星野廉の日記

うつせみのあなたに

相手を人として呼ぶ

ひとり相撲

 まず、以下に拙文「見える言葉、見えない言葉」から引用します。

 猫や犬といっしょにいるときに、その表情や仕草や鳴き声を真似て、コミュニケーションを試みることがありませんか? 私はそういうのが大好きです。

 犬や猫を相手にしているときには、書き言葉は完全に忘れます。その存在すら頭にはありません。話し言葉は別です。相手に話しかけている自分がいますが、通じているかどうかは分かりません。むしろ通じていないほうが多い気がします。

 犬や猫の表情や仕草や鳴き声を真似るのは意外と難しいものです。真似たところで、これもまた通じていると思えないほうが多いです。ひとり相撲をしていると感じます。でも、めげずに頑張ります。愛おしいからです。

 猫や犬にとっての「似ている」と、ヒトの「似ている」は違う気がします。大きく異なるようです。つながっていないのです。

 ヒトである自分が「似ている」という言葉で、無理につなげようとしているだけ。そんな思いに駆られます。言葉は、ヒト以外の生き物にはまず通じません。言葉の喚起するイメージでの共通点すら感じられないのです。

 引用は以上です。

 身も蓋もないことを書いて、ごめんなさい。でも、本心なのです。

 今回は、ヒトが、ヒト以外の生き物と無生物を相手にするときに使う言葉について考えてみます。


ヒト以外の生き物や無生物を相手にするとき

 人はつねに意味とイメージとともに生きていますが、意味とイメージを意識することはありません。人にとって当り前の存在だからでしょう。意味とイメージは空気みたいなものだという言い方もできると思います。

 ところが、ヒト以外の生き物や無生物を相手にするとき、意味とイメージが立ちあらわれます。

 正確にいうと、ヒト以外の生き物や無生物を相手にするとき、ヒトは意味とイメージについて考えないではいられないのです。

 意味とイメージが通じない存在を相手にしているからです。ヒトにとっての絶対的な他者を感じるとも言えるでしょう。ヒトにとっての絶対的な他者とは、意味とイメージを共有できない相手です。

 話しかけたり、表情や身振りで何かを訴えたとしても、それが通じているかは確認できません。ましてや検証など不可能です。相手の反応を見て、勝手に想像したり決めつけるしか方法はないのです。

 たとえば、「この子と私は心が通じている」と信じるしかないという意味です。

「この子」とはペットであったり、人形であったり、物であったりしますが、「この子」という言い方は人によって異なるでしょう。「この人」や「あなた・おまえ・きみ」の場合も考えられます。

 いずれにせよ、話しかけるのであれば、人と見なしている部分が多かれ少なかれあるはずです。擬人とも言いますね。

 人はありとあらゆる目に見えるものや目に見えないものを言葉にしています。名づけている、つまり名前を付けているわけですが、「品詞」という誰かが決めた分け方を無視すれば、あらゆる言葉が名前と言えます。

 名前を付けた時点で人は、その対象を擬人していると私は思っています。ひとさまのことは知りません。

 自分が猫や犬と接するときに感じるのですが、擬人化は避けられないと思います。

 ヒトとヒト以外の他者(生き物や物)との接し方の基本には擬人化がある気がします。ヒトは擬人という愛し方しかできないのかもしれません。

(拙文「意味が立ちあらわれるとき」より引用)

 名前を付けるという行為は、その対象を呼んでいるのです。「ねえ、〇〇さん(ちゃん・くん)」という感じでしょうか。呼び捨てとも考えられますけど、話しかけるのですから、呼び捨てはここでは考えません。

 名づけるのは、相手を手なずけて、できれば飼いならそうという魂胆があってすることだと思われるからです。名づけるまでは下手に出ているのです。ところが名づけたとたんに、人は相手を見くだします。

 ちょろいものだ、と。後に復讐されることもあるのは、みなさんご存じのとおりです。相手は、ぜんぜんちょろくはないのです。


大きなもの

 海は大きいですね。しかも、地球上を被っています。つながって被っているのですから、とてつもなく大きいです。

 その海を「海、うみ、ウミ、umi」と二音節、漢字で一文字、ひらがなとカタカタで二文字、ローマ字で三文字で名づけ、呼んでいることに本気で驚いても罰は当たらないと思います。

 いまのは半分冗談ですが、半分本気で言いました。日本語でも英語もフランス語でも、どんな言語でもいいですけど、あれだけ大きなものをたぶん短い言葉で呼んでいるはずです。

 人間にとって基本的な言葉ほど短い傾向があるからです。難しい話ではなく、辞書を見ると分かります。読むのではなく見るのです。短い言葉ほどたくさんの語義や例文があります。長い言葉ほど、語義や説明は短いのです。

 辞書を目を細めてぱらぱらめくると一目瞭然ですので、ぜひお試しください。電子辞書ではなく、紙の辞書です。

 海というあれだけ大きなものを、ひとまとめにして海という小さな言葉で名づけているわけですが、海はいろいろな部分からなりなっています。

 さまさまな状態の波、さまざまな状態の海水、さまざまな状態の潮の流れ、さまざまな状態の風、さまざまな地形の海底……。

 私は生まれてから海を見た経験が十回以下なので、海について実感できることはきわめて少ないのですが、海のさまざまな部分には名前がついていて、それぞれのさまざまな状態にもそれを表す名前や言い方があるようです。

 山も川も湖も平野も何でもそうにちがいありません。

 海という言葉、つまり名前が抽象的なものであることが分かります。言葉では現実がすくい取れないからです。言葉は現実に追いつけないからです。

 数でも重さでも大きさでも深さでも、圧倒的に言葉は足りないし欠けているからでしょう。言葉は軽く、すっきりしていますが、すかすかということです。中身がないから当然です。言葉は空っぽの器なのです。

 その器に何かが入っているとか、一杯だと考えるのは人だけです。これは、ギャグなのです。ヒトにしか通じないギャグです。


小さなもの

 小さなものはどうでしょう。たとえば、米粒、砂粒、ダニ、プランクトン、ごま粒……。

 詳しくないので、言葉に詰まっていますが、小さなものにも部分があり、その小さい状態はたまたまそうなのであって、数日前、数か月前、数年前、数十年前には、異なっていたにちがいありません。

 そもそも存在していなかった、つまり原子や分子レベルで別のものであった可能性が大きいです。

 小さなものも馬鹿にできないという意味です。万物は流転するという言葉を思いだします。

 名前とは、たまたまのもの、一時的な状態を指していることが分かります。小さなものも、言葉ではすくい取れません。


森羅万象を名づける、手なずける、飼いならす

 人はありとあらゆるものを部分に分けて名づけたり、ある一時的な状態だけをとらえて名前をつけているようです。

 勝手にやっているだけです。ひとり相撲なのです。ヒトにしか通じないすべりまくりのギャグをやっているとも言えるでしょう。ヒトは地球では孤独な存在ではないでしょうか。

 なんで名づけるのでしょう。やっぱり手なずけて、飼いならすためだとしか思えません。平たく言えば、ちょろいものだと思いたいのです。それとも寂しいのでしょうか。

 何をちょろいものだと思いたいのかと言えば、森羅万象であり、世界であり、ひいては宇宙でしょう。ヒト以外のすべてをひっくるめて、言葉にしたいのです。

 言葉にすれば、辞書や事典や図書館やパソコンのハードディスク内に収めることができます。

 ちょろいものだ。

 ちょろいものだと思うためには、自分つまりヒトと似ていなければなりません。自分の土俵に呼ばないと、人は相撲が取れないのです。

 これは持論なのですが、人には人つまり自分に似たものしか見えない気がしてなりません。森羅万象を目にしたとき、聞いたとき、嗅いだとき、触れたとき、口にして舌で味わったとき、人はそれが「何か」であってはならないのです。

 その「何か」に出会ったとき、人はとりあえず、ある部分だけを見て、ある一時的な状態だけに注目して、とっさに名指すのではないでしょうか。

 名指すとは「何か」に呼びかけることなのです。それが擬人の第一歩だという気がします。

 名を呼んだとたんに、「何か」が「何か」ではなくなるのです。これほどほっとすることは、人にはないだろうと思います。

 人は言葉の世界にいるのではないでしょうか。人だけが、と言うべきなのかもしれません。言葉を手にすることで、人はこの星でひとりっぼっちになったのかもしれません。

 うみやまと あいてをなづけ ひとひとり