作品ではない気がします。後ろ向きすぎるのです。「彼岸に」という意味での「彼方に」には惹かれますが、個人的には「あの世」くらいのイメージであって「悟り」は求めてはいません。というか、そんな高望みはしません。

 退廃的であったり悪魔主義的なものを指向するのには、ある程度の若さとパワーが必要なのかもしれません。

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 私は高校時代に澁澤龍彦(そして森有正)に傾倒し大学でフランス文学を学んだのですが、当時よく読んだフランスの作品の訳者に堀口大學がいました。堀口訳のジャン・ジュネ作『薔薇の奇蹟』も忘れられない作品です。いまは新訳が出ているのですね。

 堀口大學といえば、次の訳詩を思い出します。冒頭だけを引用しますが、ご存じの方も多いと思います。これも七五調で訳してありますが、こういう職人芸のような翻訳が好きです。

 ちまたにあめの ふるごとく
 わがこころにも なみだふる
 かくもこころに にじみいる
 このかなしみは なにやらん

 

 巷に雨の降るごとく
 わが心にも涙降る。
 かくも心ににじみ入る
 このかなしみは何やらん?

  

 Il pleure dans mon cœur 6音節
 Comme il pleut sur la ville ; 6音節
 Quelle est cette langueur 6音節
 Qui pénètre mon cœur ? 6音節

 もっと長いのですが、原文を音読すると心地よいです。

 ポール・ヴェルレーヌの作であるこの詩は学生時代に暗唱させられました。いまでも口をついて出てきます。フランス語の授業ではやたら暗唱をさせられるのです。詩だと一編丸ごと、小説や戯曲や論文や哲学書だと一節という具合にです。それがフランス語教育の伝統みたいです。

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 第一志望ではない大学に入学した私でしたが、いま思うと恵まれた環境で勉強ができました。

 正教員には、福永武彦辻邦生(卒論の指導教授でした)、篠澤秀夫、白井健三郎、そして福永先生の愛弟子だった豊崎光一がいました。非常勤講師として、蓮實重彦渡邊守章、そして高山宏が教えに来ていました。どの先生も、手を抜いた授業や講義はしていませんでした。それが誇りです。(以上・敬称略)

 そういえば、フランス語の詩の読み方を手ほどきしてくれたのが福永武彦先生でした。

 懐古的かつ感傷的になってきたので(歳を取って体が弱ると、こういうことがよくあります)、話を変えます。

あなた(かなた)・彼方・貴方(貴男・貴女)

「うつせみ」に続き、今度は「あなた」の二重の意味について見てみましょう。

 あなた(かなた)・彼方・貴方(貴男・貴女)

 こんなふうに書けますね。どういうことなのでしょう。簡単にいきましょう。

「向こう」とか「遠く離れて」の「あなた・かなた・彼方」から転じて(要するに間違えたり、ずれたりして)、「(向こうという意味の)あっち」とか「(向こうにいる)あのかた」となり、いろいろすったもんだありまして、とにかく「you」の意味の「あなた・貴方(貴男・貴女)」が生まれたらしい。

 こういうことなのですが、ややこしいですよね。

 大切なのは「あなた」という言葉に「遠く離れた愛しいあなた」という意味が込められていることです。

「遠く離れて」と「あなた(貴方)」が二重写しになっているわけで、美しく切ないイメージの言葉です。ここだけ理解していただければ大丈夫です。

マラルメとうつせみ

 上で述べたことをまとめましょう。

 現身(現人)とも空蝉とも表記される、うつせみ。

 彼方とも貴方とも、表記できる、あなた。

 このような意味があって「うつせみのあなたに」は、次のようにも解釈できます。

 いまこの世にいる人間である貴方に
 いまのこの世の彼方に(向こうに)

 蝉の抜け殻のような身である貴方に
 蝉の抜け殻のような状態の彼方に(向こうに)

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 フランスの詩人であるステファヌ・マラルメ (Stéphane Mallarmé )のある詩の中で、私が特に好きな箇所があるので紹介させてください。「海のそよ風(Brise maraine) 」の冒頭部分です。

(原文)

 La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
 Fuir ! là-bas fuir ! ……

(普通の訳)

 ああ、肉体は悲しい! それに私はすべての書物を読んでしまった。
 逃げよう! 彼方へと逃げるのだ!

(うつせみ訳 aka アホ訳)

 うつせみは悲しいよな、やれやれ、読むものはなくなったし。
 こうなったら、逃げよう! うつせみのあなたに逃走するのだ!

 勝手な解釈で恐縮ですが、マラルメの「海のそよ風(Brise maraine) 」は、私の大好きな「うつせみのあなたに」というフレーズを具現した文学作品なのです。フランス文学を学び、この詩に出会えたことを感謝しているほどに愛着を覚えています。

 私は積極的に詩を読む習慣がなく、また詩を書かない人間でもありますが、この詩だけは別格です。

「海のそよ風(Brise maraine) 」は、さきほど触れた福永武彦先生の授業で使用した教科書に入っていました。Anthologie des Poetes du XIXe Siecle [MAYNIAL, Edouard.]  という、このアンソロジーは今も大切に保存しています。褪せてくすんではいるものの、古い本独特のいい香りがします。しばらくパソコン脇に置くことにします。